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風の挽歌

第6章 炎の石


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 ――明日正午に、神殿でお待ちしています。


 冬の空は、晴れていれば晴れているほどに、寒い。
 真っ青な空はまるで湖にはった一枚の氷のようで、触れることができたなら、指先が凍傷になりそうだった。その上を飛び交う鳥達は、厚い羽毛で全身を覆い、ぬくぬくと厚着をしている。それにしたって、よく冷えて固まらずに済むものだ。
「――ガセネタなんじゃねぇのか」
 崩れ落ちた柱の形にぽっかりと丸く、空にはった氷が切り取られて見える。大きな体をすくめながら、男がほう、と白い息を吐いた。
「大体、賞金稼ぎを頼むのに普通、こんなところで待ち合わせるかよ」
「だけどラウル、デルフィの柱には確かにそう――」
「書き込んだのは昨日でしょう。1日で状況が変わった、ということもあるわよね」
 と言ったのは、10歳くらいの、人形のように見目麗しい少女だった。彼女も頬を染めている。
 大災厄以降、どこの神殿も崩れているのは同じだが、ここの場合は特に崩れ方が酷かった。いや、崩れているというより、もう残っていないといった方が良い。大理石の柱が数本と、天井が少々。足元にごろごろ転がる石は、すべて鈍い灰色だ。混乱期に村の民が床を引っ剥がして、売り払ったのだろう。大理石はいつの時代でも、高値で取引される。
 壁のない建物内で木枯らしにまともに吹きぬけられて、彼らは一斉に身震いした。
「第1、もうとっくに正午は過ぎてるだろう」
 そう言ったのは両手をポケットに、真っ黒な上着に首まで埋まった、金髪の青年である。頭上を仰ぎ見ている。太陽は頭上わずか西の方角に傾いていて、推定――午後1時半といったところか。
「それとずっと気になっていたんだが、何でお前がここについてくるんだ?」
「まあ、そう言うなよ、カイ。ここんとこ商売上がったりでね。このままじゃ親子3人、仲良くひ上がっちまう」
「別に、お前と家族を救ってやる義理はねぇぞ」
「そういうな。……頼むよ、俺も仕事に混ぜてくれって」
「2人共ちょっと、黙って。ねえ、何か、聞こえない?」
 金髪の青年のかたわらで、闇色の目をした娘が呟いた。
「……そういや、何か」
 あぶ、とか。あばとか。はたまた、ばばば、とか。廃墟に木霊するには酷く場違いな物音が、くぐもった響きで陽だまりを割っている。思わず顔を見合わせた4人――シナ、カイ、そしてラウルとティティの真ん中で、鋼色の地面をうっすら覆った霜が、陽光を浴びてきらりと瞬いた。
「どこから――」
 がらり、と柱が砕けた。青年の1人が、自分がもたれていた柱の残骸をどかしたのだ。真っ白な煙が上がり、ぽろぽろと粉のようなものがその場に散る。その影から現れたものを確認し、若者たちの目が丸くなった。
「カイ、これ、何?」
「見た通りのもの、だろうな」
 ちょっと大き目の籠の中、暖かそうな毛布に包まって。その端っこからふわふわと、触らずとも随分柔らかそうな赤い毛が顔を出している。2つの頬は風にさらされ、ほんのりと桃色に染まる。
 廃墟となった神殿に、場違いな甘い匂いがした。乳の匂いだ。
「あ、赤ちゃん?」
 合計して、2,4……8つもの、見知らぬ人間の無遠慮な視線に驚いたのか、あぶあばと指をしゃぶっていた赤ん坊はひゅっと息を吸い上げ、やがて勢い良くふぎゃあと、泣き出した。
「え、あ、僕は山羊と駱駝(らくだ)以外の赤ん坊なんて抱いたことないんだよ!カイ、これどうしたら――」
「俺だって、そんなもんの扱い知るか!」
 そこで、彼は口をつぐんで1人の男の顔を見た。その視線の先で、茶色い髪に赤茶色の目をした、大きな図体の男が、ぽりぽりと頬を掻いている。
「おう、よし、よし。お前の母さんはどうしんだ?」
 膝を折ったラウルの大きな手に抱き上げられた瞬間、泣いていた赤ん坊の声が、ぴたりと止んだ。



 決して広いとはいえない宿屋の一室に、甘い乳の香りが漂っていた。ぴしゃぴしゃと音をたてて器用に山羊乳を吸う蛸(たこ)の吸盤のような唇の動きを、シナは子供のように膝に手をついて、見下ろしていた。
「さすがだね。ラウル」
 実際、赤ん坊を扱うラウルの手際は鮮やかだった。両手で小さな身体を抱えて背を打つと、赤ん坊は満足そうに1回、小さなげっぷを零している。さすがに、子育て経験者だけのことはある。シナは半ば尊敬の眼差しで、年上の男の横顔を見上げた。
 捨て子だ。すぐに役人に届けて――というこんな時大抵の人間が思う行動を止めたのは、この若い父親だった。――ちょっと待て、少し様子をみよう、置き去りにしたのが親ならば、あとで後悔して迎えにくるかもしれない、と言った彼の言葉に、他の3人が……特にカイが素直に従う気になったのは、紛れもなく、ラウルがその時、「親」の顔をしていたからなのだと思う。
 赤ん坊の月齢などシナには検討もつかないが、けっして生まれて間もなく、といったわけではないのだろう。両足と両手はばたばたと勢いよく動くし、表情もくるくるとよく廻る。
「珍しい色の髪の色だよね」
 赤みを帯びた茶色の髪なら珍しくはない。だがこの赤子の髪は炎と同じくらい、混じりけのない赤い色をしている。
 思わずしげしげと子供を見つめたシナの耳元で、ラウルがささやく。
「おい、シナ、お前もしかして子供が欲しいのか?」
「は?」
「いや、お前ももうすぐ17なんだろう?それなら早過ぎることもない。なんなら、俺からもカイに協力するように言って――」
「ラウルっ!」
 耳まで真っ赤になったシナがぶつ真似をした瞬間、ラウルの腕の中で、赤ん坊が驚いたように泣き出した。慌てて腕を揺らしたラウルと、赤ん坊にむかっていないいないばあを始めたシナを、いつの間に入ってきたのか、荷物を抱えたカイとティティが、目を丸くして眺めていた。
「……何をやってんだ、お前ら?」



 ――眠れない。
 数え切れない天井の雨漏り跡を眺めながら、シナは今晩もう十数度目に及ぶ、密やかな溜息を吐いていた。天井の向こうは、星が瞬く真冬の夜。寝返りを打てば、そこには染みも生々しい宿屋の壁がある。この村に一軒しかないという宿の壁は寒冷地だけに分厚つかったけれど、所々に隙間が開いていて、そこから吹き込まれる風は、凍える程に寒かった。
「子供、か…」
 ――ラウルが、変なことを言うからだ。
 再び体の向きを変えた瞬間、隣の寝台で寝ていたティティと目が合ってしまった。宮殿の地下牢を逃げ出して来てから半月ばかり、シナはこうして彼女と同じ部屋を使っている。女達にはじき出された格好のカイが、途中から合流したラウルと同室で休むようになったのも自然の成り行きである。だが今夜はそこにあの赤ん坊が加わって、表情を変えないことをほとんど身上としているようなあの青年も、さぞかし困惑していることだろう。
「シナ、眠れない?」
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
「ううん、起きていたから。……赤ちゃん、可愛かったわね」
 宮殿での一件以来、成り行きから彼女と行動を共にするようになった今でも、シナはティティについて詳しい身の上は知らなかった。父母はいるのか。どこの出身なのか。何故この年齢で、たった一人で占者をしているのか。
 そしてかつて、彼女がカイに告げた言葉の真の意味は。
「私、うらやましい」
 ふと、呟く。
「ティティ?うらやましいって、何が?」
「だってシナは産めるじゃない、赤ちゃん」
 え、とシナは瞬いた。
「ねえ、私に遠慮する必要ないから、今度からカイと一緒に寝たら?」
 まさか意味がわかって言っている、というわけではないのだろう。だがその言葉は、シナの心にわだかまっていた思いの、その真ん中に近い部分を射貫いていた。
「……」
 木を削っただけの粗末な寝台の表面は、綿を織り込んだ夜具を通してでも、木目の筋までもが感じられた。最下級の宿屋などどこでもこんなものだ。隙間風の吹き付ける中、毛織りの毛布一枚に包まっても、どうしても手足が冷えるのは避けられない。
 考えても仕方のないことだ。こんな風に過ごす夜を、寒い、と感じるなんてことは。
「ティティだって、あと……そうだな、10年くらいたてば、お母さんになれるよ」
「私には無理だもの」
 思いの外きっぱりとした、言の葉だった。
「え?」
「だって私はこれでも、シナよりも随分年上よ?」
 それはどういう意味なの――と問いかけた時、不意に隙間をすり抜ける風の感触が暖かくなった。いや、暖かいというより、熱い。薄い布一枚隔てた窓の向こうで、無数の橙色が揺れている。ゆらりゆらりと動く熱がだんだんと近づいてきて、それが周囲を取り囲んだ瞬間、隣室から2人の男が飛び込んできた。ラウルは腕に、例の赤ん坊を抱いている。
「カイ、ラウル!」
 ふと、嫌な予感がした。取り囲む火影。近づいて来る無数の気配。もしかして――と斜め上を見つめると、視線に気が付いたのか、彼もこちらを見ていた。他の人間に気付かれぬよう密かに頷きあって、カイとシナは互いの得物(えもの)を取る。
 不意に、カイがラウルを見ながら呟いた。
「おい、ラウル。例のやつ、使えるんだよな?」
「あ、ああ。まだ試作段階だが……」
 ラウルの返答を聞くが早いか、目だけ見交わしてカイとシナ、2人の背中が、あっという間に消えて行った。疾風のように。風に巻かれて消えていく、秋の落ち葉のように。取り残され、それを見守っていたラウルはおい、と腕の中の赤ん坊の頬をつついた。
「……お前のお迎え、随分豪勢だな」



 無数の炎が、闇夜の片隅を揺れていた。手燭ではない。荒く削った木の棒に直接油を染み込み燃やしている。松明(たいまつ)だ。
「赤ん坊を渡してもらおうか」
 1本、1本、炎を天に翳してこちらを見ているのは、いかにも屈強そうな村の男たちであった。大して産業もない寒冷地の寒村は、冬場は出稼ぎが主流だから、こんな時期に働き盛りの男が村にいること自体がおかしい。だがシナが目を奪われたのは男達よりも、彼らに縛り上げられた、若い女のほうだった。目の回りには青い痣、唇は切れて端が血で染まっており、額から顎にかけて刃物で切られたのか、一筋生々しい傷が口を開いている。
 かなり、手酷い扱いを受けたらしい。
「もしかして、貴方があの赤ちゃんのお母さんですか」
 シナの言葉に、女は力なく頷いた。同時、豊かな褐色の髪の毛が、四方に弾け飛ぶ。
「確かにすぐに届け出なかったのは、悪かったとは思うが、これは少し手荒に過ぎないか。赤ん坊は返すよ。だがその前にそちらの女性を放す方が先だ」
 片方の手に剣を、そしてもう一方の手に上着をひっかけて、カイが言う。
 女を縛り上げていた男が、唇の端に笑みをうかべて、ぼろぼろの細い背中を蹴り上げた。
「女を離せ――だと?そんなことできるはずないだろうが」
「何しろ、こいつは異形(いぎょう)の子を産むような女だからな」
 ――異形…?
 思い当たることが一つだけあった。あの赤ん坊の髪の色。燃えたぎる炎と同じ色の髪をしていた。
 魔物と一言でまとめてみても、その種類はいろいろだ。大災厄以前はごく稀にしか見あたらなかったものが、大地震以来溢れるように現れてきたもので、実際のところ、種類や生活については、まだ知られていないところの方が多い。
 人語を操り、人の形をした魔物。人と交わり、人との間に子をなす。話に聞いたことはあっても、果たしてそんな魔物が本当に存在するのだろか……?
 しかしそれは、どちらでも良いことでもあった。例え人であろうとなかろうと、シナには、あの赤子が可愛い。
 再び、鈍い音と共に女の体が二つに折れた。汚れた衣服に2つ、男の足型が残る。
「カイ、こいつら、ぶちのめしていい?」
「やめておけ」
 だがこれでは、彼らの手に渡った途端、赤ん坊は殺さる。それがわかっていたから――母親はわざわざよそから来た賞金稼ぎに、自分の子供を託したのだろうか。
「子供は中だな。あんな赤ん坊を村においておいたら、どんな災いが起こるかもしれん。焼き殺せ!」
 頭領と思われる男の号令に、炎が一斉に宿に向かって突進した。
 頭に浮かんだのは、あの赤子が見せた笑みだった。シナの指をつかんだ、その強さ。あやせば笑い、襁褓(むつき)が濡れたと誰はばかること無く泣く。そのたびに慣れないシナやカイとティティはうろたえて、ラウルは自分の子でもない子供の汚れた襁褓を取り替えた。
「待って!」
 男の一人を捕まえると、手にした炎をたたき落とす。何人かの人間が、シナを見て目を見張る。
 抜刀するが早いか、男達の何人かに辺りを囲まれた。
「この野郎!」
「邪魔をしやがって――」
 刹那、人々の注意が、建物から完全に逸れたことがシナにもわかった。
 そしてそれを待っていたかのように、カイは人の群れに向かい、手にしていた布地を投げつけた。
「――シナ、来い!」
 途端、ごう、と夜が揺れた。いや、揺れたように思われた。辺を凝(こご)っていた空気の中に唐突に裂け目ができて、そこからゆらゆらと光輝(こうき)のようなものが漂ってくる。やがてそれは地を這い、炎の赤を得て、まるで瘴気のようにどす黒い錆色となって、瞬く間に上方へ舞い上がった。
 それを確認した後、シナの腕を引き、後向きに跳躍する。
 煙をあげながら、凍った大地を駆けめぐる物。いくつもの玉を一本の紐で結わえ、それを引き抜けば玉が破裂し、そこから白煙がたなびく。そのように出来ている――ように見えた。
 陽炎のように地を這う気体は白色で、そこから吐き出されてくる人々は皆一様に目を押さえ、地面にのた打ち顔を伏せている。煙の幕のあちらとこちらで、世界が変わって見える。シナはカイの腕の中から、茫然とそれを見た。
「カイ、これは――」
「煙幕(えんまく)、というんだそうだ」
「え……んまく?」
 そう、と。吐息が混じる程の間近で、地面に膝をつき、カイは頷く。
「俺がラウルに頼んだ。目くらまし程度でいいから、しばらく相手の動きを封じられるような方法はないかってな。この間みたいに、相手が人間の場合、その方が傷つけなくて済むだろう?」
 武具は本来、薬師の扱う品ではない。だが火「薬」というように、分野によっては重なる部分がないわけでもない。
「……」
 この間――
 カイが言っているのが、半月程前の出来事を指すのだということは、すぐにわかった。そして彼が、また同じ事が起こることを危惧しているのだということも。
 そのとき不意に、カイがかなり大まじめに声を上げた。
「……しまった」
「へっ?」
 本気で残念がっている。ちっと、舌まで打っている。シナは思わず、まじまじと青年の顔をのぞき込んだ。
「どうしたの?」
「結構高かったんだ。あれ。全部使わないで、半分は残しておくんだった……」



「ありがとうございます。ありがとうござ……」
 村を出る道の外れまできても、女はまだ、両手できつく子供を抱いていた。赤ん坊を庇護しているというよりも、我が子という存在に、まともにすがりついているように見える。
「何故、僕たちにこの子を託したんですか?」
 顔を上げた頬に、幾筋も涙の跡が残る。だが瞳の輝きには、純粋に人の心を打つものがあった。
「この子は、わたしの子供です。例え異形のものの血を引いていても、紛れもなく半分は人間の子。賞金稼ぎの方だったら、命までは奪われないと思って……」
 では、彼女は知らなかったのか。
 賞金稼ぎは一応、法律で規定された職業だから、街に行けばそれぞれ、倒した魔物についての規定がある。そしてその中には確かに、人と人外のものとの間に生まれた生命についての規定もあるのだった。
 いわく、報賞金は通常の魔物の3分の2とする――と。
 これから、この母子にどんな未来があるのだろうか。どんな人生が、どんな一生が。どんな生活が。
「これから、行くあてはあるの?」
 ティティがつま先立って、母子を見た。慈愛に満ちた顔で母親の腕の中の赤子に手を伸ばし、指先で頬に触れると、赤ん坊がふあ、と応じる。その指を夜の中へ翻し、少女は1つの方角を指差した。
「ないんだったら、このまま西の方角へ向かいなさい。この子の未来は、そこにある。そう見えるわ。」
 幼い占者は、母親の手を取って自分の手に重ねた。涙で塗れた頬を袖でぬぐってやっている。
「あ、朝日……」
 どこか遠くで暁を告げる鶏が鳴く。頭上の闇が切り裂かれ、そこから一筋、清廉な光が顔を出し、左右に幕が開くように、夜空が遠くへ逃げ出していく。幕が開いた壇上に現れた陽光は、稀に見るほどの金色で、足元から冷え上がる冷気は、今日もまた、随分と冷えるだろうことを想像させた。
「持っていけ」
 カイが懐から何かを取り出し、女の手に握らせた。大人の親指の爪ほどの小さな半透明の物体が、陽光を浴びて鮮やかにきらめく。
 それは、炎と――子供の髪と、同じ色をした宝玉(ほうぎょく)であった。
「お、おいカイ、それ……」
「どこから盗ってきたの?!」
 ラウルとシナが、同時に声を上げる。
「人聞きの悪いこと言うな。俺のだよ。大昔、祖父さんが死んだとき、形見分けだっていって押しつけられた」
 タリアの地で鉱脈で発掘される宝玉の一つ。中でも中央に星の出るものは最高級品で、皇族か、それに連なる家の人間しか、手にすることができないと聞く。
「ここから西に一山越えれば、すぐに国境だ。あそこは法治国家だから、見た目だけ見て殺せ、とは言わないだろう。それまで、通公証がわりにはなるはずだ。向こうについた後で金に困れば、売り払ってくれていい」
 カイの横顔を見上げながら、ふと、シナは思った。
 買い取った武具の値段を気にかける精神と、「押しつけられた」御物(ぎょぶつ)をあっさりと他人にくれてやる感覚とが、1人の男の中で何の矛盾もなく同居している。このアンバランスは、一体どこからくるものなのだろうか、と。
「何だよ、シナ、俺の顔に何かついてるのか?」
「……あ、ううん。何でもない」
 小さく垂れた背が地に添うように、地平線の彼方に向かって小さくなる。母子の姿が視界の端を通り過ぎ、やがて痛々しいほどに晴れ渡った空の彼方に見えなくなった時、名残を惜しむように、ぽつり、とティティが呟いた。
「赤ちゃんの名前、聞くの忘れちゃった」
 あとはもう、母子の明日に幸多かれと願うこと以外に、彼らに出来ることがあるはずもなかった。








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