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何処までも高く昇り堕ちて


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 飛鳥の都に帰り着いた頃には、全身がしっとりと濡れそぼっていた。日暮れ頃から降り出した霧雨が容赦なく衣の隙間に染み込んで、その下にあるはずの温もりを奪い去って行く。
 従者を先に帰して厩(うまや)に馬をつなぐと、霧雨は本降りになっていた。弔問の使いに出かけたのが今日の朝方、その時はまだ雨は降っていなかったので、笠は持って出なかった。頭上に枝を広げる合歓(ねむ)の木の下で、高市は深々と息を吐き出した。
「参ったな……」
 こんなことなら、供の者を先に帰すんじゃなかった……と悔やんだところで、今となっては何の解決策にもなりはしない。飛鳥浄御原宮の一角にある高市の邸は目と鼻の先、だが、水桶をひっくり返したような土砂降りの中を走って宮に駆け込むだけの気力と体力は、今の高市にはまるでなかった。
 ――ちょっと高市!あんたの所為で枝が折れたじゃない。どうしてくれるのよ?!
 ――何だよ、十市が乗っかってる時から、枝なんかみしみしいってたじゃないか!十市が重すぎた所為だろ?!
 ――どうでもいいがお前達、早く、私の上からどいてくれ。
 大友、十市――誰よりも近しく、そして永遠に失ってしまった、大切な人達。
 異母姉である十市皇女が自ら命を絶ったのは、今年の春先のことだった。巫女として泊瀬倉梯宮へ赴く当日の朝に、懐剣で自身の喉を突いたのだ。戦で夫を亡くしてから七年目の自害に、口さがのない人々は、十市が精神を病み、正気をなくしていたのではないかと噂した。あるいは、その自殺と夫の死には係わりはなく、彼女は夫のことなど何とも思っていなかったに違いない、と。
「阿呆らし……」
 十市はこの七年間ずっと、正気過ぎるほど正気だったし、そして最期の瞬間まで、大友を想い続けていた。――他の何かが入り込む隙間など、微塵もないほどに。
 何はともあれ十市は死んでしまったのだし、想い続けた夫の許にたどり着いて、もしかするとそれは彼女にとって、幸せなことであったかもしれない。約定を守れなかった謝罪は自分があちらの世に行った時に誠心誠意行うとして、生き残った高市はこの先、彼らを抜きにした高市なりの人生を生きて築いて行かねばならない。だがこの七年はずっと十市の気配――大友との約定が心身にまとわり付いていて、高市の存在は当の本人が驚く程、日常の世界に溶け込めずにいた。ならば戦が起こる前はどうだったか……と思い出してみたところで、そこには十市と共に大友の後を追い掛け回していた牧歌的な少年時代の思い出が残るだけで、何の参考にもなりはしない。
 ……もしも俺が今ここで死んだとして、一体誰が困るだろう。半ば自虐的にそう思う。大王の長男である高市は朝廷内でそれなりの地位を得て、国政に携わる立場にあったが、皇太子は既に鵜野正妃の産んだ草壁皇子と決定している。
 何時の間にか、月が出るような時刻に差し掛かっていたらしい。分厚い雨雲の隙間にうっすらと、刃のように鋭い月が見える。ほとんど無意識のうちに、自分の剣に手を伸ばしかけていた高市の動きは、寸前で引きとめられた。青葉の合間を縫うようにして降りかかっていた雨雫が途絶えたことに、気がついたからだ。
「御名部……お前、どうして」
「お姉さまのお邸にお呼ばれしていたんです。帰ろうと思ったら、高市様がここで雨宿りしているのが見えたの」
 高市の頭上に傘をさしかけた娘――御名部皇女は今年で十八歳、十市やその母親の額田女王のようにずば抜けた美貌ではないが、濡れたような大きな瞳に何ともいえない魅力がある。この七年、彼女の瞳が高市に向けられ、その口許に微笑みが浮かぶのを見るだけで、どれだけ心が安らいだことか。
 黒く濡れた瞳がわずかに狭まり、そこに困惑の光が浮かぶのを見て、高市は半ば呆けたように、御名部を見上げ続けていたことに気がついた。自分ではほんの一瞬のつもりであったのに、御名部の髪が雨に濡れているところを見ると、随分と長い時間が経ってしまっていたらしい。
「御名部、俺は……」
 口を開きはしたものの、自分でも、何を言おうとしたのかわからなかった。御名部の髪から滴る水滴が頬を伝って顎の先から、ぽたぽたと散って行く。その行く先を細い指が遮った。冷え切った男の頬に温かな慰撫が与えられる。薄紅色の唇を押し開き、少女は確かに微笑んでいた。
「高市様、ここは寒いわ。……中に入ろう?」
「……!」
 何気ない、ただそれだけの一言。だがその一言が、流れ落ちる雨の雫の冷たさより明確に、高市の胸に染み込んでくる。
 気づいた時には細い背中を、もぐようにして抱き寄せていた。わずかな抵抗も小さな悲鳴もものともせずに、腕の中に閉じ込める。御名部の手を離れて転がった傘が風に吹かれて、何処とも知れぬ場所へと連れ去られて行く。
 交わした約定を守ることが出来ず、大切な人間を失った。けれどまだ失くしていないものがここにある。――この温もりだけは、決して失くしてなるものか。
 雨を降らせていた灰白色の分厚い雲が斜めに割れ、そこから広がる藍色の夜空の下で、神とも仏ともつかぬ何かに向け、高市は祈った。――祈らずに、いられなかった。





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