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優しすぎる傲慢


扉へ/とっぷ

 1
 風が鳴いている。
 大地を抉り、枝をかき鳴らし、戸板を揺るがす風の音は、どこか軍馬の嘶(いなな)きにも似ている。見上げれば、薄墨(うすずみ)色の水面から這い上がって天空を駆る、鈍(にび)色の龍の姿が見られるに違いない――
 深い眠りを妨げられ、十市(とおち)はぱちりと目を開いた。
「大王(おおきみ)……?」
 薄闇の中、無意識に探った褥(しとね)は冷たい。まるではじめから、そこには誰もいなかったかのように。
 風が鳴いている。
 枝からもぎ取られた木の葉が、巻き上げられた砂塵が、邸の壁にぶつかって、ぱらぱらと砕けては散って行く。
 ――まさか。
 忍び寄る悪寒に耐えかねて、十市は両の手で己(おの)が肩を抱き寄せる。何処からともなく人の声が響いたのは、その時のことだった。
「十市様、十市皇女様はおられますか!」
 ――まさか……なのかもしれない。
「申し上げます。山前において大友皇子自害、この内乱は父君、大海人皇子様が勝利を収められました――」



「――葛野様って、本当は高市様のお子なんですってね」
「さすがあの額田様の娘よね。二人の皇子様を手玉に取って――」
 通り過ぎる采女の噂話を、十市は自身に与えられた居室で聞いていた。朝廷を二分した大乱の終結後、父である天武帝の許に引き取られた後のことだった。
 夫の死後、父親の手によって飛鳥に護送された十市は、息子である葛野王と引き離され、同時に、これまでの人生のすべてを否定された。年上の従兄に嫁いだ事実、その子を産み、母となった事実、そして大王の后として、先の朝廷の女主であった事実を。
「陰口に唇をかみ締め耐え忍ぶ、か。あのお転婆娘も随分と大人しくなったものだな。十市」
「――何の用です。高市(たけち)」
 見れば居室に入り口の壁に拳を突きたて、長身の青年が口の端を持ち上げている。天武帝の第一皇子である高市皇子は、文武両道、容姿端麗、当代一の貴公子として名高い。
「何の用だと?おいおい、大王が認めた許婚(いいなずけ)にそれはないだろうが」
「私(わたくし)は先王の后だ。――再嫁(さいか)などはしないと、何度言ったらわかる」
 皇女の再縁ならば過去に例のない話ではない。だが后ともあろう者が、格下の皇子に再嫁した例など過去に一例しかない。穴穂部間人皇后と田目皇子の再婚は、今でも人々の口の端に上る一大醜聞だ。
「再嫁……?」
 嘲るように異母弟は言う。
「再嫁も何も、お前に嫁いだ過去なんかない。そうだろう?」
「……!」
 かつりと鈍い音がして、青年の背後の壁に、陶器の欠片が突き刺さった。十市が手許にあった椀を投げつけた為だ。
「これ以上、大友様を侮辱したら、私が許さない!」
 高市、十市は一つ違いの異母姉弟、五歳離れた大友とは共に幼馴染だった。父と伯父に定められた婚姻には違いない。だが十市は幼い頃から大友を慕っていたし、大友は彼女にとって、申し分のない夫だった。――例え最後の最後に、彼が彼女を裏切って、一人で果てる道を選んだとしても。
「まったく気の強い女だ。心配しなくとも、お前みたいな女、俺の方がお断りだよ」
 まだ、椀に水が残っていたらしい。投げた拍子に零れて首筋に滴った水を袖口で拭っていた十市は、この時、異母弟が苦笑と共に吐き出した呟きを、聞き逃してしまっていた。
「まったく、厄介なこと押し付けやがって。あの馬鹿義兄貴(あにき)が……」



 父帝の庇護下において、十市の生活は表向き、穏やかに流れた。大王家の長女として、異母弟達の養育に心を配り、異母妹の嫁ぎ先を吟味する。相変わらず、息子と会うことは許されなかったものの、手習いを始めた葛野からは時折、たどたどしい手蹟の頼りが届くようにもなった。
 このまま、何事もなく過ぎ去るのかもしれない。そんな風に思い始めた日常が壊れたのは、壬申の乱から数えて、七年目の春のことだった。
「――私に巫女になれと言うのですか?」
 その日、久方ぶりに大王の居室に招かれた十市は、父王の口から出た言葉に思わず耳を疑った。巫女は神に仕える未婚の娘がなるのが通例だ。だが父は、人の妻となり――母である身の十市を、巫女として泊瀬倉梯宮へ送ると言う。
「父上、何を仰って……」
 即位後、天武帝が最初に行ったのが、徹底した先王の治世の否定だった。大友皇子の即位は否定され、天智・大友二代の都であった近江宮を捨て去り、十市から后の称号を奪い取った。
 それでもまた足りずに、神まで愚弄して、先王の后に巫女になれとまで言うのか。睨みつけるような眼差しで父帝を見た十市に声をかけたのは、父の傍らに座した女性――天武帝の后である鵜野皇女であった。
「十市殿は、大王のご長子。未だ未婚であらせられることですし、巫女として大王家の繁栄を祈っていただくには、ふさわしい方ではないかと、わたくしが大王に申し上げましたの」
 紅を引いた唇が吊りあがる。彼女は十市の母・額田王女がまだ父の妻であった頃、天智帝から送り込まれて正妻となった皇女だった。年の近い義母子の関係は、お世辞にも良好とは言いがたい。
「そうそう」
「……」
「十市殿が後見なさっているあの子供……確か、葛野とかいいましたか。こないだ学問寮で見かけましたが、もうすぐ九つとか」
 言うことを聞かぬなら、息子がどうなっても知らぬ。無言の脅しに、口の中に血の味が広がって行く。別れた時二つだった子供はもう九歳――息子は、夫に似ているだろうか。
「――わかりました。父上と義母上がそれほどまでにと仰せならば、巫女として参ります。ただ……」
 握り締めた拳の中で衣が寄る。かつてこの胎にあった命。存在さえ抹消された大王と后の子。例え名を失くし、どれほど誇りを傷つけられても守り抜く。それだけが今の十市にとってのたった一つの望みだ。
「その前に――我が息子に、葛野に会わせてください」



 十市の決死の願いは、思っていたより早く聞き入れられた。十市皇女が巫女として泊瀬倉梯宮へ向かう決定した数日後、十市の居室で、生き別れとなった母子の七年ぶりの対面がかなったのだ。
「葛野……」
 手放した時、息子はまだ伝い歩きをはじめたばかりだった。もちろん乳母はついていたが、乳の出のよい十市は日に何度も自身の乳房を含ませ、むつきの交換も自分の手で行っていた。夫である大友が、私は葛野にお前を取られてしまったと、苦笑するほどに。
「は……母上様は、ご機嫌麗しゅう……」
「挨拶はよいから。お願い、顔を見せて」
 十市の声に従って顔を上げた少年の相貌は、九歳という年齢より、ややあどけなさを残していた。黒く澄んだ眼差し、凛と通った目鼻立ちは、今は亡き大友皇子の面影を宿しているかのように――見えなくもない。
「母上……?」
 母と呼んだ女が差し出した掌を、少年は拒むことなく受け入れた。白い指の間をさらさらと零れ黒髪が零れ落ちる。しばし慈しむようにかき分けて――少年の額が露になった瞬間、十市は目の前の少年を、力の限り突き放していた。
「お前……誰?」
「十市様?何をおっしゃいます。葛野王様ではございませんか」
「違う――!」
 十市の生んだ子には右の額の端に、深紅の小さな痣があった。忘れもしない。この痣さえあれば大人になった息子が面変わりしても紛うことないと、何度も何度も指で辿った傷痕だ。
 今、目の前にある少年の額は白い。傷も痣も、何一つ見当たらない。
「どういうことなの?私の子は何処!?」
「わ、私達はただ、壬申の乱の後に葛野様をお預かりしただけです。それ以外のことなど、わたくし達には……」
 怯えたような采女の声が遠い。――どこかで何かが壊れる音を聞く。
 それはあの日の風の音だった。お喜び下さい。そう言って、夫の訃報、父の勝利を告げたあの風の音。
 どうして信じたりしたのだろう。后を未婚と偽って巫女に仕立てる大王が、先王の子をそのまま生かしておくなどと。
「……ははは」
「十市皇女様?」
 愛した夫は既になく、何にも代えても守りたかったわが子は別人だった。
「ははははは……」
 ――ならば、私は何故……?
「誰か来て、十市皇女様が!」
 遠くで誰かが叫ぶ声を聞きながら、十市はただ、笑い続けた。――笑うしか、なかった。





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