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未完成な音色


扉へ/とっぷ


 ――どうして、こんなことになったのだろう。
 その日、華やかに着飾った叔母や異母妹、父王の妃達に囲まれながら、大友皇子はそう思った。底に様々な思惑を秘めながら、すべてが祝事の名の下に覆い隠されてしまう華燭の宴、大友は今、その当事者である花婿の座にある。
 そもそものきっかけは、大友の父である大王とその弟である大海人皇子との確執だった。共に大王を父母とする兄弟は、かなり以前から、あまり仲がよろしくない。大海人が掌中の珠とばかりに溺愛する十市皇女を、大友の妃に貰い受ける。今回の縁組は、外国との戦や大王の即位問題を経て、さらにこじれてしまった兄弟仲を回復させる為の妙案だった。
 はじめ、父王からこの縁組を命じられた時、大友は拒絶するつもりだった。政略結婚としかいいようのない結婚、それも大王と皇子の間に決定的な亀裂が走れば、彼女は夫と父の狭間に立たされることになる。
 いつも無邪気に自分を慕ってくれた従妹を、傷つけたくはない。だが彼が拒絶したところで、父王は他の皇子の成長を待って、強引にでも十市と娶わせるだろう。大友が確たる拒絶の科白を述べられずにいるうちに、瞬く間に準備が整い――とうとう華燭の式までやってきてしまった。
 そうこうしているうちに、婚礼の衣装で着飾った十市が、世話役の老女に手を引かれてやってきた。幼い頃から目鼻立ちの整った少女だったが、年頃になるにつれ、格段と艶やかさを増したようだ。化粧をし、綺麗に髪を結い上げた姿に、彼女を見慣れているはずの大友でさえ、一瞬、目を奪われ――見惚れる程に。
「――さすがはあの額田様の娘。眼を見張るほどの艶やかさですな」
「大友様もまこと凛々しくいらっしゃる。似合いの一対とはまさにこのこと」
「大海人様も愛娘の輿入れに涙したとか。これで大王と弟皇子との仲も安泰じゃ」
 日頃は権を争い、他人を蹴落として恥じない人間達が、今宵ばかりは、陽気に盃を酌み交わし、歌い、笑う。それぞれの思惑をよそに、ただしんしんと、夜は更けて行く。

 

 新夫婦の暮らす邸は、これまで大友一人が使ってきた宮を改修したものだった。大友が婿入りしたわけではなく十市が大王家のものになったのだと、内外に示す為だろう。大友が父王の遣いで数日間難波に出かけていた間に、宮の主人である大友の承諾も取らず、改装はすっかり終了いていた。
 道理でここ数日、宮の舎人や采女の様子がおかしかったわけだ。あのクソ親父、と心中で毒づいて、酒の入った杯を口に運ぶ。ちら、と見やった先には一対の夜具。言うまでもなく、新夫婦の床入り用である。
「あ、あの……大友様?」
 傍らで酌をしていた十市が、惑ったように声を上げる。宴を終えて宮に引き上げてからずっと、こうして酒を飲むだけで、ろくな会話も交わしていなかった。これ以上逃げ続けているわけにもいくまい。身動きするたびに項に零れ落ちる十市の黒髪から目を逸らして、大友は拳を握り締めた。
「十市、お前もわかっていると思うが、この婚姻は私の父とお前の父上との間を結ぶ為のものだ」
「――はい」
「私はお前の父上と争いたくはないし、争うつもりもない。出来うる限り争いは避けるつもりだが、必ず避けられると、断言はできない」
「……はい」
「その時には、私に構わず、お前は他の男に縁付いて欲しいのだ。だから私は、お前には――触れない」
 初夜の床で夫が新妻に述べる科白ではないが、これだけははっきりさせておかねばならない。本当に真実、心の底から、この娘の幸せを願っている。誰からも見向きもされず、宮の片隅に取り残された皇子を見つけてくれたのは、この少女だけだったから。
 しばし黙って大友を見つめ続けた後、十市は静かに口を開いた。
「最初にお父様から今回の縁組を言い渡された時……どうしてわたくしが、大友様の妻になると言ったか、お分かりですか?」
「どうしてだ?」
「好きだからです」
 恋の告白というよりは問答でもしているような、きっぱりとした物言いだった。これがあのあどけなかった従妹なのか。急に、自分よりもずっと年上の女と向き合っているような錯覚に陥って呆気にとられた大友を見て、十市はほんの少し、笑った。
「大友様は、どうしてわたくしを妻にすると仰ったのですか?」
「俺は……」
 それはこれまで、一度も考えたことのない事柄だった。虚を突かれた思いで、大友は一瞬、押し黙った。
 最初に父王から彼女との縁組を命じられた時、どうして拒絶することができなかったのか。お前が拒むなら他の皇子に嫁がせる、と言われた時に胸に浮かんだ、得体の知れぬ感覚は――。
「俺もお前が好きなのだと思う。……多分、もうずっと前から」
 どちらが先に伸ばしたのだろう。気づいた時には、指先と指先が触れ合っていた。そっと伸ばされた男の掌の下で、十市は綺麗に微笑んでいた。
「……嬉しい」
 どうやら、今選ぶべき道はたった一つで、その道を進む大友の隣には、あらかじめこの娘の居場所が確保されていたらしい。その道の先がどこに続いているのか、そしていつまで続いて行くのか、わかりはしないけれど。
 どこか優しい気持ちで、大友は燭台の炎を吹き消した。
 ――今、腕の中にいるこの娘を、もう引き返せないくらい、好いてしまっているようなので。
 



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