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戦塵


「――お前は、徳川の姫じゃ」
 閨(ねや)で彼女を抱くときに、夫はいつも耳元でそう言ったものだった。
 その台詞に、他意はない。いや、他意はあっても、含みはない。だから大抵、千姫は笑ってこう言い返した。
「まあ。では殿は千が徳川の娘でなければ、こうして可愛がっては下さらないのですね?」
「……当然だろう。この大阪の城が落ちる時には、お前が大御所に、俺たちの命乞いをしてくれるのだからな」
 薄い闇の中に、男と女の忍び笑いが響いた。若い2人にとっては、この政略めいたやり取りも、幾度となく交わした睦言の一つに過ぎない。やがて衣擦れの音と共に笑い声が聞こえなくなり、辺りは完全に夜の闇の中へと沈んだ。


 元和元年、後に「大阪夏の陣」と呼ばれる合戦は、終始徳川方の優勢のもとで勝敗を決した。既に有力な武将もなく、難航不落を誇った大阪城に、太閤秀吉の遺児・豊臣秀頼とその母淀殿は取り残される。
 そして、秀頼の正室であり、大御所家康の孫娘・千姫は秀頼と淀殿母子の助命を請うために、大阪方の武将の手によって、徳川方の陣へと送り届けられたのだった。


「殿、大阪の北の方様が参られました」
 二代将軍・徳川秀忠の本営が置かれた岡山の地は、喧噪と、男達の汗、そしてほんのわずかばかりの人の血の臭いで、むせかえるような熱気を帯びていた。
 数人の侍女と、同じく数名の武将に囲まれた若い女の登場に、下卑た視線を投げかける男がいる。かと思えば、驚く程近いところで、けたたましい笑い声が上がった。誰かが、卑猥な言葉でも投げかけたのかもしれぬ。
 「大阪の北の方」と呼ばれた女の耳にも、その言葉は届いていたに違いない。だが女は前を見据えたまま、眉の一つも動かすことがなかった。
 「大阪の北の方」。大阪城の主である、豊臣秀頼の妻を示すこの言葉。この徳川の陣中において、彼女が明らかに豊臣側の人間であることを現す言葉でもある。そのことにかすかな戸惑いと、そしてわずかばかりの誇らしさを覚えながら、千姫は顔も覚えていない、実の父との対面を待った。
 千姫の母・お江与の方は、織田信長の妹・お市の方が浅井長政に嫁いでもうけた3人の娘の末姫である。二度に渡る落城と三度の婚姻を経て、数奇な運命のもと、二代将軍・徳川秀忠の正妻となった。
 母のようには到底生きられぬと、千姫は思う。三度夫を取り替え、そのたびに天下人へと近づいていった母。
 豊臣の栄華は、もはや望むべくもないだろう。ならばせめて、どこか地方の城主とその妻して。どこかでそんな、穏やかな日々が望めれば。
「ご無沙汰しております。父上、千でございます」
 深々と地に伏せた黒髪に、顔を上げよ、と声が落ちた。
 顔を上げた彼女の眼前に、固い鎧を身にまとった、中年の男の顔があった。織田信長、豊臣秀吉――そして、徳川家康。3人の男達が争った天下の覇権を父親から譲り受けた男にしては、どこといって特徴のない顔だ。特徴がないところが特徴といえないこともないかもしれないが、大阪城の北の方として多くの武将と対面してきた千姫は、彼より逞しい男達をたくさん見てきた。
 ――この男が、父か。
「お前が、お千か。久しいな」
「父上。どうか、我が夫秀頼と淀の方様のお命、お助け下さい」
 涙1つで誰かを守ることが出来るのなら、いかようにでも、泣いてみせよう。男が刀で覇権を争うように、女は、己の弱さを武器に使う。握りしめた拳の上に、頬を伝った涙が雫を作る。
 実のところこの少し前、千姫は祖父、大御所家康の口から秀頼母子助命の約束を得ていたのだ。その時、家康は一つの条件を出した。
 いわく、秀頼・淀殿親子の助命には、征夷大将軍・秀忠の了承を得るべし、と。
「どうかこの娘の願い、お聞き届け下さい……」
 しかし今、向き合う父の顔からは、何の感情も読み取れはしなかった。家康は泣きつく孫娘の手を取って、苦労をかけたと泣いて見せた。わずか7歳のお前を大阪にやったのは、何も憎かったわけではない。すべてはこの徳川の為。長い間苦労をかけた。これからはお前の願いならばすべてかなえようぞ――
 だが、ようやく目の前の男が口を開いた時、千姫は我が耳を疑った。
「この徳川の恥さらしめが」
「父……上?」
「このような馬鹿げた芝居をしている暇があるなら、お前は何故、秀頼と一緒に死ななかったのだ?」
 茫然(ぼうぜん)と顔を上げた娘の前まで歩み来て、秀忠は少し笑う。どこまでも家康に似ていないその顔が、何故か一瞬、夫である秀頼の笑い方と重なって見えた。
「お前が城を出て間もなく、大阪城が落ちた」
 ――落ちた?大阪城が?
 浮かび上がったまま、零れることも滴ることも忘れた涙の雫に、苦い笑いを浮かべた父親が映る。
「我が娘ながら、愚かなおなごじゃ。お前の嘆願などで、わしや大御所様が秀頼と淀殿の命を助けるとでも本気で信じておったのか。太閤直系の、あの男の命を」
 それは、彼が見せた初めての父親らしい心配りか。秀忠の両手が、千姫の肩に触れる。衣ごしに感じる父の手は、涙ながらに握り合った祖父の手よりも、酷く暖かなものに感じられた。
「もっとも」
「……」
「秀頼も、最初から重々承知の上で、お前を手放したのだろうがな」

 ――お前は、徳川の姫じゃ。

 それではあの言葉に、他にどんな意味があったというのだろう。
 千姫の脳裏を、あの日の秀頼の笑い声が鮮やかに過ぎ去っていった。




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