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「何もない」がここにある


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「――高市様、但馬様を宮に引き取られるんですってね」
「まあ、ならいずれは、養女になさるおつもりなのかしら」
「かもしれないわよね。御名部様には御子がいらっしゃらないのだし――」

 何処からともなく聞こえてきた采女の噂話で、御名部は目を覚ました。今日もいつも通り早朝に起きて夫を送り出し、細々した家事仕事を片付けていたのだが、途中で気分が悪くなって横になった。自分でも気づかぬうちに、眠ってしまったらしい。
 御名部は天智帝と送り名された先々の王が、大豪族蘇我氏の娘との間に儲けた皇女である。十八の歳に従兄にあたる高市皇子に嫁いで妃となった。以来、高市の唯一の妃として、彼を支える立場にある――とは言っても、難しい政(まつりごと)の話がわかるわけでもなく、彼女に出来るのはただ、衣食住や彼の身の回りのことに気を使って、この宮を精々居心地よい場所に整えることだけなのだが。
 御名部は、自分が格段に美しい娘ではないことを知っている。どちらかといえば口の重い方で、優れた歌を詠めるわけでもない。唯一の取り柄といえば蘇我の血を引く血統と財力だが、これだって、下手をすると大王位に野心があると思われて、娶った夫の立場を悪くしかねない。
 それでいい、と夫は言う。俺は何もお前を飾り立てて連れ歩きたいわけじゃない。お前が合わせた香を焚き、お前が選んだ衣を着て、お前がいるこの宮に帰る。この生活が幸せだと。財力が欲しかったわけでも、血統に裏付けられた後ろ盾が欲しかったわけでもない。ただいてくれれば、それでいいのだと。
 ただ、いてくれればそれでいい。――なぜなら、彼は失ってしまったから。
 何より大切な人は、彼の手の中から奪われてしまったから。
 御名部を娶る前、高市は異母姉である十市皇女の許婚だった。大王家の親戚同士の集まりなどで、何度か顔を合わせたことがある。女の御名部ですら見惚れてしまう程、美しい女(ひと)だった。幼い頃から親しんできた高市が彼女に焦がれて、妻に迎えたいと願ったのも無理はないと思う。結局、十市は高市と結ばれる前に命を断ったが、高市の心の中には美貌の異母姉の面影が、今も美しいままで焼き付けられているに違いない。
 体調が優れないと、気分も滅入ってくるものなのかもしれない。起き上がって化粧を直そうとして、御名部はつと手を止めた。鏡の向こうに、格段に美しくもなく、優れてもなく、嫁いで五年たっても子を産むことのできない女の姿が見える。
 五年という月日は短くない。高市に抱かれて夢見心地に浸ったことも、他愛のない言い合いをして、頬を膨らませたこともある。それでも今もまだ、十市の影にいるような気がしてならないのだった。


 
 但馬皇女は高市の異母妹で、早くに母を亡くした妹を長兄である高市が哀れんで、宮に引き取ることにした少女である。小柄で年齢より幼く見える少女で、高市と並ぶと兄妹というより父娘に見える。実際、高市の心もちにもそれに近いものがあるだろう。彼が意外と子供好きで、子供にも好かれる性質であることを、御名部は誰よりもよく知っている。
 高市が但馬の為にと用意した部屋は、結婚前、彼が自室として使っていた場所だった。御名部を妻に迎える時、それまで使っていた宮を改装して、増築した部分を夫妻の居室にあてたのだ。だから自宮のこの界隈に脚を踏み入れる時、同時に夫の過去に脚を踏み入れるような、いたたまれさを感じることがままあった。
 滅入った気分を振り払うように窓を開け放ち、部屋の中の空気を入れ替える。
 少女から娘時代の一時を戦乱の中で育った所為で、御名部は一般の皇女なら決して手を出さないような家事仕事が得手だった。繕い物も自分の手で出来るし、掃除も料理も簡単なものなら自分の手で行える。
 その辺りが、自身の宮の采女にさえ蔑まれる要因であると知ってはいるけれど、いったん身についた習性はそうそう変わるものではない。それに母を亡くして寄る辺ない少女にはできるだけ、自分の手で世話を焼いてやりたかった。御名部は結婚が遅かったが、早くに縁組を行っていれば、今頃、但馬くらいの年齢の娘がいても不思議ではないのだから。
 埃が溜まった桟を掃き清め、長らく使われていなかった臥台をぼろ布で拭く。しばらく我を忘れて部屋を片付けて、一息つこうかと身体を起こした瞬間、持ち上げた肘が壁の一部に触れた。
 かたん、と音がして、部屋の柱が揺れる。そこに現れたものを見て、御名部は思わず息を吸い込んだ。
「隠し棚……?」
 設計か建築の段階で誤差でも生じたのだろうか。柱と壁の隙間に、かろうじて人が通れるほどの空間が開いていた。その空間に板を渡しただけの簡素な棚にぽつんと一つ、複雑な装飾を施した手箱が置いてある。
 知らず、腕を伸ばして手箱の蓋を引きあける。中に入っていたのは、首飾りに耳飾り――女が使う装飾品の数々だった。繊細な細工、色鮮やかな宝玉の数々。その中の一つに、鳳凰を象った櫛がある。それをどこで見たかを思い出した瞬間、御名部は手の中の箱を取り落としそうになった。
 鳳凰を象った櫛。それは亡くなった先王――御名部の異母兄である大友皇子が、百済の使者から貰い受け、妻に送った品だった。妻である十市皇女はその櫛を大層気に入って、どんな席でもかならずそれを身につけていた。あの日――新朝廷が新たな滑り出しを遂げ、誰もが大友皇子の死を喜んだ宴のあの日も、美しく装った彼女の髪を飾っていたのは、この鳳凰の櫛だった。
 その櫛を高市が持っていた?十年以上、誰にも見せることなく、彼だけの空間で、ただ、ひっそりと。
「いやっ……!」
 まるで、忌まわしいものであるかのように、装飾品の入った手箱を払いのける。たった今掃き清めたばかりの板床の上を、髪飾りから離れた真珠が転がって行く。開け放たれたままの窓から射し込む陽光を弾いて、宝玉がきらりと瞬く。
 それは御名部にとって、これまでそこにあると思っていたものが、実は何もなかったのだと知らせる煌きだった。




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