暁の彼方〜お題 新婚さんに贈る七つのお題〜



1 月も隠れる新婚初夜

 誓いの儀式も華燭(かしょく)の宴も内輪のみの、至極質素なものだった。しかしそれでもその主役というのはそれなりに肩が凝るものなのだと、この日はじめて、グリジア王国宰相――ルーカス・グラディスはしみじみと実感した。この程度の儀式でこれだけ疲労するのなら、今まで自分が見ていた貴族や王族達の派手な婚礼の宴など、結婚するもの同士にはきっといい迷惑だったに違いない。
 もっとも最初はルーカスもテラも誓いだけはたててそれで済ますつもりが、エリザとテリーゼ――本来なら使用人であるはずの老女と元親友の義姉に押し切られ、自邸に親しい人間を招いてのこの質素な宴という形に落ち着いたのだ。料理は老女と花嫁特製、酒に極端に弱い新郎の為にほとんど酒は提供されない、宴というより食事会と言った方が近いものではあったが。
 そしてそんな彼らもそれぞれの自宅の引き上げた深夜、宰相官邸は静寂に包まれようとしていた。ほんの少し前までルーカス一人のものだった寝台に腰掛けて、彼をと共にいるのは一人の娘――既に婚礼の誓いを終え、ルーカスの妻となった女性のみだった。
「……もしかして、疲れてる?」
「儀式とか宴とか、たくさんの人間が来るところは苦手なんだ。今回ばかりは途中で適当な理由を作って逃げ出すわけにもいかないし」
 儀式の最中からずっと、何気ないふりを装って隣り合わせに座ってきたのだが、今この場において心底何気なくなどいられるほど、ルーカスは人間ができてはいない。テラが身じろぐたびに揺れる布の動きや、夜着の襟元から覗く項(うなじ)の白さ、そして何よりも彼女という存在そのものに、思わず目を逸らしたくなるほどのいたたまれなさを感じてしまう。
 こちらも生身の男の身、一度は触れてしまったことでもあるし、しかも今宵はいわゆる新婚初夜だ。その気は充分にあって、そのつもりでもある。けれどもう一度――指先だけでも触れてしまえば、その時には、雄の部分が剥き出しになってしまいそうで怖かった。それでも彼女は受け入れてくれるかもしれない。だが、この期に及んで、怯えている。抱き締めてしまってもいいのか。そんなことが許されるのか。――こんな自分が本当に、幸せになどなっていいものなのか、と。
「あ、あの」
 重苦しい沈黙を破ったのは、テラの方が先だった。内心の動揺を押し隠そうとことさらに素っ気なくなってしまったルーカスのすぐ目の前で、テラはいきなり、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。こんな時、王宮の人がどういうのか知らなくて」
 さらりと深紅の髪が夜着の肩を滑った。だしぬけに頭を下げられ面食らったなりたての夫の耳に、震える声音が突き刺さる。
「だけど、あ、あの……これから、どうかよろしくお願いします!」
「あ、ああ、こちらこそ」
 思わず鸚鵡返しに呟いて、ようやくそこで目線があった。躊躇いがちにこちらを見つめている碧の瞳が、柔らかく緩む。吸い込まれるようにその箇所に見入った瞬間、頭の奥で、何かがことりと動く音を聞いたような気がした。
 ――もういい。
 求めやまなかったものが、今、すぐ目の前にある。だったらもういい。忘れてしまえ。例えその結末がどんなものであろうと、今はもう何も知るものか。
 視線と視線が絡まった。もともとほとんどなかったに等しい距離がさらになくなって、互いの呼吸がどちらのものかさえわからなくなる。
 雲でも出てきたのか、窓辺から漏れる薄明かりが急速に翳った。背筋がぞくりとするほど震えているのに、身体全体は火を吹くかと思うほど熱い。どちらのものか知れない鼓動の音に気を取られていたルーカスは、テラが彼の唇に手をあてて行為を中断するまで、自室の扉がなり続けていたことに気づかなかった。
「ルーカス、ねえ、待って」
「……どうして」
「だって、さっきから……」
 部屋の内部の気配が変わったことに気がついたのだろう、そこでようやく、扉の向こうから「閣下」と控えめな声がした。この邸で暮らす老女のものでも、本日居間に集まって彼らの行く末を祝ってくれた誰のものでもない、どこまでも冷め切った男の声が。
「宰相閣下、王宮にお急ぎ下さい。火急の事態が」
「……」
「……ルーカス、あの人、さっきからずっと扉を叩いて」
「……」
「宰相閣下、どうかお急ぎ――」
「――わかったよ、行けばいいんだろう。行けば!」
 口調がぞんざいというより、殺意を含んだものになったことは簡便して欲しい。火急の用?国の一大事?普通、そんなものを持ってくるか。月も隠れようかという新婚初夜の夫婦の寝室に。
 自分の意思どおりには動いてくれない身体をほとんど引き剥がすように身を起こして、上着だけはおって部屋を出ようとしたルーカスの背に、柔らかな掌が押し当てられた。次いで左の頬に微かな熱。驚いて振り返ったルーカスの目の前で、テラは顔全体を深紅に染めていた。
「あ、あの……行ってらっしゃい。帰ってくるの、待ってるから」
「あ、ああ。行ってくる」
 ぱたりと扉を閉めた瞬間に表情を引き締めるには、思っていた以上の胆力が必要だった。火急の用件、それは、この夜更けに宰相を内密に呼び出すほどの何かであることだけは間違いない。――果たして日付が変わる前までに、再び帰ってくることができるだろうか。
 ――だがルーカスもまだ、そのときには気づいていなかったのだ。まさかこのいわゆる<お預け>状態が、その後半年近くも続くことになろうとは。





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