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突き放すために引き寄せた腕


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 ――破滅の足音が、聞こえる。
 その日、夕暮れ間近に帰ってきた大友は、ものも言わずに十市を床の上に押し倒した。
 恐怖よりも驚きに竦んだ十市が声をあげても、褥も敷かずに打ち据えられた背中が擦れて血が滲んでも、構うことなく押し開いて蹂躙した男が離れる直前に呟いた――
「……すまない」
 低く沈痛な一言が、大王の死と夫の即位、そしてその後に起こった父の挙兵といった出来事よりも何よりも、明確な破滅の足音のように、十市には聞こえた。



 ぼんやり浮かんだ薄明かりのむこうに、誰かの話す声を聞く。
 灯火の周りを何かで囲い、声をひそめているのだが、夜の静寂(しじま)に、その声は思いの他響いた。今宵は月が出ていないらしい。板戸の隙間をすり抜けた火影が、十市が起き上がった褥の上に、複雑な陰影を描いて揺れている。
「……まさか……が落ちるとは」
「既に当方には……が残っておらず」
「ここはお覚悟を固められて……」
 声の主は恐らく、夫と共に戦を戦っている近江朝の臣下の者だろう。戦の相手は挙兵した先の大王の弟皇子――十市にとっては父である、大海人皇子の軍である。
 長らく病床に伏していた大王が亡くなったのは、今年の春のことだった。後を継いで大王の位についたのは十市の夫である大友皇子。その即位を不服とした大海人が朝廷に反旗を翻して以来、彼女は近江の宮において、緩やかな監禁状態とも呼べる立場に置かれていた。
 宮内での移動こそ自由なものの、都を散策することも、外に便りを送ることも、外からの便り受け取ることもできはしない。
 表向きは、大海人に害意を持つ近江朝配下の者が、十市を傷つけるのを防ぐ為の措置。だがその本意は、十市が夫の動向を父親に知らせることを防ぐ為だと、十市はかなり早くから認識していた。
 ――愚かな話だ。
 既に十市の異母弟である高市は近江を脱出して、父親の軍に合流していた。その手を拒んで近江に残った時点でとっくに、十市は選んでしまっている。大体……。
 ふ、と口許を緩めたのは、隣室で乳母と休んでいるはずの、幼子の泣き声が聞こえた為だ。
 十市が生んだ男子はまだ二歳。一体何処の国に、幼い自分の子を、母親が父親を殺した子供にしたいと望む母がいる。
 自身を取り巻く不穏な気配を感じ取っているのか、一向に止まないわが子の泣き声に、十市は夜着の上に衣を羽織って起き上がった。寝所の板戸が開いたのは、その時のことだった。



「――起きていたのか」
 言の葉とは裏腹に、大友の目に意外そうな光はなかった。先程までの会話を、妻が聞いていたと、確信していた風でさえある。
「今、葛野の声が聞こえた気が……」
「気のせいではないか。俺はずっと起きていたが、そんな声は聞こえなかったぞ」
 言って腰を下ろした夫の目の縁に、隠しようのない疲労の痕を見つけ、十市はそっと唇を噛んだ。外部との連絡を断たれて、今の彼女に戦況を知る術はない。だが夫が父によって苦境に立たされているということは、想像がついていた。
「――近江を出るのですね」
 そう言ったのは、この夜更けに彼が夜着にも着替えず、剣を番えたまま、切れ長の双眸に何らかの決意を湛えていた為だ。
 大王が都を捨てる。それは朝廷とそれに反旗を翻した逆軍との関係が、逆転する瞬間でもある。
「わたくしも参ります」
「……十市」
 長い指が伸びてきて、十市の黒髪を絡めて取る。幼い頃、自分を慕って後を追う十市を見るたびに、大友はいつもこんな、少し困ったような顔をしていたものだった。今にして思えば、年長の従兄に憧れることで母に去られた寂しさを紛らわせていたのかもしれず、五歳年上の大友は、そんな従妹の感情に気づいていたもかもしれないが、そんなことは今となっては、どうでもいいことだ。
「お前は近江に残れ。……叔父上とて、実の娘のお前に害を加えることはなかろう」
「嫌です!」
 するりと伸びてきた両腕が肩を抱き、そのまま懐に抱き寄せられる。口を塞がれ、息苦しさに負けて開いた唇の合間に、何かを押し込まれ、思わず十市はそれを飲み下してしまっていた。
 熱さとも苦さともつかぬ液体が喉奥を滑り落ちる。胃の腑が焼け付くように熱い、と感じたのは、その直後のことだった。
「熱っ……大友様、これは――」
「すまない、十市」
 抱き寄せていた腕が離れる。力の抜けた四肢を褥に横たえ、大友は綺麗に微笑んでいた。
 その微笑の裏側に、ある種の決意を固めたものだけが見せる清清しさを見つけ、十市は叫びだしたくなった。なのに身体は、凍りついたかのように動かない。
「短い時間ではあったが……お前と生きることができて、幸せだった」
 それが、十市が耳にした、大友の最後の言葉となった。



「――お姉さま、十市お姉さま」
 澄んだ高い声と肩を揺さぶる小さな掌の感触に、十市の意識は覚醒した。
「お目覚めになられました?こんなところで眠られていては、風邪を引かれます」
「ええ……ありがとう。大伯(おおく)」
 どうやら脇息にもたれたままで、眠ってしまっていたらしい。開け放たれた窓のむこう、二羽のかもめが羽を並べて飛び交う姿が見える。吹き抜ける風に潮の香が混ざっているのは、ここが都よりも海に近い土地である為だ。
 かつて、代々の大王家の皇女が巫女として在った伊勢の斎宮寮――父は即位の翌年には、再び巫女として、大伯皇女をこの地に送ることを決定した。
 十市もまた、幼い異母妹の付き添いとして共に伊勢に下っている。早くに母を亡くた妹が不憫だった所為もある。だが本当は、内乱からわずか数年で、再びきな臭さを感じさせるようになった都の空気に、いたたまれなさを感じた為だった。
 内乱の勝利と新王の即位を神々に報せる為の派遣。そこには、病弱な皇太子草壁より、皇位継承者にふさわしいと言われはじめた大津皇子の姉である大伯が、有力豪族と婚姻で結びつくことを避けたい鵜野大后の意向が働いているらしい。
 同じ母として、夫の後を自分の子に継がせたいと願う母親の性(さが)は、理解できなくもない。だが……。
 ――お義母様、それは夫も子供も、生きて側に在るものだけが奏でられる寓話だ。
 あの後、十市が目を開いた時には、既にすべてが終わってしまっていた。
 自分が一昼夜近く眠っていたことも、あの時、喉を滑り落ちたのが、伊賀の風魔が使う眠り薬の一種だと知ったのも、ずっと後になってからのことだった。
「お姉さま?……泣いているの?」
「いいえ。泣いてなどいませんよ、わたくしは」
 幼い顔は父である大王より、祖父である先々王の面影を宿しているように見える。異母妹の中に微かに夫の気配を感じ、十市は静かに微笑んだ。
「……あの夜から、もう、ずっと」

 しも降りいたも風吹き寒き夜や 旗野にこよひわがひとり寝む





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