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正義による破滅


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 戦端が開かれたのは、父王の死から、数ヵ月後のことだった。
 誰もが予測した戦乱だった。かつて朝廷の勢力を二分した中大兄皇子と大海人皇子――いつかは起こると予想されていた戦いが、前者の死まで持ち越されたのは、自他共に認める不仲の兄弟にも、多少は肉親の情というものがあったからなのかもしれない。
 内密に行ってきたすべての和平工作が徒労に終わったと知った日、日暮れ間近の自邸で、大友は半ば強引に十市を抱いた。恐怖より驚きに竦んだ彼女が声を上げても、褥も敷かずに打ち据えられた背中に血が滲んでも、構うことなく押し開いて蹂躙して呟いた――
「……すまない」
 思わず口から零れ出た言の葉は、同意も得ずに乱暴な行為に及んだことへの謝罪であり、父と夫の争いに彼女を巻き込んでしまったことへの謝意であり、そして何よりも、明確に予感された最後――来るべきこの日に向けての、手向けの言葉であったのかもしれない。



 近江の山が燃えている。
 夏の濃緑を茂らせた山林を炎が駆り、広がって行くその様は、朱(あけ)の鳥の羽ばたく様のよう。見慣れた稜線は黒と赤の狭間で山吹色に染まり、それらすべての光景が、淡海の水面に映じられている光景は、一枚の、完成された絵図を見ているかのようだった。
 押し寄せる軍馬の嘶きが、雷鳴のように轟いては、かつて、天智帝がこの地に築いた繁栄を踏み潰して行く。
「そうか、瀬田橋が落ちたか……」
 恐らく、かねてから密約が出来上がっていたのだろう。戦がはじまって間もなく、畿外の豪族のほとんどが大海人側に寝返り、近江朝側が使える戦力は、畿内のごく一部に限定された。
 この日の為に十数年の下準備を続けてきた男と、大王位を継いだとはいえ、二十そこそこの若造とでは、戦う前から勝負は決まっていたようなものだ。……もっとも、その状況で、途中まではほぼ互角に戦っていたのだから、多少は己を誉めてやってもいいのかもしれないが。近江朝の陣から少し離れた山中で、自軍の壊滅を聞き、大友皇子は口の端を持ち上げた。
「娶るんじゃ……なかったな」
「――大王?」
 思わず本音が口をついて出たのは、傍にいたのが側近中の側近――かつては中臣家の舎人をしていた男であった為だ。
 以前、大友が中臣の娘を娶った折に大王家に召し上げた若者は、戦が起こらなければ、後継を欠いた豪族の養子になることになっていた。今回の戦では、得意の弓矢の腕を存分に発揮している。出来ることなら次の世に、彼の活躍する舞台があってくれればいい、と願う気持ちはあったが、それを成し遂げる力が既に己にないことは、重々自覚していた。
「最初、十市を父上から娶るように言われた時に、俺は断るつもりだったんだ」
 ――大友様、大友様!待って、十市もそっちに行く!
 誰一人顧みる者もない、友と言えば書庫の書物だけだった少年に、何故か酷く懐いてきた、五歳年下の従妹。
 十市自身は気づいていなかったのかもしれないが、その感情が母親と生き別れた少女の寂しさに由来するものであることに、大友はかなり早くから気がついていた。年頃をむかえ、その瞳に単なる敬慕とは違う特別な感情が宿っていることに気づいてからも、それ以上、踏み込むつもりはなかった。――だが。
「父王に、お前が断るなら、十市を他の皇子に嫁がせると言われて、断ることをやめてしまった」
 大王が十市を皇子に娶らせようとしたのは、彼女が大海人最愛の娘――人質として、これ以上とない価値があったからだ。他の皇子に嫁げば、彼女には人質としての意味しかない。だが自分の妻とすれば、十市が誰の娘であるかに係わらず愛してやれると――、考えてしまった。
 過ごした時間は幸せだったし、二人の間に生を受けた息子の為にも、悔やむべきではないとわかってはいる。だがこうして置いていかねばならぬ状況に追い込まれると、どうしても思わずにはいられない。あの時、ひたひたと迫り来る破滅の足音から耳を逸らしてしまったのは、正しかったのか否か、と。
「……大王、今ならまだ、大海人様の軍は我々の在り処に気づいていません。お召し物をお取り替え下さい。私が大王の身代わりとなって――」
「――言うな、それ以上は」
 すらりと、腰に佩いた剣を抜く。白刃に映った己の姿に笑った大友を見て、若者はその場に膝をついた。
「……大友様」
 この国はこの先、大いなる波乱に直面することだろう。近江の都は焼き尽くされ、采女の生んだ大王の存在は、歴史の波の中で葬り去られる。
 それでも、ここで戦ったことに意味はあるはずだ。家柄でも母の血筋でもない、他の何かに重きを置く世がいずれは訪れる。その端緒を示すことぐらいは、出来たはずだと、信じたい。
「……貴方は、我々の大王でした」
 そう、大友もまた大王家の男――蘇我入鹿、古人大兄皇子、孝徳帝――血で血を洗う大王家の掟が、自分のところに回ってきた。それだけのことだ。
「思ったより……早かったな」
 呟きは、夜の静寂(しじま)に跳ね返って、消えた。





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