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水底の都


 海は血の色で濡れていた。
 敵の刃にかかる前、望んで身を投げ命を散らした者。荒れ狂う坂東武者に首を刺し貫かれ、叫びながら水に落ちる者。
 一度沈み、再び浮かび上がってきた甲冑の群れの合間には、一見場違いな、色鮮やかな文様の衣が幾枚も幾枚も浮いていた。
 人の世の営みとは、まるで飛沫の夢のごとく。波間に揺らめく白き水の泡。だが人という生き物は、何故ここまで死を急ぐ。
 寿永二年、木曽義仲の入京により都を離れた平家一族は各地で敗走を重ね、ついに元暦二年壇ノ浦にて滅亡の時を迎える。
 亡き清盛の正室、平時子。先の中宮・建礼門院徳子。そして、能登守・平教経ら多くの武将に守られた船上には、幼き今生の帝・安徳帝の姿もあった。


「母上」
 差し出されたもみじの手。都を出た時には肩の上で切り揃えられていた黒髪が背を覆い、着物の裾はあの頃よりも随分短くなった。幼子の身体は滅亡への道行きの中でも、日に日に成長をとげているのだ。そしてそれを見つめることだけが、このあてない旅路の唯一の楽しみでもあった。
「母上、いつになったら、都に帰れるのですか?」
「……言仁(ときひと)。お前、母と共に父上のところに参りませぬか?」
「父上のところ?」
「ええ」
 徳子が今は亡き高倉の帝のもとに入内したのは承安元年、父・清盛の命による。帝は御年11歳。徳子は17。政略結婚としてもいささか年の離れ過ぎているこの婚姻により、しかし徳子は男子を出産する。この男子は高倉帝の譲りを受けて即位し、平氏は外戚としての地位を確立することとなった。
「本当に父上にお会いできるの……?」
 だが今、腕の中にある吾子は、齢8つにしかならぬ幼子であった。長きにわたる放浪生活の結果、肌は潮風に焼け、腕からも頬からも甘酸っぱい汗の匂いがする。
 産み落としただけ、ここまで何1つしてやれない母だった。都を出るまでは、しみじみと名前を呼んでやったことさえもない。だが今、こうして我が子を腕に抱いて初めて、子の父であり、自身の夫でもあった1人の男を、徳子は身近に感じることができるようになっている。
 ――貴方、これから参りますね。
 生きている時には、打ち解けて話すこともない夫であった。だがこうして後からやってきた妻と子を、まさか追い返しはしないだろう。死をもってようやく、私(わたくし)たちは家族になれるのだと、そう思った。
 ぐらり、と足下が揺れる。ついにこの船にまで矢が射掛けられたのか。京の都ではまた新たな帝が践祚したと聞く。この子はもはや帝でもなく、自分は既に中宮でも女院でもない。
 その認識は、決して不快ではなかった。むしろ染み入るように、心の底を暖めた。
「……父上、待っていてくれるかな?」
「くれますとも。さあ、父上に会ったらお話することを考えておきましょうね」
 だが、徳子が足を踏み出す直前に、後から激しい勢いで袖を引く者があった。勢いあまってその場に膝をついた徳子を、陰惨たる顔つきで見下ろす人間は。
「……お母さま?!」
 今は亡き、清盛の正室。徳子の母である、平時子その人であった。
 仏門に入ったものだけに許される墨染めの着物は、潮風を受け、ところどころ赤黒く変色していた。白髪混じりの髪が幾筋も頬にはりつき、それがこの女人の顔を、さらに陰鬱じみたものに彩っている。ぞっとするとは、まさにこのことであろう。狂気を秘めた女の瞳に射抜かれて、徳子は腕の中の子供をさらにきつく抱きしめる。
「――お前の所為じゃ」
「……」
「徳子、お前の所為じゃ。お前が後白河院のもとに参らなんだ所為で、私と殿が築いたものがなくなった。お前さえ素直に参っていれば、こんなことにはならなかったのに――」
「!」


 徳子の夫、高倉院が重病の床につき余命わずか、といわれていた頃のことである。内裏を訪れた父母の申し入れを、徳子が激しく拒んだことがあった。
 ――院の死後、その父、後白河院のもとに上がり、寵を受けるように。
 平氏と源氏を手玉に取り、実の子二条の帝さえも追い落として権力を手にした後白河の院。徳子の父や兄の力を利用し、多くの政敵を粛清していきながら、入京した義仲に平家追討の院宣を与えた、希代の大天狗。
 とんでもない、と徳子は拒んだ。夫はまだ生きている。いまだ息のある夫を前に、その死後を語るなど、何事か。それもよりにもよって、夫の父親のものになれなどと――



「あの時、お前さえ素直に、後白河院のもとに参っていればよかったのじゃ。お前なんぞの所為で――!」
 腕の中から暖かな身体をもぎ取られ、徳子の背筋に悪寒が走り抜けた。母上、と自分に向かって差し出された手。徳子が生んだ子供の泣き顔。胎にあった時にはあれほど祝福された命の行く末が、こんなところに繋がっていたなどと、一体誰に想像できようか。
 ――やっと帰ってきたのに。やっと私のところに戻ってきたのに。
 尼姿の女の背が船の縁を揺らし、泣き叫ぶ我が子の顔が遠ざかっていく。母に抱かれ父に会うのだ――そう信じていた子供は全身をばたつかせて、自分を連れ行こうとする祖母に抵抗する。
「嫌だ、おばば、どこに行くの?!離して――」
「帝、このおばばが帝を都にお連れします」
「……本当に?都に帰れるの?」
「もちろんですとも、あなた様は今生の帝。都の他に参る場所などあるものですか」
 ぱた、と抵抗が止んだ。その瞬間の母の表情。まるで見せつけるような。ほら、ご覧なさい。この子はお前なんかより、私の方を慕っている――
 母と娘でもなければ、祖母と孫でもない。女が女にだけ見せる、勝ち誇った顔。とても、動けなかった。
「帝。さあ、水底の都への行幸(ぎょうこう)ですぞ――」
 呆然と膝を折った徳子の目前で、我が母と息子の姿が遠ざかっていく。実際には指を伸ばせば届く程の距離なのに、今の徳子にとってこの距離は、あまりにもに遠い。
 やがて二人の姿が水飛沫となって消えた時、かつて一門繁栄の証、国母とあがめられた女の口から、絶望的ともいえる悲鳴が迸りでた。


 ――違う。水の底には都などないのだ。そんなものは実在しない。お母さま、そんなものに捕われたが為に、我等は滅んだのではありませんか。
 都とはそれほどまでに良いものなのか。富とは、権力とは。それほどまでに人を狂わせるのか。
 重病の床にある夫を持つ娘に、その父親のものになれと言うことが、どれほど残酷かも気がつかぬ程に。
 いや、それとも……そもそも父にとっても母にとっても、娘など権力を得るための手駒にしか過ぎなかったのだろうか。


 元暦二年、壇ノ浦にて平時子に抱かれ、安徳帝入水。享年8歳。徳子は助けられ、都の外れ寂光院にて一門の菩提を弔いながら一生を終える。





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