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愛の無い情愛をください


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 高市が宮に帰ってきた時、陽はとっぷりと暮れていた。
「……ったく、いいだけこき使いやがって」
 首を回せばコキコキ音が鳴る程、全身が凝り固まっている。今日も一日、役所で書簡やら報告書やらと戦い続けた戦果がこれだった。大王の長男、国政の要とはいっても、実態はほとんど便利屋とかわりない。
 大王、皇后、そして皇后の子である草壁だけが大王家の一員で、高市を含むその他大勢は臣。大王に忠誠を誓い、大王の為に働き、大王の為に死ぬ。そんな今のあり方に不平がないと言えば嘘になるが、三十路も過ぎた今となっては、それならそれでもよいと思えるようになってきた。
 それで戦が起こらないのなら。
 もう自分の――誰かの大切な人が失われないのなら。
 気分転換をかねてぶらぶら歩いて、自身の宮の敷地の直前で足を止める。普段ならこの時間、宮内には既に灯火が点され、高市の妻である御名部皇女とごく一部の采女が夕餉の仕度をしているはずだった。しかし今、建物内に明かりは見えず、ひっそりと静まりかえっている。そのかわりのように、庭や門の内側に多くの使用人が集まって、どこか落ち着かない雰囲気をかもし出している。
「おい、どうした。何かあったのか?」
「高市様!」
 見慣れた舎人の顔に浮かんだ焦燥の色合いを見て、高市は眉根を寄せた。
 高市と御名部が結婚して五年、子供は授からなかったものの、概ね平穏な結婚生活だった。高市が帰ってきて、御名部が迎えに出て来なかったということもない。――これまでは。ただの一度たりとも。
 背筋を冷たいものが駆け抜けた気がした。それはこの五年間の穏やかな生活で、高市が忘れかけていた感触だった。
「御名部はどうした?今日は出迎えはなしか?」
「それが……」
 言いよどんだ舎人の向こうに、采女の白い顔が見える。その赤い唇が発する言葉を皆まで聞かず、高市は走り出していた。
「――御名部様が何処にもいらっしゃらないのです……!」



 御名部の姿が消えたのは今日の午(ひる)過ぎ、但馬皇女の為に容易した部屋を片付けていて、その場所から突如として姿を消したという。部屋の窓は開け放たれていて、床には装身具の宝石が散らばり落ちていたことから、すわ賊の侵入か、と宮中の人間がざわめきたったらしい。
 もっとも落ち着いて検分してみれば、門や扉が破壊されているわけでもなく、警備の舎人も門番も怪しい人影は見ていなかった。母屋に保管されていた金目のものや政治絡みの贈呈品も無事だ。御名部の母の実家である蘇我氏の館と、大王の宮、それに御名部の同母妹が嫁いでいる皇太子の宮に使いを送って、以前、自分が居室として使っていた部屋に脚を踏み入れる。一歩敷居を跨いで、高市はその体勢のまま固まってしまった。――どうして、これがここにある。
「これは……」
 手燭の炎を弾いてきらきらと瞬いたもの。装飾品が散らばっていたと聞いて、てっきり御名部のものだとばかり思い込んでいたが、これは……。
「どうして、これが……」
 真珠の耳飾。複雑な装飾を施した簪。金糸の刺繍で彩られた帯紐。それはすべて、五年前、自ら命を絶った異母姉の遺品だった。
 先王の后――それも自害した女の身につけていた装飾品を好んで貰いたがる人間はいなかったし、近江にいる彼女の子供は男子だ。ほとぼりが冷めるのを待って金に変え、葛野にくれてやるつもりで隠していたものだ。
 どうしてそれがここにある。それもこんな風に、台風にでもさらされたかのように散らばって。
「……十市」
 十市を愛していたのかと問われれば返答に困る。弟として、姉を愛していなかったとはいわない。だが重荷だったのも確かだ。あまり大きな声では言えないが、彼女が亡くなった時、心の何処かで安堵を――これでこの重たい責務から解放される、と思わなかったといえば嘘になる。
 十市を失くしても、高市の人生はその後もつつがなく続いていった。だが今、御名部を失えば、間違いなく高市の心は狂う。
「畜生!」
 思わず投げつけた簪から宝玉が散らばって、床にぶつかり跳ね上がって落ちた。潰して売り払えば、並みの役人の年収に値するだけの価値があるものだ。付き従っていた舎人や采女が戸惑ったように声を上げる。
「高市様?!何処へ行かれるのですか?」
 確信はなかったが、おぼろげながらも予感はあった。賊に攫われたわけでも、誰かにかどわかされたわけでもない。御名部が自分の意思で、自分の足で向った場所。
「……自分の妻を、迎えに行くんだよ」
 振り返った高市の応えは、薄暗い宮の廊下に跳ね返って、消えた。




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