暁の彼方〜お題 新婚さんに贈る七つのお題〜



3 蜜月の罠

「――それで、例の件はどうなった」
 執務室に入ってきた途端、<黒宰相>は代名詞だけを連ねてそう言った。随分と疲れた顔をして、皺だらけになった上着を肩の部分にひっかけている。しかも袖の部分の鋲(びょう)は取れかかっていた。独身時代ならともかく、新婚数ヶ月の奥方がそんなものを見つけて放っておくはずもないので、今日もまた自邸に帰ることができなかったのだろう。
「進展はありませんな」
 グリジア王国法務庁長官の地位にあるクラウスは、肩を竦めてそう答える。答えたクラウス自身、もう10日ほど、自宅に帰りついてはいない。
 ユステリア王国の第一王女カトリーナが、兄王の親書と共にグリジア王国に訪れたのは、今から数ヶ月程前のことだった。その内容はユステリアが近隣随一の算出量を誇る金山の金を、西の強国・月英との間で取引したいというものである。地理的にも歴史的にもユステリアはサイファ公国との繋がりが深い。そのユステリアが月英との通商を望んでグリジアに近づく路を選択した。
 ところがある夜、問題が発生する。ユステリア国王が妹姫に託した月英への書状が、グリジア国内――それもこの王城内部で何者かに奪われたのだ。王女の滞在していた客間が荒らされ、ユステリア王からの親書だけが消えていた。犯人の特定はもちろん、消えた文書の行方さえ、未だにわかっていない。
「もっとも今のところ、あの文書をサイファに届けたくとも、身動きは取れないでしょうなあ」
「――まあな。もっとも、こっちだって、最近、妙な動きをする商人が増えてることには気づいていたんだ」
 言ってみやった窓の外は、昨日の朝から降り積もった大雪でぼんやり薄明るい。雪の重みにまけて軋んだ木の枝から、時折、大粒の雪片が舞い散って、音もなく薄闇の中へ溶け消えて行く。
 収穫期を終えた秋の中ごろから、王都内に見慣れない隊商や商人が数多く出入りしていることを、彼らはかなり早くから把握していた。その大半が東から西へ抜けようという手形を持った商人達であり、その出所は隣国――サイファ公国にある。恐らくは間諜。もっとも反面、彼らは本当に商人としての顔を持っており、だから力ずくで追い出すわけにもいかないのが痛いところである。
「雪がとけるまで、彼らとて王都からは動けない。今日くらい、お帰りになってはいかがですか。まあ、新婚数ヶ月では、帰ったところで、ゆっくり休むことなど不可能でしょうが」
 ましてや、好いて好かれて周囲の反対を押し切ってまで一緒になった仲だ。クラウス自身は家同士の都合で妻を娶ったが、それでも新婚時代は何をしていても楽しかった。睦言に取り留めのないことを語り合っているだけで夜が明けてしまい、寝不足顔を上役や同僚の男達に冷やかされて、気恥ずかしがったり照れたりした記憶もある。
 こんな程度の戯言が通じないほど、頭の固い男ではない。もっとも、照れてみせるほど純でもなかろう。にやりと笑うか、軽くいなして受け流すか。だが身動きの取れない状況だからこそ、あえて茶化したクラウスの言葉に返ってきた返答は、一瞬、耳を疑いたくなるようなものだった。
「……だったら、誰が寝不足になんかなってるか」
 心中の呟きのつもりが、気づけば声に出ていたらしい。向かいあった男の目が驚いた、という風に見開かれたのを見て、ルーカスは思わず、口の中だけで舌打ちした。心底、信頼しているわけではない。かつて<黒宰相>の地位を脅そうとしたこの男は、その過程で、もっとも知られてはならない秘事――それはこの国にとっても決して明かされてはならない秘密だった――に気がついた。それを悟ったルーカスはこの男を自分の懐に囲い込む策に出たわけだが、そんな事情などおくびにも出さず、まるではじめから<黒宰相>の部下であったかのように振舞っているクラウス・テーゼという男こそ、大した狸爺(たぬきじじい)だとルーカスは思う。
 だが今、その狸爺――最近初孫が生まれたとかで、とみに好々爺じみてきたクラウスはぱかりと口を明け、自分の息子より年若いルーカスを、痛ましいものでも見る目で見つめてみせた。
「……医師を呼びましょう」
「あ?」
「いえ、それよりも休暇が先ですね。幸い、私の領地にいい温泉があります。滋養のあるものを食べて、2、3日奥方とそこで休めば」
「……何の話をしている?」
「まだお若いのですから。働きすぎによるお体の不調など、すぐに回復しますよ」
「――俺は健康だ!」
 がたん、と机が鳴いた。何かとんでもない誤解をされているのはわかるのだが、それをいかにして解くべきかがわからない。――いや、そもそも解く必要があるのだろうか。考え始めた途端に訳のわからない脱力感に襲われ、ルーカスはがっくりと机の上に頭(こうべ)を垂れた。



 いくらグリジアが雪国であっても、この季節の積雪は、根雪になるにはまだ早い。秋の雪はいずれは消える。だがこの雪がとければ河川の水が反乱し、川下の村や町が被害にあう恐れがあった。しかも、国境の川を渡ることができなければ荷が動かず、通商で成り立っているグリジア王国の財政は即座に日干しになる。
 まったく頭の痛いことだらけの現状にあって、しかしそれとはまるで違う要因――そして他のどんな事実より彼の頭を痛ませる原因が、明け方近く、10日ぶりに自邸に帰宅したルーカスを迎えていた。宰相を拝命してから7年あまり、彼の自邸となっている宰相官邸の主の部屋、かつてはルーカスのみのものであった寝台の夜具に包まって、静かな寝息をたてている一人の娘の姿だった。
 テラを起こさぬよう慎重に寝台の端の腰をかけて、その髪の一束を掌に掬ってみる。癖のない柔らかな感触は男の指に絡むことなく、さらさらと手の中から零れ落ちていった。
 ――俺は、お前に酷いことばかりしているな。
 もう我慢できない、と頭から湯気が出そうなほどに顔を赤くしたテリーゼが執務室に飛び込んできたのは、今日――否、昨日の日中のことだった。それまでテラが置かれている状況にまるで気がついていなかったルーカスは、その話を聞いて仰天した。本当はもっと早くに気がついてしかるべきだったのだ。西の血を引く卑しい女と罵られ、あるいは、王にふさわしくない女だと嘲られ、心を壊していった二人の女性をあれだけ近くで見続けていたのならば。
「……ルーカス?」
 何度目かに掬った髪を指先に絡めた瞬間、閉じられていた碧の瞳が開いて彼を見た。こんな薄暗がりで見てもその輝きがわかるほど、光を持った目だ。知らず、その中に吸い込まれてしまいそうになる。
「え、もう……朝?」
「まだ半分だけな」
 そう……と薄桃色の唇が柔らかく笑む。まだ意識の半分くらいは眠っているようだ。少々忍耐力を試されている気がしないでもないが、かつて自分一人のものであった空間で眠っているテラを見ることは、ルーカスの心にささやかな安堵と満足感をもたらした。彼女はここにいる。俺が望めばすぐ手の届く位置にいてくれるという、――安堵。
 だがそんな感情とひきかえに、彼女自身の人生が失われることは、ルーカスの望むところではない。
「テラ」
「はい?」
「王宮の敷地の外れに、前に俺の母親が暮らしていた離宮がある。しばらく放っておいたから荒れてるだろうが、手を入れれば、また住めるようになるだろう」
「ルーカス……?」
「お前、……そこに移るか?」
 すべてが終わって、それでもまだ自分の命が続いていた時には、共に生きて欲しい。そう告げたのは他ならぬルーカスだった。決して<黒宰相>の妻であることを求めたわけではない。あの時はまだ彼が宰相であり続けられる保証などなかったし、第一、己に未来が訪れるという確信さえも持っていなかった。告げた思いに嘘偽りはなかったが、今思うなら、随分と身勝手な思いを口にしたものだと思う。
 だが今、もしも彼の側にあることでテラがいらぬ重荷を背負うことになるのなら、ルーカスは迷うことなく自らの望みを捨てる道を選ぶ。
 その言葉に暗に含まれた意味に気がついたのだろう。半分眠っていた瞳が、完全に覚醒する。思わず、顔ごと視線を逸らしてしまった。目が闇に慣れてきた所為で見えてしまった夜着の襟元の乱れや、そこから続くまろやかな曲線をこれ以上目にしていたら、自分が何をやらかすか自信がない。
「それって、あたしだけが移るってこと?……あなたは?」
「俺はあそこでは暮らせないよ。もちろん、この先、お前がそこからも出て行きたくなった時には」
「……」
「いつ、出て行ってくれても、構わない」
 先程ルーカスの名を紡いだ唇が、小刻みに震えて再び何か別の言葉を紡ぎかけた。だが結局その言葉は音にはならず、掠れた呼吸の音になって消えていっただけだった。





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