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君を守りたいが故に傷つけてしまう


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 2
 ――月が、眩しすぎる。
 闇夜に人を導く標(しるべ)ともなる月明かりは、自邸の褥で、いつ戻るとも知れぬ人を待つ身には、あまりにも明るく、眩(まばゆ)すぎた。きっちり板戸を締め切って、敷布を頭から被り、瞼をきつく閉ざしていても、考えたくもない胸の内まで、照らし出してしまう。
 ――今、あの腕が他の女(ひと)を抱き、あの声が、他の女の名を呼んでいる。
 幾度かの寝返りの後、眠ることを放棄して、十市は褥に起き上がった。
 十市の夫である大友皇子が宮を出て行ったのは、夕刻を少し回ったころのことだった。行き先は大王の腹心である中臣鎌足の邸。鎌足の娘を新たな妻に迎えることになり、妻問いに向った夫が帰ってくるのは、きっと明け方近くになることだろう。最近では大陸の風習に倣って同居する夫婦が増えたとはいえ、婚姻とは本来、夫が夜だけ妻の家を訪れるものだ。特に二番目以降の妻の場合は今でもその形がほとんどで、その場合、同居している本妻は、自分以外の妻の許に出かける夫を見送って、自分以外の妻と夜を過ごした夫を迎え入れなければならない。
 ――お父様のことを愛しているの。だから、お母様はこれ以上、ここにはいられない。
 あれは父の側から、母が去っていった時のことだ。優れた歌詠みであり、佳人でもあった額田女王。父が高市の母に通うようになって数年がたち、さらに大田、鵜野皇女姉妹が妻として遇されるようになった頃、母はひっそりと父の許を去っていった。
 その後に大王の許に迎えられた彼女を、人は兄弟を手玉に取った悪女と嗤った。だが今なら、あの頃の母の情念がほんの少し理解できる。――愛する男を他の妻と共有するくらいなら、愛していない男のものになった方がよかった。
 埒のない物思いに陥りそうになった十市が、頭を振った瞬間、かたり、と、どこかで音がした。



「――何だ、まだ起きていたのか。十市」
 物音の主は、この宮の主である大友皇子だった。まだ時刻は夜半を回ったばかりで、新たな妻のもとに向った夫が帰ってくるにはいささか早すぎる。何かあったのだろうか……と訝んだ十市は、出て行った時と変わらぬ夫の衣に、嗅ぎなれた彼のものとは違う香が染み付いていることに気がついて、顔を歪めた。
「どうした、折角帰ってきたのに、歓迎もしてくれぬのか?」
「お帰り……なさいませ」
 十市の歪めた表情に気づいていないわけもないのに、さらりとそんなことを言う夫を、呪ってやろうかと思う。大友の腕が伸びてきて、男にしては長い指先が頬に触れようとして瞬間、自分でも驚くほどの素早さで、十市は伸ばされた腕を振り払っていた。
「触らないで!」
「――十市」
「……もう少し待って下さい。三日……いえ、一日たったら、きちんとしますから!」
 大王家の男が複数の妻を持つのは世の習いで、母だって父が高市の母を迎えてから数年は耐えた。自分にだってできないはずはない。できなければここにいる資格はない。――十市としては、決死の覚悟をこめた言の葉であったのだが。
「きちんとって、お前……」
 弾けるような大友の笑い声に、決意を持続することすら難しくなる。
 一体、何がそれほどおかしかったのか。ひとしきり声をあげて笑い続けた後、大友は水差しの水を口に含んだ。よほど喉が渇いていたのか、一息に飲み干して、これまでのやりとりとまったく係わりのない事柄を口にする。
「お前付きの舎人を一人、増やそうと思う。同意してくれるか」
「……大友様?」
「今は中臣の舎人をやっている男だが、聞けば、たいそうな弓の腕前のそうだぞ。儀式の射的で、的を外したことがないという」
「……」
「ゆくゆくは大王家の近習として、取り立てて行くつもりだ。その暁には、私の妻の一人を下げ渡す。そういう約定を交わしてきた……己の味方は、己が手で掴みとって行かねばならないからな」
 言われた意味を理解するまで、しばらくの時が必要だった。正妻である十市を下げ渡すわけにはいかないから、下げ渡す妻というのは、今回大友の妻となった鎌足の娘。舎人として取り立てると約束した男が、中臣家の使用人ということは……。
「男というのは単純な生き物だな。好いた女を自分のものにできると思っただけで、どんなことでもできそうな気がしてくる」
 十市の理解を待って、大友は静かに頷いた。中臣の娘の許に通っても、真実その娘を妻にはしないと、彼は十市に伝えているのだ。
「それでも、しばらくは中臣の館に通わないわけにはいかないだろうが」
 先程振り払った指先が頬に触れる。その時になってはじめて、十市は自分の頬に涙の痕がこびりついていたことに気がついた。
「……だから、俺があちらに行くたびに、そんな顔をするのはやめてくれ」
 武芸も学問も十年に一人の逸材と名高い皇子が、本気で困った顔をする。日頃、彼は自身を「俺」とは呼ばない。それは十市の前でだけ見せる、大友の隠された素顔だった。
「俺の子は、お前が生んでくれないと困るんだ……」
 気づいた時は、全身が男の腕の中に捕らわれていた。嗅ぎなれない香の匂いの中に、確かに夫の温もりを感じ、十市は全身をゆるゆると弛緩させた。





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