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愛の無い情愛をください


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 御名部がいたのは飛鳥浄御原宮の一角、高市の宮とは目と鼻の先にある木の下だった。御名部の姿を捜した舎人達もこの辺りは見回ったはずだが、背の高い草の影に隠れて、見落としてしまっていたらしい。
「やっぱりここにいたのか。……心配したぞ」
 それはあの日、雨に打たれる高市に御名部が傘をさしかけた空間だった。夫妻にとってのはじまりの地であり――従兄と従妹がただの親戚ではなくなった場所だ。
 あの雨の日、この場所に蹲っていたのは高市だったが、今回は体勢が逆転している。大木に背をもたれ、草の中で膝を抱えた御名部の姿は、初めてであった幼子の時と変わらぬくらい、頼りなく、稚(いとけな)く見えた。
「……この場所のこと、覚えていたの?」
「当たり前だろう」
「ごめんなさい。あなたの大切なものを勝手に見てしまって」
「いや、いいんだ。そんなことは」
 並んで大木の根元に腰を下ろすと、後は何と言っていいのかわからなくなった。十市を愛してはいなかった、と言ったところでそれは嘘にしかならないし、御名部にとってみれば、十市に対する言葉など欲しくもないだろう。何かを告げるなら、それは御名部に対するものでなくてはならない。だがこうして相対してしまうと、自分の妻に、かける言葉のとっかかりさえ掴み取ることができない。
「俺はさ……大友が死ぬ前に、十市を守ってくれと頼まれたんだ」
 肩と肩が触れ合うくらいの近しさで、傍らの体がぴくり、と震える。
「その為になら、何だってやったよ。まずは自分の立場を固めることだと思ったから、積極的に政にも係わったし、親父や義母上に媚びうることもした。――そうして気がついたら、側には誰もいなくなってた」
 従兄も友も、異母姉の心も。
 今にして思えば、もう少し他にやりようがあったようにも思う。だがあの頃は、高市も必死だったのだ。
「お前はそんな俺を見て、微笑みかけてくれた。正直、嬉しかったよ。だから……」
「……高市様?」
「十市を守りながら、お前に惹かれて行くのは、辛くてたまらなかった」
 黙っていても大きな瞳が見開かれた。そこで星明りが瞬いている。綺麗な目だなと、改めて高市は思った。
「側にいてくれ。これからも、ずっと」
 腕を伸ばして引き寄せると、こつんと素直に、御名部は高市の肩に頭を預けてきた。心地よい重みを感じながら、高市は遠い昔に亡くしてしまった人達の面影に問いかけた。
 ――もう、いいよな。俺はお前達を忘れる。悪いとは思う。だけど俺には、今のこの温もりの方がずっと大切なんだ。
 亡くなった者は答えない。ただ晴れやかな笑顔を見せて、遠ざかって行った。



 朝陽が昇りはじめると同時に、辺りは格段に騒がしくなった。厨(くりや)と部屋を行き来する人数が増え、采女達はその手に布地や湯の入った釜を抱えている。
 落ち着かずにうろうろと歩き回っていた高市に、その報せがもたらされたのは、完全に朝陽が昇りきった頃だった。宮の采女も手伝いにきた親戚の女達も皆一様に満面の笑みを浮かべている。
「おめでとうございます。元気な男のお子様ですよ」
 戸を押し開けて産屋に飛び込むと、真っ白な産着に包まれた赤ん坊を抱いて、御名部が微笑んでいた。疲労の跡は隠し切れないが、身体全体が母親になった喜びで満ち溢れている。
「うわぁ」
 高市の腰の辺りで、少女が素っ頓狂な声を上げた。宮に引き取って生活を共にしている異母妹――但馬皇女である。
「この子が高市兄様の赤ちゃん?」
「そうだ、お前の甥だぞ。抱いてみるか?」
 布の塊を恐る恐る受け取って、おっかなびっくり顔を覗き込んでいる。
 時は流れ、時代は変わる。老いた大王は近頃身体の不調を訴えるようになり、病弱な皇太子草壁を後継として危ぶむ声は今も耐えない。いくら時を重ね、時代が変わっても世の中が平穏になるということは、ありえないのかもしれない。
 だが――。
 早くに母を亡くした幼い子供と、この世に生を受けたばかりの小さな生命。二つの幼い命の対面を見守りながら、高市は思った。
 例え平穏とは程遠くとも。彼らの未来には、まだ誰も見たことのない明日が、広がっているはずだ。




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