暁の彼方〜お題 新婚さんに贈る七つのお題〜



2 あたらしい名前

 テラ・グラディス。
 それが現在の彼女の名前だった。
 無論、生まれた時からその名だったわけではなない。戦闘者のギルドの里――この国の南方の山中にある隠れ里で生まれ育ったテラに、姓などといったものがあるわけもない。
 テラが姓を持つことになったのは今から数ヶ月前、この国の宰相――先王の13王子であり、現在の王シリウス3世の叔父にあたるルーカス・グリジアとの華燭の式を挙げ、正式のその妻とされた瞬間だった。同時にルーカス自身も王族の籍を抜いて臣籍に降下している。そうでもしなければ仮にも王子の立場で、身分も家柄もない踊り子を娶るわけにはいかなかったのだ。
「――さすがに山国でお育ちの方は違いますわね。こんな季節はずれの大雪の日ですら時間通りにこられるなんて」
「きっとおみ足もたいそうたくましくいらっしゃるのでしょう。何でも、ご自分で馬に跨られることもあるとか」
 秋のまだ半ばだというのに、窓の外ではいまなお、季節はずれの雪が降り続いていた。グリジア王国は全体に山がちな地形で、特に盆地にある王都ではごく稀にこういうことがある。北から吹く風と西から吹く風がこの辺りの上空でぶつかりあって、そこだけ冬の空模様を見せるのだ。見渡す世界は一面の銀世界、下手をすれば夜には除雪が必要かもしれない。
 そんな最中に行われた女性達の茶会は、のっけから剣呑な空気の中で幕を開いた。気づけばこの館の女主人――テリーゼが酷く申し訳なさそうな顔をしてテラを見ている。妾ではない、宰相の正式な妻ともなれば、臣下の妻や娘と交流を深めるのも仕事のうちだ。面倒見のよい彼女は婚約が整った頃から、望んでテラの教育係を務めてくれた。礼儀作法や言葉遣い、王宮内での権力関係や、それに合わせての付き合い方を。
「あら、宰相閣下は、半分は西方の血を引かれていらっしゃいますものね。西のお方は王族でも、四六時中馬の上にいらっしゃるとか。宰相閣下もさぞ、暴れ馬の乗りこなしがお上手なのでしょう」
 人でも喰ったかのように赤い唇を尖らせて、大臣家のご令嬢が言う。その言葉に応えた公爵家の奥方の唇も、同じように毒々しい色合いをしている。
「あら、乗りこなされているのはどちらかしら?結婚前は薄衣をまとって舞っていらっしゃったのですもの、案外、閣下の方が乗りこなされているのではなくて?」
 ――色仕掛けで王子を誑かした、あるいは篭絡した娼婦。
 この王宮内において、自分自身がそういわれていることを、テラは随分と早くから認識していた。踊り子と娼婦が同義であることは紛れもない真実であって――もっともはじめて肌を許したあの雪嵐の夜まで、テラはまだ男を知らなかったわけだが――そんなことはルーカス一人が知っていてくれればそれでいい。どうしても慣れることができないのは、彼らの、ルーカスに対する反応の方だった。
 正式な婚約が整うまでテラは知らなかったのだが、半分西の血を引く王子というのは、王宮内において、非常に肩身の狭い存在であるらしい。仮にも先の王の王子であるというのに、誰もが容易に彼を罵り、蔑む。本来なら王宮で暮らすことのできない身分で王子となり、恐れ多くも国王陛下の代理を嘯き、ほら見たことか、あげく下賤の女にたぶらかされた、と。
 側にいられれば、それでいいと思っていた。彼にもそう望まれたことが嬉しかった。だからこそ自分の存在が、彼を貶めていると思うことが辛い。
 戦闘者のギルドという特殊な組織で生まれ育って、強くあること、潔くあることは、心に刻み込まれていたはずだった。死の間際に足掻き、敵に命乞いするくらいなら、己が胸を抉って自ら果てる。それが戦闘者のギルドに生きる者にとっての誇りであり、生き様だ。
 そのはずなのに、たかだが一人の――それも、命を狙って憎み続けていた男を思うだけで、これほどまでに心がかき乱されて臆病になってしまう。それを必死で耐えることができているのもまた、テラが万が一ここで激昂した態度など見せた場合、ますますルーカスの立場が悪くなるであろうことが、目に見えているからなのだ。
 これほどまでに、と苦い思いで唇を噛む。いつのまに、あたしはこれほど弱くなったのだろう。
 いつものように苦い思いをかみ殺して、茶菓子を一口口に含んだ瞬間、今度はどこかの公卿家の奥方の口から零れ落ちた噂話に、テラは知らず、目を見張っていた。
「そうそう、今。王城に滞在しているユステリアの末の姫君のことお聞きになりました?」
「何でも宰相閣下の執務室にもお入りになることを許されているとか。このたびの滞在って、兄王様が、グリジアに姫君の再嫁を求めてのことなのでしょう?」
 ユステリアはサイファ公国の南方の山間にある小国家、大国と隣接しその脅威にさらされているのはグリジアと変わりないが、かなりの算出量を誇る金山を抱え、グリジア、サイファ周辺では有数の裕福な国家である。当然、近隣諸国の中での発言力も強い。
 ユステリアの先王は数年前の崩御し、即位した新国王は確か、ルーカスとそう変わらない年齢のはずだった。三人の姉姫はいずれも近隣の有力国に嫁いでいたが、サイファ公国に嫁いだ末姫だけは、昨年、不慮の事故で夫を亡くして生国に帰国している。
 それくらいのことは、王宮に来てまもないテラでも、知識としては知っている。だがその国の姫君がグリジア王宮に滞在しているなどという話は初耳だった。それも他でもないテラの夫であるルーカスの執務室にまで出入りしている、などとは。
「あら?」
 そこでようやく、女性達の視線がテラに集まった。今ようやくやっと、自分達が噂にしている男の妻がこの場にいることに気づいた――と言わんばかりに。
「宰相閣下から、何か聞いておられませんの?宰相の妻ともなれば、もちろん、夫の仕事の内容くらいは、把握していらっしゃるのでしょう?」
「……」
 仕事の内容を知るどころか、あの新婚初夜の夜以来、ルーカスはほとんど官邸に帰ってきていないのが現状だった。ごく稀に、時間があいた時には顔を出してくれて、異国の使者が持ってきたという珍しい菓子や花の種を――女性に花を贈るならまだしも、花の種を贈る男がいるかと、エリザは呆れていた――置いていってくれたりはしたけれど、夫婦らしい語らいも、夜を共に明かしてさえもいない。
 ――多分、今日もまた……。
 冬を迎えて雪が積もれば通商が困難になるグリジア王国において、秋は春に次いで荷が活発に動く季節だった。長い冬に備えて食料の備蓄もいる。そんな季節に大雪が降って街道が閉鎖されていまえば、その対応に追われて、官邸に着替えを取りに帰る暇さえなくなることだろう。
 窓の外の枝がきしんで、無数の雪片が地面に舞い落ちた。雪はやまない。テラの大切な人は、今日も帰って来ない。――それだけは、確実だった。





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