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風の挽歌

第8章 強く儚いもの 1


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 ――それは、久しぶりにシナとカイが同じ部屋で泊まった夜のことだった。
 肌寒さにシナが目を開けた時、並んだ二つの寝台の、窓側の方の上で、カイは外を眺めているように見えた。生成り色のカーテンの隙間からのぞく、白い月の端を見ているように思われた。
「……眠れないの?」
 声をかけても、見慣れた背中は振り向かない。半分だけめくれあがった夜具の上に、長い影が落ちている。今宵の月は明るい。カイの頭の向こう側、濃い藍色の空の彼方に、大きく明るい満月が、眠りについた家々の屋根を鮮やかに照らし出している。
「カイ?」
 どうしたの?と問いかけたシナの言葉は、唐突に引き寄せられた腕の力と、肩に感じた息の震えによって、切り離された。
「えっ……い、痛いよ、カイ」
 それでも、カイは腕を緩めなかった。おそるおそる背中に腕をまわすと、さらにきつくしがみついてくる。自分の肩に顔を埋めた相手の体が、ほんのわずか、だけと確かに振動していることを感じ、シナは密かに息を呑んだ。
 ――震えて……る?
 文字に直せば、たったの5文字。だがその文字が紡ぐ意味と、目の前の男とが結びつかなくて、しばらく声が出なかった。
「……何か、あった?」
 シナは二人がまだ眠りにつくまえの、今日一日の出来事について振り返った。
 今日……正確には昨日だが、久しぶりに大きな仕事をこなして、シナもカイも大いに働いた。ラウルもティティも加え、これまでより少し良い店で夕餉を囲んだ。宿屋だっていつもよりは一級上だ。
 彼がこんな風にならなければならない理由など、どこにもなかったはずだ。こんな風に――夜更けに目がさめて、そこに母親がいないことを初めて気づいた子供のようになる理由など。
 これと逆のことなら、前にあったな、と思った。まだ出会って間もなかった頃だ。あの頃はどうしても昔を忘れられなくて、赤茶けた色を残して燃えゆく天幕や、見ていないはずの父母の血の滴りを夢に見て、目が覚めると、彼は決まって黙って肩を抱いてくれた。
 そういう意味では、優しさを持っている男だった。だがそれでいて、彼の矜持(きょうじ)や頑なさに、他人が傷つくこともあるのだということに気がつかない、そういう男だった。
 結局その夜、窓から曙光がさしこみ夜が朝に変わるまで、そのままずっとカイを抱いていた。そんな風に、ただ抱きしめ合ったままで過ごす夜は、初めてだった。
 ――だから、気がつかなかった。
 遠くで鶏が鳴きだす少し前、窓の外で飛び立った存在があったことを。それが黒い羽を広げて空に向かった時、尾羽の一つが、朝日を反射して、きらりと金色に輝いたことを。
 そしてその鳥の二つの目が、この夜の間中、闇の彼方から真っ直ぐにカイを射抜き続けていたということを。



「いや〜、久しぶりに嫁とガキの顔を見た後の空気は、美味い」
 もくもく、と。まるで性質の悪い屋台で売られる綿飴のごとく灰色の雲が、触れたら指がべとべとしそうなほど頭に近いところをびっちりと埋めている。近い内に一雨くるのかもしれない。その合間にわずかに見える空の色は暗かった。
 その下で、ラウルは大口を開けてがははと笑っていた。だったら戻ってこなくても構わないんだけどな――と呟いた金髪の青年は、大きな拳で胸の辺りをはたかれて、たたらを踏む。
「何だよ、今度の仕事だって俺の出番だろう、どう見たって」
 確かに、とシナは頷いた。
 冬場になると大抵の魔物の活動が鈍る。大型の魔物であればあるほど尚更だ。まさか冬眠しているとも思えないが、それでもあからさまに人里に下りてくることは少ない。里の人間には朗報だが、賞金稼ぎにはそうもいかないのが悲しい。
「庭園を荒す小型の魔物――って、なんなんだろうね」
「大方、羽鼠(はねずみ)か土蠍(つちさそり)の一種だとは思うのだけど」
 ティティがちょこんと可愛らしく首をもたげた。昨夜、彼女はある邸に占いに呼ばれ、そのままそこに滞在していた。そこの紹介で仕事を得てきたのである。胡散臭い賞金稼ぎを家中にあげることに抵抗ある者も、幼い美貌の占い師をお招きすることには抵抗がないらしい。そこに人間という生き物の不思議がある。
 ――胡散臭さなら、どちらも大して変わらない気がするのだが。
「……おい、ティティ、庭園、ってこれかぁ?」
 図体の大きな若者が、随分と間の抜けた声を上げる。見上げると4人の視界の先で、緑茂らせた常緑樹の先端が、無数に天を突き刺していた。目の前に黒々と広がる野はこれまでと違い、荒野ではなく林で、それもきっと、わざわざここまで運んできて植えたもののように思われた。
 この季節にこの緑。不自然過ぎる。
「庭園、というより、庭林、よね」
「……よっぽど悪いことをしているということだろう」
 カイの言もあながちに誤り、とは言えまい。このご時世でこれだけの敷地。これだけの庭。悪いことでもしてない限り、あり得ない。
「何でも、この邸の主人が身体の弱い人で、こういう森中みたいなところじゃなくちゃ暮らせないんですって。でもあまりに田舎に引きこもるのも、不便でしょう。わざわざ専用に庭師まで雇って、ここに自分専用の庭林を作り上げたとか」
「たった一人の為に、これだけをかぁ?」
「そういう物好きもいるんじゃない」
「ティティ、もしかして、あれが依頼人か?」
 カイが指を指した先に、己の背丈ほどもある鍬(くわ)を抱えた男が立っていた。目を細め、随分と遠くを見る目をしている。恐らくあれが、今回の仕事の依頼人だろう。黒い髪も褐色に焼けた肌も、今のこの国ではあまり見かけなが、もしかすると、彼もまた、遊牧の民の生き残りだろうか。
 傍らで、シナが息を呑む気配がした。
「知り合いか?」
「……」
「――シナ?」
 無音を貫くシナを訝んで手を伸ばした瞬間、傍らにあった、触れ慣れた衣の一枚が、するりと音をたてて、カイの掌の内を滑りでた。まるで手を伸ばせば指の合間をすり抜ける、逃げ水のように。
 ――これまで確かに手のうちにあったはずの存在が、自分の手の中から消えて行く。
 唐突に訪れたその感慨は、彼がこれまで手にしてきた、他のどんな感情よりも強烈だった。痛みにも――悼みにも似た思いで、カイは思わずまじまじと自分の掌を見た。
 ラウル、ティティ、そしてカイと。3人が見つめるその目の前で、シナが何事か、一言だけ呟いた。彼女が精一杯に伸ばした両腕を、途惑った風に、男が取る。そしてそのまま、少女を自分の懐に引き寄せた。彼が抱えていた鍬が倒れ落ち、それに抉られた地面から黒い土が四方に飛び散る。
「お、おいカイ、いいのかよ……」
 厚く凝っていた雲の割目から一筋、銀の光が糸を引いて零れ落ちる。――どうやら、雨が降り始めたようだったが、少なくともこの瞬間、そこにいた者は誰も、雨粒の冷たさを感じていなかったに違いない。



 無数の雨粒が、屋根板を打つ音がする。木の板に弾かれた水が糸状に縺(もつ)れて、目の前で弾け、小さな水溜りを無数に作っている。雪ではないといっても、肌に触れる雨の粒はやはり冷たい。まるで、砕けた氷の飛沫を浴びているみたいだった。
 一仕事終え、庭林内の東屋(あずまや)で雨宿っていた3人は皆、それぞれが一様に、別々の方向を向いている。ラウルは先へ行くほど細くなる銀の糸の先端を。ティティは地上に輪を描き、土を削って行く水の流れを。そしてカイはその中間あたりを。
「……戻ってこないな、シナのやつ」
「あの庭師が、大災厄で生き別れた幼馴染みだって言ってたけど……、あれは、ただの幼馴染みって感じじゃなかったわね」
 ラウルとティティは顔を見合わせ、それから示し合わせたように1人の青年の横顔を見やった。横を向いたまま、カイは無数に溢れる雫の数を数えているように見えた。
「カイ、何か言えよ」
「何をだ?」
「何を、ってお前、自分の女が他の男と――」
「あいつは、俺のものじゃない」
 ラウルは口を噤んだ。彼にはいくらも年齢の離れていないこの青年が、時折、随分と年の離れた弟のように思われる時があった。それも意地っ張りで憎まれ口ばかりきく、非常に手のかかる弟に。
「あら、でも相棒でしょう?」
 幼い外見をした少女が意味ありげに微笑んだ。かつて彼女がシナに「自分は貴方よりも年上だ」と告白したことを無論、男二人は知らない。
「今は、な」
 カイはようやく、仲間の方を見やる。亜麻色の髪の先端に水がぶら下がり、瞼の上の辺りで揺れている。昼間だというのに雨雲に覆われ薄暗い所為か、青い筈の両目が赤色を帯び、ぼんやり赤紫色に見える。
「俺にとってもあいつにとっても、一緒に行動していた方が便利だった、というだけの、いわば道連れだ。終わらせようと思えば、いつだって、終わりに出来る」
 そこで一端言葉を切り、誰に言うでもなく問いかける。
「――そうだよな?」
「そうだね」
 唐突に割り入ってきた若い女の声に、若者と子供は同時に振り返った。傘もささず、雨に打たれて濡れた目で、シナはまっすぐに、カイだけを見ていた。
「その通り…だね」
 それだけ告げ、少女は雨の中に身を翻した。滴る水で衣が張り付き、背から腰にかけての線が露になる。その後姿が、こんな時だというのにやけに艶かしくに見えた。
 しばらく呆気に取られた後、ラウルは我に帰ってカイの背を打った。大して強く叩いたわけでもないのに、細身の青年は2,3歩前のめって彼を見る。
「おいこら、何ぼけっとしてるんだ。早く追いかけろって!」
「別にぼけっとなんかしてねぇよ。大体、追いかけてどうするんだよ」
 ――この大馬鹿野郎が。
 彼が睨みつけたところで、効果はありそうにもなかった。彼らの下の地面から2つ、シナの消えた方角に向け、小さな足跡が律儀に並んで張り付いている。だがそれも段々と強くなる雨脚に揉まれ、いくらもたたぬうちに流されて、後を辿ることさえ出来そうもない。
 それが何故か、やけに不吉な眺めのように思われた。
 ――あとで悔やんでも、知らねぇぞ。
 どうやら天気は雨模様を通り越し、土砂降りの鉄砲雨になりそうであった。



 ――俺にとってもあいつにとっても、一緒に行動していた方が便利だった、というだけの、いわば道連れだ。だから終わらせようと思えばいつだって、終わりに出来る。
 ……わかっていた。
 口に出して問うことができなかったのは、その時に帰ってくる答えが容易に想像できたから。そして承知の上でも、彼の口から直接聞いてしまえば、自分の心が傷つくことがわかっていたから。
「っ…」
 シナの身体を打つ雨が、薄い衣を伝い、足下の水溜りにぽたぽたと滴る。春はまだ遠い。みぞれ混じりの冷たい雨。そこに、熱を帯びた雫が新たに加わっていく。
 初めは。どこかで生き残っているかもしれない、遊牧の民を探す。その為に選んだ賞金稼ぎのはずだった。そのかいあって、生き残っていた異母姉の一人と再会したこともある。だが同じ時、カイが熱を出して寝込んでしまっていて、シナがそちらに気を取られているうちに、再び姉の行方は知れなくなってしまった。
 そのことをさほど残念に思わなかった自分に、驚いたことを覚えている。いや、途中からは正直、姉のことなんかわすれていた。
 ――何時からだったろう。旅行く先で、自分と同じ容姿の人間を探すことよりも、常に傍らにある人間へ向ける意識の方が大きくなったのは。
 ばしゃばしゃと、足元で水の跳ねる音がする。雨靄に霞んだ城壁の表面を、生い茂った蔦たちが、まるで生きているかのように蠢いていた。
 不意に道の行く手にぽっかり、真っ黒な空間が開けていることに気がついた。
 見える世界は闇一色、だが奥に一筋だけ、光が見える。
 どうしても、引き返す気になれなかった。今のこの自分の顔を、ラウルやティティには見られたくない。――カイにはもっと見られたくない。
 ほとんど何も考えずに、その奥に足を踏み入れた。城壁の高さはシナの背の倍以上、壁の内側では生い茂った木々の梢が、風も無いのに揺さぶられ、恐ろしい程の轟音をたてて揺れている。 この時、シナの神経がもう少し冷静でさえあったならば、壁の内側と外側の違いを――内に入った途端に、先刻まで聞こえていた雨粒が水溜りを打つ音が、まったく聞こえなくなったことに気がついたことだろう。
 唐突に、風が吹きぬけた。強烈な太陽の味を中に含んだ、シナにとっては懐かしき故郷の風が。
 一瞬、ぎくりとして足を止めた。研ぎ澄まされた神経をかき乱す、砂嵐の音。振りかえった時、彼女の目の前で、たった今、通り過ぎたばかりの闇色の門が、ぎぎと鈍い音をあげながら閉じていくところだった。慌てて駆け寄り伸ばした手を遮り、門はもう、わずかなりとも動かない。
 思わず、刀の柄に手をかける。
「そんな、なんで――」
 目を見開いたその鼻先で、乾いた砂粒が、風に吹かれて舞っていた。ごう、と鈍い音と共に、結い上げた根元から、黒い髪が風に巻き取られる。風と砂は折り重なったまま、空の中の一点へ、みるみるうちに吸い取られていく。そうして、静寂が訪れる。幻のような光景だった。
 呆然と立ち竦んだシナへ向かい、背後から密やかに近づくものがあった。差し伸べられた、2本の腕。限りなく優しげに、柔らかに。
 やがてそれが肩に触れた時、シナの身体から三日月型の刃が離れて、落ちた。



 ごく小さな虫のような物体が、灯火の周囲を無数に散っていた。柱に染み付いた安酒の匂いは強烈で、最近乱闘でもあったのか、木目そのままのテーブルも椅子もところどころ補修してある。橙の光は煌煌と輝いていたが、手元は薄暗い。愛想笑いを浮かべて去って行く酒場の女に笑顔で手を振って、ラウルは隣で安酒を煽る、蒼白い頬をびし、と指でさす。
「ったく、カイ、お前は救いようのない大馬鹿ものだな」
「何がだ?」
「てめぇの胸に手を当てて考えてみろ!」
 自分の胸に手をあてて、カイは本当に考えているような仕草をした。暫くそのまましみじみとうな垂れて、わからんな、と顔をあげる。――処置なし。ラウルは思わず額に手をやった。
 酒場の席は満員で、彼の隣に座った厚化粧の女が、しきりに意味ありげな視線を送ってくる。鬱陶しくそれを振り払い、ラウルは既に半分は空にした酒の瓶の中身を、なみなみと相手のグラスに注ぎ入れた。
「こんな時間まで宿に帰ってこないってことは、今夜は戻って来る気がないってだろう。それで、平気なのかよ?」
「平気だろう。あいつは、腕だけは確かだからな」
「俺は、お前が平気なのか、と聞いたつもりなんだが」
 一瞬、カイの顔にひどく苦々しげな色が走った――ように見えた。
 確かに今、彼らが話題にしている若い娘の腕は、際だって優れている。気性も荒い。大抵の男なら、手を出す前にまず叩きのめされることだろう。
 だけど、それでも。
 ――少しくらいは心配してやるのが、礼儀っていうもんなんじゃないのかね?
「……なあ、単刀直入に聞いていいか」
「何を?」
「お前、シナのどこに惚れたんだ?」
「さあな」
「さあな、っておい――」
 機嫌が悪いときのカイは、普段より幾分無口になる。別に上機嫌でも喋りまくるタイプの男ではないが、機嫌を損ねると、かぎかっこの中身が極端に短くなるのだ。「ああ」とか「さあ」とか「何が」とか。
 ――ということは、今はかなり不機嫌、ってことだよなぁ……。
「おいカイ、お前、もう少し素直になれ」
「あ?」
「お前は、馬鹿じゃない。でもな――」
「……さっきと言ってることが、矛盾してねぇか?」
「世の中ってのは、少しくらい馬鹿な方が生きやすいようにできてる。そういうもんだ」
 傾けたグラスの動きが止まった。ラウルの台詞に、カイはしばし押し黙る。その喉がごくりと鳴る音が、聞こえてきたような気がした。
 だがカイが口にしかけた言の葉は、結局、音になることはなかった。目に見えぬものを嚥下したあと、青年はわざとらしく唇の端を持ち上げる。
「拝聴しておこう」
「……俺、帰るわ。これ以上お前と話していると、なんか頭痛がしてきそうだ」
 お前はどうする?と問いかけた相手は、グラスに残った酒もそのまま、無言で自分も席を立った。脱いで椅子にかけてあった黒い布地を掴んで、内側をまさぐっている。だが財布か金――恐らくそのどちらかが見つかる前、不意にカイの体が斜めに傾いた。
「おい、大丈夫か?お前、今日はそんなに飲んでないだろう」
「……悪い」
 このラウルより4つばかり年下の青年は、そのくせ、酒には滅法強い。日頃はこちらが呆れるほどに呑んでも、しらっと平気な顔をしている。――これまでの生活習慣とやらが垣間見得る瞬間である。
 ふとラウルは眉を寄せ、掴んだカイの上着の懐から床に落ちて転がった、掌に収まるほどの硝子の瓶の存在に、表情のすべてをうち消した。
 カイはまだ、その存在に気付いていない。密かにかがんで広い上げた瞬間、辺りの喧騒がすうっと遠ざかったのがわかった。
 飲み過ぎの洗礼なら、自分が受けるのも他人が受けているのも、いやというくらい眺めてきた。だがどんな愚かな薬師でも、飲みすぎの患者にこんな薬は処方したりしない。少なくとも、皇都の大学を出て、薬師の資格を取ったラウルの知る範囲内では。
 ――茨の城での傷ならば、もうとっくにふさがっている頃だろう……?
「これは……」
 鎮痛剤の一種。それもかなり強い。
 お前どうしてこんなものを――
 朧げに、これまでもやもやとして輪郭の見えなかったものが、別の形で見えてきた。出会った頃から、必要以上に蒼白い頬。痩せぎすの身体。そして手の中の薬。既に半分近くが使用済みの。
 ――カイ、お前、一体どうしちまったんだよ……?








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