暁の彼方〜お題 新婚さんに贈る七つのお題〜



4 相談はコウノトリに

 季節はずれの大雪は一月もたたないうちに、グリジアの大地から姿を消した。何本かの川の下流では出水騒ぎが起こって、またあるところでは収穫直後の作物が水を被って使いものにならなくなったりはしたものの、それもあらかじめ<黒宰相>がある程度予測して対処をしていたおかげで、最小限の被害に食い止められたらしい。雪がとけ、再び荷が動き出したグリジア王国は再び、以前と変わらぬ活気を取り戻しはじめていた。
 ――今日はまた、随分と食欲がないようだ。
 グリジア王国王宮内にある宰相官邸で、朝餉の給仕を行いながら、エリザは自らの女主人である相手をそう分析した。現在の宰相夫人はテラ・グラディス。おおよそ半年ほど前、宰相ルーカス・グリジアが、自ら王族の籍を離れてまで妻に迎えた踊り子――というのは実は他者を欺くための方便で、彼らの間に一言では語りつくせぬほどの因縁と感情があったことを、エリザは重々承知している。
「……お加減がよろしくないのですか?」
 母を殺した仇を狙い、思いつめた目をしていた少女はこの数ヶ月の生活で、以前よりも頬に肉がつき、よく微笑(わら)ようになった。<戦乙女>と呼ばれた母親が、よほど思いをこめて育てたのだろう。気性は真っ直ぐで、歪んだところがまるでない。おまけに、女が一番美しく見える時期に差しかかってきただろう。日に日に肌がしっとりと艶を増し、大分伸びてきた髪の先が触れる襟首など、まさに匂いたつかのようだった。
 それが今、朝食のスープの皿を前した目の縁に、うっすらと隈らしきものが浮いている。すっかり雪が消えた庭にむける視線も、どことなしか虚ろだ。
「テラ様」
「あ、す、すみません。もしかしたら、少し風邪を引いたのかも。前にテリーゼ様からいただいた薬湯が残っているから、少し休めば――」
「いけません」
 無理な笑顔で早口にそう言って、席を立とうとするのを強引に押しとどめる。身分上は宰相の妻と側仕えの老女だが、この半年間の二人だけの共同生活で、隔たりはほとんど取れている。
「はい?」
「もしかしたら、おめでたいことやもしれないのですから、むやみに薬湯などはなりませんよ」
「え?」
 エリザの言葉は、新婚数ヶ月の奥方に対するものとして、決して間違ってはいないものだった。だがその言葉を聞いた途端、テラは、一瞬、信じられないことを聞いた、とばかりに目を見開いた。
「え?ま、まさか、そんなことありえません!」
 みるみるうちに耳の辺りまで真っ赤になり、首をぶんぶんと振って否定している。まさか、とは思う。まさか、とは思うが、この様子では……。
 ――まったく、何を考えておいでなのですかね。ルーカス様は。
 エリザが一瞬、主たる若者に思いを馳せた瞬間、ぱたりと透明な雫が、テラの頬を伝って落ちた。
「――あの人、わたしに償うつもりでいるのかもしれない」
「そんなことは……」
 彼女がこの邸で暮らすようになってから、夫となった若者は、忙しい政務の合間をぬって、しばしば帰宅するようになった。彼が持ってきた珍しい焼き菓子や花の種も、もう随分とたまった。どこか照れたようにそれらを受け渡す姿が、恋を知り初めた少年少女のように初々しくはあったけれど、そこにどこか、腫れ物に触るようなぎこちなさがあったことは否めない。
 テラの母親はかつて、<黒宰相>であるルーカスの策略によって命を失った。母親の仇と彼の命を狙っていたテラは恨みを捨て、彼と共に生きる道を選らんだ。だが彼女の側の蟠(わだかま)りが消えたとしても、ルーカスの側のしこりは永遠に消ることはないだろう。それは自ら手にかけ、人の命を奪ったものが終世背負い続ける枷だ。
 無意識かもしれない。いや、無意識だからこそ性質が悪いということもある。テラをこの邸に留め置いてからの半年あまり、ルーカスが見せてきたぎこちない優しさの裏側に、無意識に、贖罪の意がこめられていたのだとしたら。
「――いらないのに」
「テラ様……」
「あたしは、そんなものが欲しくて、ここにいるわけじゃないのに……」
 何不自由ない生活はいらない。真綿で包むような優しさも、悪意や害意から、遠ざけようとする気遣いも結構だ。ただ、女として愛して欲しい。
 夫婦だって所詮は他人だ。真にわかりあうことなどできはしない。それでもわかりあえるという幻想を――この人だけはわたしのものだという幻想の上に、一つ一つ現実という名の重石を積み上げて切っても切れない関係を作り上げて行く。時には現実の重みに耐えかねて、幻想の方が壊れてしまうこともあるけれど、はじめから夢を見なければ、その上に何かを積み重ねて行くことだってできはしない。
 心底悔しいのだろう。涙の雫はほんの一滴零れただけで、後は流れることなく瞳の裡に留まっていた。
 老いたとはいえエリザも女だ。テラの悔しさは我がことのようによくわかる。そして同時に哀れにも思う。肉親の情に飢え、寂しげな目をして気がふれた母親を見ていた少年が、今、ようやく手が届くところまで手繰り寄せた幸せを、恐ろしくて掴むことができずにいるのだとしたら、哀れを通り越して滑稽でさえある。
「ルーカス様は、あなた様を心底好いていらっしゃるのです。それだけは、確かですよ」
 ただ彼女を求めるだけならば、妻には迎えず妾にとどめておく術だってあった。あえて無理を通してまっとうな方法で彼女を得たのは、それだけの気持ちがあったからだと信じたい。
 窓の外で梢が揺れて、羽を休めていた雀が数羽、まだところどころ雪雲の残る空に向けて飛び立っていく。朝が来れば闇は明け、春が来れば自(おのず)から雪は溶ける。けれど今、この若夫婦の縺れてしまった感情の糸をどう解して行けばいいのか。さしものエリザにも見当がつかなかった。



 ルーカスが帰宅したのは、その日の夕暮れ時のことだった。
 不規則を絵に描いた生活をしている<黒宰相>に、仕事の終わる定時はない。通常の兵士や役人が一仕事終えて帰る時間――いわゆる夕飯時に、この官邸が主を向かえるのは、ほとんどはじめてのことだった。ぎこちない仕草で彼の脱いだ上着を調えたていた――さすがにこの程度の奥方の仕事には慣れた――テラを通りこし、ルーカスはエリザとのみ、会話をはじめていた。
「明晩、この邸にユステリアの姫君を招きます」
 まあ、と背後で息を呑む音がする。宰相が王宮内に官邸を賜るのは、異国の使者や貴賓を、私的に招くことがあるからだ。だが現在の宰相――ルーカスがこの邸の主となって以来、宰相官邸が本来の目的の為に使われたことは一度もないはずだった。そんなことはここで暮らしてわずか半年のテラでも、ほとんど物置となっている広間と、そこに積み上げられた、埃だらけの飾りや絨毯を見ればわかる。
「大した用意はいりません。あくまで、私的な招きということで。料理に関しては王城の厨房に手配してきました。どこか部屋を一つ空けて、客人を招くような体裁だけ整えておいてくれれば、それで結構です」
「まあ、明日は大変ですわね。さっそく空いている部屋を確認してまいります」
 拳を握り締め、扉を打ち破りかねない勢いで、エリザが邸の居間を走り抜けて行く。宰相が自身の邸に客人を招く。となればそこで働く使用人にとっては、腕の見せ所、といったところである。
「ルーカス、あの、あたしは――」
 宰相が自邸に客人を招いて、妻が知らぬ顔をしていられるはずもない。正直、異国の客人を招いてもてなすだけの作法が身についているとは言いがたい現状だったが、それでも、彼の隣にいるために、できるだけのことはしたい。
 テラの問いかけに、一瞬、ルーカスは何か言いたげな瞳で彼女を見た。彼が何か告げたかったのだということが、テラにはわかった。テラにわかったということが、ルーカスにもわかったのだろう。言葉はない。指先すらかすめてもいない。けれど一瞬、確かに何かが通じ合ったような気がした。けれどその次の瞬間には、初めてであった時と同じくらい、冷たく凍った目をしていた。
「――お前にできることは、何もない」
「……」
「悪いが、お前は明日、テリーゼ殿の館にでも行っていてくれ」
 日暮れを迎えた秋の風は刺すように冷たいが、室内には赤々と炎が灯り、決して寒いということはない。けれど胸の内で木枯らしが鳴いている。そのあまりの冷たさに、テラは一瞬、両手で耳を塞いでしまいたくなった。





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