風の挽歌

お題 消えてゆく五つのもの


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1:残り香

 ――花の香がする。
 野山に咲き誇る、天然の花の匂いではない。もっと強い、むせ返るまでにきつい、人工的に作られた芳香が。
 無意識のうちに動きを止めた瞬間、大人の腕の長さはあろうかというほど長く鋭い角が、こちらをめがけて突進してきた。寸前のところでそれをかわし、シナはたった今、鼻腔を通り過ぎた香りの正体を悟った。
「シナ、何をぼけっとしてる!立て」
 剣を抜いたカイが、彼女の前に立ちはだかっている。後ろ手に伸ばされた掌にすがって立ち上がろうとして――シナは咄嗟に、その手を振り払っていた。
「触んないで!」
 彼らが今対している魔物は、一つ目の青牛(せいぎゅう)である。見た目は家畜の牛そのものだが、体躯は優に並の牛の3倍はある。真鍮色に輝く強大な角と、鷲のように鋭い爪が恐ろしい。この角と爪で、この魔物は長らく、山に入って生計をたてる多くの村人の命をおびやかしてきたのだ。
 今日の日中、シナとカイは賞金稼ぎの依頼を受け、日が落ちる頃に、魔物が現れるという山に赴いた。しかし依頼を受けてからこの場に現れるまでの間、2人は完全に別行動を取っており、シナはカイがどこでなにをしていたのかをまったく知らない。
 先ほど、わずかに――だけど確かに感じた、花の香。
 酒場か、娼館か。それともどこかの女のところか。
 ――どこに行っていた?ここに来るまで、誰といた?
 賞金稼ぎや傭兵など、命のやりとりにあけくれる男たちが、戦いの前に女を求めることは、決して珍しくない。わきたつ血を抑えることで、冷静さを取り戻し、戦いを有利に進められるのであれば、むしろそれは必要なことである――といえないこともないのかもしれない。
 しかしだからといって、女であるシナから見た、生理的嫌悪感がなくなるわけでもない。
「おい、どうした。お前、どこか怪我でも……」
「ほうって置いて」
 思いのほか鋭い声に遮られ、カイは言葉を途切れさせた。今回の敵であるこの異形の牛は、かなり厄介な相手となることが予想された。剣の腕には覚えがあったが――いや、だからこそ、彼は自身の状況を見極める目を信頼している。シナをかばいつつ我が身を守り、魔物を倒すだけの技量は、今のカイにはない。
 ならば……ともう一つの方法を選びかけ、密かに首を振る。前の戦いから、さほど時がたっていない。今<力>を使って、万が一仕留められなかった場合、彼の存在がシナの足手まといになる。
「俺が先に行って奴の気をひく。援護してくれ」
「――嫌だ。必要ない」
「おい、シナ、お前――」
 深紅に光る一つ目が、自身の縄張りに踏み込んできた賞金稼ぎをまともに射抜いた。目を合わせてはいけない。魔物の瞳には、人間を惑わす魔力があるという。
 カイが咄嗟に目を瞑った瞬間、シナの体が跳躍した。
 三日月型の刃が闇を煌き、青牛の首にめがけて突き刺さる。
 地を揺るがすような悲鳴があがった。首筋に刃を突刺され、魔物は胴をねじりながら身体を突き動かす。刀の柄を握ったままのシナの体が一瞬、左右に揺さぶられ振り回される。
 シナに助勢しようと、剣を片手に、カイは青牛の懐に飛び込んだ。暴れまわる魔牛の足もとから一気に剣を跳ね上げ、今にも振り下ろされようとする鋭角の角を切り落とす。
 ざざざと波が打つように、下草が左右に割れる。根元から角を斬られた青牛は、後足で立ち上がって咆哮した。前足から伸びる刃物と同じ色をした爪が、闇の中で鈍色に光る。
 その先にあるものを見て、カイは首筋の毛が逆立つのを感じた。
 暴れまわる魔物の勢いに押され、受身を取れずにまともに地に落下したらしい。刃を手に何とか身を起こしかけたシナの細い背が、のたうつ巨体のすぐ真下にある。
 ――まずい。
「シナ!」
 このままでは、あの爪が、彼女の身体に突き刺さる。
 咄嗟に剣を引いたカイの中で、何かがはじけて飛んだ。
「シナ、伏せろ――!」
 瞬間、黄金色の閃光があたりを覆った。



 シナが気がついた時には、辺りには静寂が落ちていた。
 草花は熱で炙られ立ち枯れ、いつのまに現れたのか、薄まり始めた夜の中天に、ぽっかりと浮いた白月が見える。強烈な異臭の正体は、恐らく絶命した魔物から流れた血糊だろう。光輝にかすんでいた視界が闇に慣れてくるにつれ、光の刃に喉を引きちぎられ、ひくひくと不規則な痙攣を繰り返す、青牛の頭部が見えた。
 「カイ……」
 剣の切っ先で青牛の首を切り落とし、カイはその場に膝をついた。剣をささえに身を起こそうとして、立ち上がることが出来ずに、ぐったりと首を下げる。
「カイ!」
 駆け寄って背中に手を置くと、青年の息が酷く荒いのがわかる。
「大丈夫だ。……ちょっと、眩暈がしただけだ」
 皇族の血をひく彼には、常人にはない<力>がある。しかし、その力は決して無限ではなく、使い方を誤れば本人の身体を損なうという。限度を想定して加減して使えばさほど問題ないらしいが、それでも力を使うたび、いくらかの体力の消耗は避けられないものらしい。
「大丈夫って感じじゃ……」
「……立て続けだったから、、加減がきかなかっただけだ。少し休めば、動けるようになる」
「カイ」
「お前……、怪我は?」
 言われて初めて背中に手をまわしてみると、衣が裂け、うっすらと血が滲んでいるのがわかった。痛みはない。熱も持っていないようだ。
「かすり傷だよ。これくらい」
 そうか、とカイはつぶやく。深く息を吐いた後、酷く真剣な顔をしてシナを見た。
 この若者の瞳は青い。雲ひとつない蒼穹(そうきゅう)と、同じ色の青。
「まったく、無茶をするな。……心臓が止まるかと思ったぞ」
 いっそ腹立たしいくらいに顔立ちの整った青年に、これまでにない程真摯に見つめられ、かえって言葉を返せなくなった。……まさか、言えるわけもない。貴方の身体に染み付いた花の――女の香に刺激された瞬間、何が何だかわからなくなった、などとは。
「ごめん……」
「何の為に、2人でいると思ってるんだ。ただ、やみくもに突っ走るだけが能じゃないだろう。もっと上手く、俺を利用することを考えろ」
 ――自分の方が、よっぽど酷い顔色をしているくせに。
 それでも言うのか。この男は。まだ整わぬ息の下で。――俺を利用しろ、と。
 おかしな男だ、と思う。共に行動しはじめてそれほど時間がたっているわけではないが、知れば知るほど、わからない部分が増えて行く。そしてそのたびに、シナの心は波打って、泣きたくなるくらいに切なくなるのだ。
「ごめん……。ありがとう」
 辺り一帯に飛び散った血の匂いの所為だろう。先ほど感じた強い芳香は感じなくなっていた。恐らくシナの身体からもカイの身体からも、今はまったく同じ匂いがするはずだ。
 ――私は、こっちの匂いの方がいい。
「早く、宿に戻ろう」
 シナが差し出した手に、ほんの一瞬、カイの指が絡んだ。すぐにシナから手を離し、自分の力でしっかりと大地を踏みしめる。少し休めばよくなると言ったのは嘘ではなかったらしい。先ほどよりは、大分顔色もいい。
「そうだな。そろそろ、夜も明ける」
 血脂で汚れた刃先を拭う青年の仕草を見つめながら、そろそろと、自分の手を目の前まで持ち上げてみる。
 カイの指は細く長い。シナが知る、父や異母兄の節くれだった指とはまったく違う。
 そんなことを思った瞬間――
 自分でも驚くぐらい、どきり、とした。






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