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風の挽歌

第9章 はじまりの月


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 ――今までありがとう……さようなら。

 かたごとと揺れる4つの車輪の、真上。道を駆ける馬蹄(ばてい)の音は、眠りを誘うのにちょうど良い。だが瞼を閉じたところで、やすらかな波は訪れてはくれなかった。耳の奥で繰り返される1つの響きを追い出すように目を開き、斜め後ろから彼らを追ってくる月の光を見つめながら、そういえばあいつと初めて出会った時にも、ちょうどこんな深紅の色の、半円の月が掲げられていたな――と、カイは思った。



「――覚悟!」
 覇気を帯びた声は、唐突に、背中の後からやってきた。
 疾風(はやて)のように訪れた鋭い殺気を感知し、カイは上っていた石階段3つ程の空間を一気に駆け上がった。
 幅はわずかに大人の足で1歩半。高さに至っては、転がり落ちれば、並みの人間はまず助からぬという程の石階段の道半ばである。振りかえりざまに剣を抜き打つと、夜の静寂(しじま)に火花が散る。
「――何者だ?!」
 飛びかかってきた影は、屈むように身を丸め、彼の喉許目掛けて突進してきた。一刻で天を駆け抜けると言われる、天馬(てんば)を思わせるしなやかさ。その右手に鋭く光る刃物の輝きを感じ、カイは咄嗟に片方の膝を折る。
 かがみ込んだ金の髪の真上で、白っぽい布の先端が、はたはたとはためいていた。深い森のこちら、半月の光を浴びて、影がこちらに向きなおる。真正面から相手と対峙し、カイは思わず、剣を鞘へと納めていた。
 ――ガ……キ?
 年の頃は13,4か。短く刈り込まれた漆黒の髪に、褐色と言うには少し白い肌。向き合うとカイの鎖骨の辺りに頭頂部がある。黒曜石の瞳は、光源の少ない夜の片隅で凛と輝き、三日月と同じ形をした刃はぴたりと構えられたまま、一寸の隙さえもない。
「……おい、お前、俺に何か用か?」
 用のある相手に、いきなり刃物を突き付けるというのも、あまり穏やかな話ではないが。
「――貴様が、女の血を吸ってまわる魔物か」
「は?」
 ――何の話だ?
 唐突に襲いかかられたことといい。少年の台詞といい。何が何だかわからないが、何か、とてつもない誤解をされているらしいことだけは理解が出来た。両手を空にひらひらとひらめかせ、取りあえず敵意のないことを示す。
「俺は正真正銘、ただの人間だ。ほら、どこをどう見たら魔物に見える?」
 武器を手に、少年はつかつかと歩み寄り、まじまじとカイの顔を真正面から身据えてきた。露わになった首筋が、視界のすぐ下にある。
 近くで見ると、まるで女のように木目細かい肌だった。恐らく相当腕に自信があるのだろうが、無防備といえばかなり無防備と言っていいだろう。
「――?!」
 ほんの一瞬の隙を逃さず、その掌から刃を奪い取った。息をつく間もなく、そのまま刃先を握り締める。鈍い痛みから一拍の間をおいて、生暖かい液体が、彼の手を伝って落ちた。
「な、何をっ!」
「まあ、世には人間の顔をした魔物もいるというからな。しかし見ての通り、身体の中には赤い血が流れている。……これで一応納得して貰えるか?」
 からん、と軽やかな音をたてて刃が石畳みを転がり落ちた。少年が、ようやく武具を手放したのだ。流れ落ちる血と、それに染まった自身の武器を交互に見比べ――彼はやがて、ひゅ、と音が出る程に、激しく息を吸い込んだ。
「そ、そんなことの為だけに、こんな無茶をしたのかっ?!」
 カイのそれより一回りは小さな手が、傷ついたものを手に取る。まるで今にも泣き出しそうな表情で、傷口に布を巻きつける。その仕草や必死な表情に、カイは密かに首を傾げた。
 ――人に刃を突きつけたかと思えば、傷を案じる。この子供は一体、何を考えているのか。
「……大した傷じゃない。利き手でもないし。そのうち血も止まるだろ」
 それでも、黒髪黒眼の少年は答えない。その壊れそうなほどに華奢な背を見つめ、もしかしてこいつ……と眉をひそめ――瞬間、今の今まですっかり失念していたことを思い出し、思わず、声を張り上げた。
「あ――っ!」
「な、何?」
 唐突に大声を出したカイに、少年は腰を抜かしそうな程驚いている。この際少年は無視して辺りを見回し、カイは忌々しげにち、と舌を打った。
「あの女、どこ行きやがった?!」
 そう――この階段の上には今宵の寝ぐらに定めた廃神殿。そこへ向かう彼には道連れがいたのだ。飲み屋の辺りで客を引いていた街娼で、さして好みの顔ではなかったけれど、取りあえず愛嬌だけはあった。そして何よりも――
「前金払ったっていうのに、とん面しやがったな?!」



 星はなかったが、月の明るさで灯火には困らなかった。見事に真ん中で断ち割られた月は、忌々しいほど赤い半月で、生い茂った森の彼方に静かに佇む白い石柱の先端が、赤く染まって見える。
 息を切らして砂利の上を走りながら、女は懐に収めた、銀貨の感触を何度も何度も確かめていた。
 ――何だったのよ、あれは。
 久しぶりに得た今宵の客だった。例の事件があったからというもの、敢えて街頭の娼婦を買おうという意気ある男が少なくなった。町の男は娼館に行く。懐の淋しい男は、冷えた寝床の1人寝で堪えるから、今では旅の男を手八丁口八丁で篭絡して、無け無しの路銀を吐き出させなければ、生活にならない。
 旅の若者は見た目が良く、酒癖も金離れも悪くなかった。うまくやれば、まだまだ引き出せると思ったのに――
 ようやく切り合いの火花が見えなくなるほど、遠ざかり、女は震える息で歩みを緩めた。
「で、でもこれだけあれば暫くは大丈夫よね」
 懐に収められた銀貨。あの青年が前金にとくれた半金。ことが終われば残りの半分を支払う約束だったが、抱かれることもなく、危ない橋も渡らずに金を得る機会などそうあるものではない。これだけあれば、暫く、兄弟たちに美味いものを食わせてやれる。
 だが、女が人知れず微笑を浮かべた刹那、背後から強い力で肩を掴まれた。
「!」
 恐怖で、身が竦む。こんなことなら、あの若者の近くにいれば良かったのか。朝になれば終わる繋がりであっても、少なくとも夜の間くらい、彼女に襲いかかる怖いものから守ってくらいはくれただろうに。
「まあ、あ、貴方でしたか……」
 かたかたと小刻みに震えながら背後を振り仰ぎ、女は安堵の息を漏らした。夜の隅で出会った人間は、彼女の知るところの人間で、少なくとも、理由なく人に危害を加えたたりはしない――と胸を撫で下ろした女は、胸元に衝撃を感じるるまで、その人物の手の中にある、刃の存在を悟ることはなかった。
「――っ!?」
 柄の部分で、再びみぞおちを突かれた。抵抗する間もなく、背後から体を拘束される。
「まさか、貴方が……」
 繋がるはずの言葉が、気管を滑り落ちる。的確に急所を打たれ、意識を失いかけてもなお、彼女の脳裏は痛みでも恐怖でもなく、手にした銀貨で購える食事と、それを待つ家族の笑顔を捕らえていた。
 ――待っていて。もうすぐ帰るからね。



「街角の娼婦の血を吸う、吸血の魔物……だと?」
 そうだ――と少年は頷いた。
 カイが今宵の宿に定めた、廃墟と化した神殿の内である。かつてはそれなりに高位の神が祭られていたのだろうが、ここもご多分に漏れず、既に神の気配は感じられない。だが同時――とカイは人差し指を顎に押し当てる。
 神の気配は感じない。だがまた、この街には、魔物の気配も感じないのだ。
「もう1ヶ月になる。大体三晩につき、一人。それで11人。若い娼婦が人知れずに攫われて、朝になると死体になって見つかる。必ず首の――ここのところを切り裂かれて、だけど地面には一滴の血も落ちていない。この町じゃ、若い娘はもう、日が暮れた後は出歩かないんだ。ましてや、街娼を買おうという男なんて――」
 疑われるのが怖くて、事情を知るものは誰もそんな女に手は出さない。わけも知らずに金で女を買おうとした旅の男は、嫌疑を受けても当然というわけか。
 といっても実のところ、抱く気で女を連れてきたわけではなかったのだ。そういう形で夜を生きる女には十中八九、背後に怖い顔したおじさんやらお兄さん達がぞろぞろとついているから、その辺りと話をつけて(場合によっては腕に物言わせて)、仕事を手に入れようと狙っていたのである。
「……で、お前は大層にも、その吸血鬼とやらを捕まえてやろうと思い立った、お偉いガキってわけか」
「そんなんじゃない。僕は、この件について依頼された賞金稼ぎだ」
 ほう、と思わず眉を寄せる。人里を脅かす魔物を狩って暮らす賞金稼ぎ。大災厄以来の治安の乱れにつけ込んだ新たな職業だが、まさかこんな子供までもがその名を名乗るようになっていたとは。
「何で、そんな顔して見るんだ」
「いや、別に俺は、お前みたいなガキに、本当に魔物を倒せるのか――なんてことは考えてないぞ」
「考えてなくたって、口に出してるだろう!」
「……その仕事、俺も混ぜてもらおうか」
 ぱか、と少年は口を開いた。首の後で短く刈りこまれた黒髪が、わなわなと震えている。
「な、こ、これは僕の仕事だ、何であんたなんか――」
 ほれ、と布を巻きつけた左手をかざして見せると、ぐ、とうめいて口を噤む。少なくとも、確認もせずに人を魔物呼ばわりした後ろめたさは感じているらしい。に、と笑みを浮かべ、カイは今度は傷のない、右手の方を差し出した。
「まあ、一応はじめまして、と言っとくか。俺はカイ。お前は?」
 かなり不本意そうな顔をしながら、少年は答えた。自身の名を告げるその声は、少女のように高く、か細い。
「……シナ」



 ぱたり、と一粒、雫が零れる。白い裸身を埋めた浴槽の縁(へり)に、濡れた髪が二,三筋、赤く染まってへばりついている。臥せた睫毛を彩る涙までもが血の色で、一瞬、頬を伝ったそれが自分を責めているかのように感じられ、男は手にした布袋の内から並々と注がれる血の海の内に、瞼を閉じて瞑目した。
「許してくれ。こうするしかないんだ」
 すまない。だが謝罪の言の葉は、彼が殺害した、十数人にも及ぶ女たちへ向けられたものではない。彼が謝るのはただ一人。生きてきたらきっと、彼の行為を許さぬであろう、今は深紅の浴槽へ身を沈める、かつて愛した、女の屍(しかばね)のみだ。
「許してくれ――」



 寒風が走る壁の前に、人待ち顔の女が数名。
 さっきからもう2時間はここにいるというのに、その数と顔ぶれが変わることはない。なるほど、この町の夜は、既に息も絶え絶えなのだ。未だ夜も更けきらぬ歓楽街に閑古鳥など、笑い話にしかならない。
「それにしても、良く似合うね」
「……」
 いかにもおかしい、という顔で物陰で見上げてくるシナから、憮然――と、カイは顔をそむける。
「何で俺が、こんな格好をしなけりゃならないんだ……」
「だってこんな子供じゃ、誰も買ってはくれないだろう?」
「……」
「大丈夫、綺麗だって。声さえ出さなければ、絶対、男だなんてばれないから。保証する」
 保証されたところで、嬉しくともなんともない。魔物を捕らえる為には彼らの獲物をはるのが最も手っ取り早く、ついでに囮をし掛けられればそれにこしたことはない、と言ったのが他でもない自分であっただけに、拒み通すのは難しかった。何故かやたらと楽しそうなシナに着るものを取りかえられて、ついでに紅までさされると、鏡に映った顔は(……もう2度と見たくもないが)我ながら、どこから見ても立派な女にしか見えない。
「……用が済んだら、すぐに着替えるからな」
「え―、もったいない」
「――ふざけるな」
 だがこうして女の群れの中に紛れていると、彼女達が置かれている、危うい状況が手に取るように見えてくる。当然といえば当然だが、誰もが皆、10代後半から20代の若い女だ。普通に考えても、夜道はさぞかし怖いだろう。ついでに彼女等を襲う、吸血の魔物の存在だって知らぬわけではないだろうに、こうして夜な夜な街角に立つ――立たざるを得ない。
「……カイ、気が付いた?」
「ああ」
 離れた河近くの倉庫の前で、1組の男女が肩を寄せ合い何やらごそごそと密談している。ただの交渉だろうか。それとも――
 男女の後を追い始めたカイの背後に、待っていたかのように、一名の黒影が迫っていた。その更に後を尾行するシナの呟きは、かりそめの相棒には、聞こえない。
「どうして。何で、あの人がここに――」



 素足の肌を、冷えた石の感触が通り過ぎた。
 滴るものは血か汗か。抱え上げた女の金髪が、もつれ合って膝に絡まる。布袋を担ぐ要領で肩の上にあった重みが、音をたてて床の上に転がり落ちた。
「……長く留守にして悪かった。すまなかったな」
 だから頼む。その瞼を開けてくれ――と。
 願いはいつもかなえられない。こんな罪人の祈りを、聞き遂げてくれる神はいない。だから、彼はさらなる罪に手を染める。
 だが手にした刃(やいば)で首筋の頚動脈を切断をしようとした瞬間、強烈な手刀で、刃物を叩き落された。
「やっぱり、あんたがやっていたんだな」
 彼の声しかしないはずの浴室内に、不意に、他の男の声が響いた。のろのろと見下ろした先で、亜麻色の髪の女――青年が両目をぱっちり開いてこちらを見上げている。次いで背後に別の人間の気配を感じ、男の背筋が粟だった。
「お前、男か!?」
「……見ての通り」
「そんな、どうして、魔物を捕まえてくれと僕に依頼したのは、貴方じゃないか?!」
 入り口付近から、シナの声がした。きちんと後をついて来ていたらしい。衣の袖で唇の紅を拭い去りながら、カイは少し、少年を見直した。
「こいつが、お前の依頼人なんだな」
 こくり、頷く少年。
「……」
「とある町に、民の信頼厚い神官がいました――」
 書かれたものを読み上げるように、カイが呟く。
「神殿に篭るでもなく、高い布施を求めるでもなく、薬草や薬をわけてやり、被差別民でも隔てなく面倒を見る。そう聞いて、来てみたんだけどな……」
 ――宮殿を出て数年。あてない旅路の途中でこの町を目指して見る気になったのは、噂の人望ある神官の顔を見てみたかったからだった。
「カイ……?」
 絶望的な気分で、2人は粗末な石造りの小部屋を見渡した。そこに密閉された血の匂いで、既に嗅覚は麻痺している。
 血の海に浸った女の顔が、ゆらりと揺れてこちらを見た。まだ若い――娘といっても良いほどの女だ。
「着いてみれば、この町には既に神の気配はない。神のないところに、何の為の神官だ?おまけに町ではわけのわからない事件が続発しているという。確かに若い女の血と1部の薬草で、死体を生前の風貌のまま留める効果があると聞いたことがあったが、お前、誰にその方法を教わった?」
 そこまで続け、カイは遠方にある、少年の顔に目をやった。
 ――どうか、町を救って頂きたい。
 まさか自分にそう頭を下げたという神官が、その手で女を殺してまわっていたとは、思ってもいなかったことだろう。
「僕を――賞金稼ぎを頼んで、皆にこれは魔物の仕業だと思わせたかったのか――」
 男が、飛び散った鮮血の中から立ち上がった。爬虫類じみた、妙にぬるりとした質感に、神官だけが身に突ける、丈の長い衣服が似合わない。年齢はごく若いようでも、実はかなり年嵩のようにも見えた。
 手には、刃。多くの女の命を奪ったその表面には、随分と凝った透かし彫りが施されている。その陰影に染み込んだ黒いものこそが、彼の罪科の証か。
「……仕方がなかったんだ」
 ――共に生きようと、誓った。
 彼女に出会ったのは五年前。国を上げての祭の最中、神官としての神殿の中から、町の女と心を通わせた。文字通り手に手を取り合って過ごした三年ほどは、我ながら、民の為に良く尽くしたつもりだ。持てる知識も薬草も、惜しむことなく分け与えた。なのに彼女は死んだ。まるで神を見捨てた罰を、彼に代わって一身に引き受けたかのように。
「……あんたも、大災厄で役目を逃げ出した神官の1人か」
「そうだ。多くの神官や巫女が、あの大地震の後に王都の神殿を逃げ出した。――あそこが、どんな場所かわかるか?神官だ、巫女だなどと崇め奉られたって、私たちには何の選択権もない。子供の頃に神殿に捧げられ、神に仕えるだけの教育を受けて……、あげく命まで捧げろといわれる。それもこれも国の為に、だ!」
「……」
「逃げ出して何が悪い?我々だって命が惜しい。好いた相手と、当たり前の人生を送りたい。それが悪いというのか!」
 ――いや、悪いなどと、誰に言えるものか。
 この男と同じものを、カイもまた、求めた。
 ここではない、どこかへ。そんな場所などこにもないと薄々は知りながら、それでも何者にも縛られぬ、己の手で掴む道が欲しい。
「この女は私の妻だ。私のものだ。誰にも渡さぬ。例えそれが、冥界の神であってもな。その術(すべ)を、あの方が教えてくれた――」
 煌(きらめ)く刃が、カイを目掛けて突進してきた。構えも何もあったものではない、ただの闇雲な突撃に過ぎなかったが、それだけに真に迫るものがある。咄嗟に反応が出来ずにいたカイの体を動かせたのは、今ここに、自分が1人ではないという事実――
「カイ!」
 鞘のままの剣が、彼の手のうちに投げつけられた。抜き打って構えると、空中で、火花が散る。
「お前に何がわかる――」
 力の差は歴然だった。圧倒的な力で跳ね飛ばされて、それでもなお男は刃を離さない。
「……わかるさ。俺もあんたと同じ……だからな」
 同じ過ちを、カイも犯さぬなどといえるだろうか。たった1人を求めて、万を殺す。それでも構わないと――
「じゃあ、何で娼婦ばかり殺したわけ?」
 不意に、少年が声を張り上げた。
「汚れてるから?他の女を殺すより良かったの?――ふざけるな!誰が好き好んで娼婦になんかなるもんか。みんな嫌で嫌で仕方なく、だけど他に方法もないから、笑って辛い仕事にも耐えてるんじゃないか!」
「シナ――」
 少年は肩で息をしている。それでも止まらぬ絶叫が、二人の男の耳奥に木霊した。
「そんなの、あんたの勝手な理由じゃないか!殺したあとに取ってつけた理由に何の意味がある!」
 華奢な背が、目の前を駆けて行く。シナの手が白い短刀を抜き、その切っ先が俯く男の刃を弾く。複雑な文様を刻み込んだ金属が、冷たい床の上を滑って移動した。――殺す気か。肉を貫く寸前にある切っ先を止めようと、カイはほんの少しだけ自己の内の力を解放する。
 それは一筋のごく細い閃光と化し、鞭のようなしなやかさで、白い金属を打った。2つの刃が弾いた、白光と赤光。明と暗。その表層を滑った光沢が独特の陰影を作り上げ、やがてそれが浴室全体に行き渡り、窓1つない小部屋に、あるはずのない光輝が瞬き、そして消え行くのを、彼らは見た。
 刹那、目を見開き、呆然と顔を上げる。カイ、シナ、そして両手を血で染めた男までもが。
「……」
 白い手が、そっと男の頬に触れていた。まるで慈しむようにしなやかさで、首筋に添えられた指。その先端を彩る、薔薇色の爪。
 深紅が滴る女の顔が、微笑んだように思われた。
 一糸纏わぬ裸体の女が、浴槽の縁から上半身を乗り出していた。滑り落ちる髪、弾力を内に秘めた肌、ふっくら血の色を湛えた唇と、見開かれた双眸。その姿が美しければ美しいほど、かえってこの世のものならぬ異質さが際立つ。微笑みながら指を絡めてくる女に体をつかまれて、わわわと奇声を発する男は、女の腕が微かに慄いたことに気がつかない。
 ごきり、と首の骨が折れる音がした。
 ずるずると衣が床を滑る。敷き詰められた石の上に、血膿色の染みが走る。
 空気が触れる、その箇所から。肌が爛(ただ)れ、目が落ち窪み、肉が骨に。髪が頭皮を乖離(かいり)し、爪が削げ落ち、2人分の肉体を湛えた海がざぶり、と波打つ。衣が、肉が、命が、母なる海へ――人の血の中へと溶けて行く。
「……」
 そうして最後の一片が見えなくなった瞬間、息も出来ずに見つめていたカイの耳を、ごくささやかに、蚊が鳴くような、哀願の音色が打った。

 ――どうか、お許し下さい。この人は、私が連れていきますから……。


 神官自害の風聞は、その翌日。信望厚い神官の突然の訃報に、町の民は皆、落涙して哀悼の意を表したという。


 後味の良くない事件の過ぎ去った後、何の皮肉か空だけが、やたらと青い。
 これ以上ない程に青い空の隅で、小鳥が集う。雲は、ふう、と吹いて舞い散ったたんぽぽの綿毛のようで、所々、思い出したように、薄く霞んだ姿を見せていた。
「……これで20リラか」
 初めて手にした賞金稼ぎの収入は、高いと思うべきか、それとも安いと思うべきなのか。だがそれを受け取ったシナがあまり楽しそうな顔をしていないのが、せめてもの救いのように思われた。
「あの人、何で、わざわざ僕を呼んだりしたんだろ……」
 ――自分に代わって、魔物の仕業と吹聴してまわって欲しかったのか。だけどそんなことに何の意味がある。
「……暴いて欲しかったんだろ、きっと」
「えっ?」
 ――ここではない、どこかへ。
 心が求めるたった1つの望みが、罪にしかならぬと知った時、人は一体何を思うだろう。
 誰でもいい。どんな方法でもいい。逃れようのない、この贖い切れぬ罪から、頼む、誰か救ってくれ――
「ああ、そうだ、1つ確かめたいことがあるんだ」
 掌を上向きに、ひらひらと手招きすると、少年は素直にこちらに身体を向けた。その肩を掴み、真正面を向かせて、手を伸ばした次の瞬間、強烈な平手打ちがカイの頬を打った。
「――な、何をするんだ!」
「……」
 じんじんと腫れあがった左頬と。まだ柔らかさを伝える掌と。カイは苦笑する。
「まさかとは思ったんだが、やっぱり、お前、女か」
「そ、そんなこと口で聞けばいいだろ!な、何もわざわざ胸を触らなくなって――」
 き、と鋭い目で少年――否、少女は彼を睨み上げる。出会った当初からあった妙な違和感はその為だったのか。しかしそのつもりで見ると、ただの薄汚い子供に見えた同じ人間が、それなりに可憐な少女に見えてくるから不思議なものだ。
「悪い、悪い。まさか、と思ったんだ。しかし、何でそんな格好をしてる?」
「……こっちの方が、色々都合がいいから」
 恐らく、それだけではないのだろう。今のこの国は、彼女のような若い娘が1人で生きるのに、決して優しい土地ではない。あれほどの激怒には、それ相応の理由があるのだろうと、カイは思う。
 だが今、見下ろした斜め前方の先で、、シナは怒りで紅潮した顔で彼を見つめあげていた。――が、やがて、わずかに頬を緩め、淡い声で言う。
「あの、傷、もう痛まない?……ごめんなさい。関係ないのに、怪我までさせて」
 ――最初からそんなことは、気にしてなかったんだけどな。
 だけど、流れる空気は思いのほか暖かく、このまま貸し借りなしのチャラにするのは、何だか惜しい気がして。
「そういえば、そうだったな。……なら、これで、お前に貸しが1つ、ということでいいか?」



 ――今までありがとう。……さようなら。
 前半だけを聞いて、せめて憎まれてはいなかったのだと安堵すべきだろうか。それとも後半分の別れの台詞こそが、彼女の真意だったのか。
 答を問うべき相手は、もういない。
 かたんと、車輪が小石を弾いた。頭上の天幕が揺れる。思わず頭上を仰ぎ見て、片割を失った月の周囲が今もまだぼんやりと明るいのを確認し、カイは幌馬車の後方に乗り出していた半身を戻した。
「おい、カイ、お前が外を見るのは勝手だが、俺は寒い」
 荷台の縁で毛布に包まり、ラウルが目を開いている。その隣に同じく蓑虫状態のティティがいる。そこに1人分の空白を、いつか感じなくなる日が来るのだろうか。
「ああ。悪い」
 呟き、カイは目を閉じた。
 何もかも、もう終わったんだな――そう、思いながら。








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