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君を守りたいが故に傷つけてしまう


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 1
「もう一人、妻を娶れ」
 父王の口から降って湧いた言葉に、大友皇子は書簡をたぐっていた手を止めた。大王の補佐役として父の執務室に出入りするようになって半年、ようやく、国の政(まつりごと)との輪郭を掴みかけた頃のことだった。
「――ですが父上。私には十市が」
 思わず新婚の妻の名前を出してしまったのは、大友と十市の婚姻が、父王の命によって決められた政略結婚だったからだ。妻の父は、大王と母を同じくする大海人皇子。当の本人達の感情はさてき、周囲はこの婚姻を、あまり仲のよくない兄弟仲を取り持つ為の結婚だと把握している。
「男が複数の妻を持つのは世の習い。あれはその程度のことで臍を曲げるほど、小さな男ではないわ」
「それは、そうかもしれませぬが……」
「中臣鎌足が、娘をやろうと言ってきている。お前の後ろ盾として、悪くはないだろう」
 中臣鎌足は大化の改新以来の父の腹心、事実上、この国で大王に次ぐ地位にあるといってもいい。
「しかし……」
「中臣の娘が不満なら、安倍でも、蘇我でも構わん。……一人で足りなければ、二人でも三人でも、だ」
 言の葉の内容はともかく、その口調に覇気はなかった。どこか疲れ果てた風情さえある。
 頬が削げ落ち、頭髪に白いものが多くなった父王を見て、大友は、反論の言葉を呑み下した。
 父は老いたのだ。二十に満たない年から政務に携わり続けてきた疲労が、心のどこかに、守りたい、という願望を生んでいる。それはきっと、父のような立場にある男にとって、破滅へと向う一歩となるのだろう。
「……了承致しました」
 頷いた瞬間、眼裏に浮かんだ十市の顔を、大友は強いて見ないふりをした。


 
 ――そうして、今、ここにいる。
 さすがは大王に次ぐ権力者の邸だけあって、中臣鎌足の館は大王家の邸に勝るとも劣らぬ広さを誇っていた。しかも今日は娘の婿取りとあって、邸中が塵一つないくらいに掃き清められている。簡単な宴の後に案内された寝所も同様で、焚かれた香は大陸渡りの高級品、褥はふわりと柔らかく、湿り気一つない。
 その褥をひたすら濡らしている存在を真上から見下ろして、大友は深く息を吐き出した。
 新たに妻となった少女は、よくいえば儚げ――悪くいえば存在感のない、どこか茫洋とした印象のある娘だった。盃を持ったところで酌をするでもなく、話しかけてもうんもすんもなく――褥に横たえれば、ただひたすら泣いてばかりいる。
 強引に事を進めようかと思わなかったわけでもないのだが、もともとあまり――否、かなり乗り気でないので、その気にもなれない。
 ふう、と一息、息を吐き出して、褥の上に胡坐をかく。
「……いい加減泣き止んではくれないか」
 涙を拭ってやろうかと手を伸ばした瞬間、びくり、と震えて後ずさる。豪族や大臣の娘が政略の駒に使われるのは常のことで、当人達もその覚悟を持っているものだ。迎える側の大友としても、中臣の娘を粗略に扱うわけにはいかないし、父親程年齢の離れた男の五番目、十番目の妻にされるくらいなら、自分の二番目の妻というのはさほど悪い立場ではないだろう。
 しかし今日会ったばかりなのに、どうしてそこまで嫌われたものか。しばし考え、一つの可能性に思いあたり、大友はその思い付きを口にしていた。
「――耳面刀自殿。そなた、誰か好いた男でもいるのか?」
 その瞬間、どこか捕らえどころのなかった少女の頬に赤みがさし、濡れた瞳に怯えたような光が走ったのを、大友は見逃さなかった。どうやら、的のど真ん中を射抜いてしまったらしい。
「なるほど。そういうことか……」
「ち、違います!私が勝手にお慕いしているだけで、あの方に咎はありません!」
 それはないだろう、と思ったのは、今宵、館の大門で会った若者の姿を思い出したからだった。
 館を守る使用人――舎人のなりをした若者は、娘の婿として中臣の館を訪れた大友を、睨むような眼で眺めていた。もっとも相手が豪族の子息だというのなら兎も角、邸の使用人では、父親――鎌足が許すはずもないだろう。
 しかし、これはどうしたものか。腕を組んで考えて、一つの思考に思い至る。……やってできないことではないだろう。大王家の権と今の自分の立場を鑑みれば。
「その男、何か得手(えて)なものはないか?」
「……は?」
 弓でも剣でも、学問でもいい。何か一つ、人より明確に優れたものを。どこか呆気に取られた風の少女に向い、大友は口の端を押し上げてみせた。





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