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風の挽歌

第5章 皇都にて 3 


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  どこもかしこもが、赤く染まった夜だった。
 じわじわと足下を浸食する液体の匂いは、昔どこかで嗅いだ、錆びた鉄の匂いとよく似ている。触れてみたなら、きっと両手が赤錆色に染まることだろう。
 頭上に広がる空も、鼻先をかすめて飛んでいく風の色さえも赤かった。炎の色というよりは、たった今、肉体から流れ出たばかりの血の色のようだ。
 茫然(ぼうぜん)と立ちつくした少年の瞼の奥にも、同じ色が広がっていた。一面の赤。黙って立っていると引き込まれそうな。その中から一本の腕が伸びる。赤い沼から音もなく突き出て、乱立する腕の林。風もないのに、枝先がざわざわと揺れる。そのすべての指先が一斉に彼を指し示し――

 ――お前の所為だ。

 そこで、目が覚めた。



 夜の帳が下りていた。
 皇都の中心に白くそびえ立つ宮殿、そしてそれに付随する大小様々の建物がすっぽりと、夜という名のほの白い檻の中に捕らわれている。吹き寄せる風は北東の季節風で、時折ひときわ激しくいななき、その度に古い館全体がぎしぎしとしなる。
 主役を欠いた婚約披露の晩餐会は、既に幕が下りたのだろうか。それとも今もなお、まぶしいばかりの華やかさで、人々の目を欺き続けているのか。いずれにせよ、今彼らが在るこの場所から窺い知ることはできない。
「目が覚めましたか。体調はどうです?」
「……良くはない」
「当然ですよ。無理をしたんですから」
 わずかに開いた扉の隙間から、暖かな灯火が漏れていた。忍び寄る冷気はまるで蛇のように、足下からじわりじわりと這い上がる。
 部屋の前まで来た時、一つの影がひっそりと立ち止まった。扉の向こうの人々は、人影の存在には気づいていない。
「あの2人はどうした?」
「上の階に寝台を用意しました。寝ていますよ。もうそういう時間です」
「……ということは、両方とも無事なんだな」
 青年の言葉に反応し、老人が深く息を吐いたので、燭台の火が揺れて、窓際の布地の上で火影が舞った。一瞬、部屋の中の様子が鮮やかに浮かび上がり、また闇に沈む。再び薄い闇の中から聞こえてきた声は、かすかに笑いの調子を帯びていた。
「ラドクリフ、何が言いたいんだよ?」
「いえ、まさか貴方に連れがいるとは思っていなかったんです。それも、あんなに可愛らしい連れ2人も」
「いや、別に2人とも連れっていうわけじゃ――」
「貴方が倒れた後、ほとんど半泣きでしたよ。少し前まで枕元に居たんですけど、気づきませんでしたか?」
 ぎしり、と天井が不気味な音をたてて揺れた。屋根から氷の礫(つぶて)が降ってきて、窓を叩く音がする。
「――皇子」
 「皇子」と呼びかけられた青年は、軽く呻きながら上半身を椅子の上に起こした。
 館全体の中でも、特に天井が高い一室であった。敷き詰められた絨毯は淡い鳶色、壁や床はすこし煤けた生成りのような色で、暖炉に彫り込まれた文様も、中央にあつらえられた革張りの長椅子も、全体的に色良くまとまっている。硝子張りの棚の中には磨き込まれたグラスと瓶が並び、この館の主人が、かなりの趣味の良い人物であることを物語っている。
「その呼び方はやめてくれ。虫唾が走る」
「では、カイ様。……まったく、貴方の無鉄砲には頭が下がりますな。今回こそ無事に済んだとはいえ、自分以外に2人もの人間を抱えて移動するなど、ほとんど自殺行為だということがわからなかったわけではないでしょうに」
 意外なことに、心底気遣わしげな老人のこの台詞に対し、青年はくつ、と喉奥を震わせた。
「そうして俺がぽっくり逝けば、借金が返せなくなる、か?」
「そのようなことを、言っているのではないのはわかっているでしょう」
 しばらく沈黙した後、歪んだように笑い出す。この男らしくもない、あからさまに自嘲的な笑い方だ。
「そうだな。よ〜く、わかっているさ。昔、嫌って言うほどに聞かされたからな。<力>が強い人間ほど、その分寿命も短い。総じて早死にだ。おまけに、俺の場合は例の予言もあるしな。だったら、やっぱり5年前のあの時に――」
「カイ様!」
 老人の言葉が強くなった。がたん、と2人の合間のテーブルが揺れる。上に乗っていた水差しの口から、一瞬、透明な液体が大きく飛び跳ねて散る。
「本気で言っているのですか?!」
「さあな」
 つと、青年は目を伏せる。そうして再び視線を引き上げた時には、思わずはっとするくらい、無防備な顔をしていた。道ばたで何かにつまずいて、何とか起きあがったら、もう列は自分を置き去りにして、ずっと先まで進んでしまっていた――そんな顔を。泣いても、叫んでも、誰もここには戻ってこない。手が差し伸べられることはない。何故なら、道はすでに途絶えてしまったから。
「俺にも、よくわからない……」



 肩を伸ばして息を吐くと、ほんのわずか、ささやかにではあったけど、すっきりした気がした。冷たい空気の中に吐き出した真っ白な呼気と一緒に、良くない夢の欠片も抜けていってくれた気がした。
 季節は冬のまっただ中で、暑いはずもないのに全身にべっとりと汗をかいていた。背中を走る汗が冷えていく感触は、一瞬、身震いが出るほどに鋭い。
 寝台代わりに使っていた長椅子が悪かったのかもしれない。全身にきしむような痺れがあった。だがその一番の原因が、冷たい革張りの肌にあったわけではないことは承知していた。

 ――来ないで、化け物!

「化け物、か…」
 顔も見たことがない。何かを与えてもらった記憶もない。はっきり言って、今更母親らしき女に出会ったところで、あまり実感はない。だけどそれでも、かつてまだ子供だった頃に感じていた思いだけは、今もまだしぶとく心のどこかにこびりついている。
 ――俺の両親は、俺を捨てたんだな。
 悟る、ということは、大人になる、ということと良く似ていると思う。
 ちょうど夜中に屋根を打つ、雨の音にも怯える子供のように。風にはためく布きれが、幽霊だと信じて泣き出す幼子のように。だからカイは随分と長い間、その正体を知ることを避けてきた。
「……らしくねぇな」
 ――ここに来てから、思い出したくないことばかり思い出しやがる。
 また、あの乱立する腕の残像が蘇ってきた。頭を振り、目をしばたたき、彼は意識してそれを追い払った。
「目が覚めたんだね」
 ぽたり、と唐突に雪の塊が降ってきて、カイの肩で弾けて散った。
「シナ、お前、起きてたのか」
「何だか、目がさえちゃって。こんなところで、寒くない?」
 彼らがいまある館は、宮殿と皇都とを隔てる城壁の内側、だけど窓を開ければすぐそこの民家の庭から伸びた木の枝の、先端に積もった雪の冷たさまで感じられるような――要するに、宮殿内の、いっそ僻地(へきち)とでも呼んだ方が良さそうな場所にある。
 街の民から見たならば、紛れもなく宮殿の一角だろう。だけど内側から見れば、もはや一部とは言い辛い。いわば、盲腸みたいなものだ。
 その盲腸――もとい、館の2階、外に向かって広く張り出した露台(ろだい)の片隅で、手すりに身をもたれ、カイは外の景色見つめていた。薄白い雪明りの空の下に、小さく暖かい炎が灯っている。彼が手にした、煙草の火だった。
「……大丈夫?」
「ああ」
「だけど」
 まだ、顔色が良くない。
 シナと占者の少女を連れて牢を飛び出した後、カイはその場に崩れ落ち、その後しばらく、息が絶えたように昏々と眠った。無条件で最高位の神官の位を授かる皇族とはいえ、後先を考えない力の使用は、肉体に負担を強いることもあるという。事実、ようやくここまで辿りついた時には、彼は一気に何十歳も年を取ったような顔をしていた。
「ねえ、本当にいいの?」
「何が?」
「このまま皇都を出て行っても、いいの?」
 意識を失う少し前、彼はシナとティティに告げていた。夜が明けるのを待って、都を取り囲む城壁の外へ抜け出るぞ、と。
「ここに残って、俺に何をしろと言うんだよ?お国の為に種馬よろしく、せっせと血族保存に励むのか?」
 よく考えるとものすごい台詞だが、しかし口調は少しも荒んではいなかった。むしろどこか楽しげでさえあった。声色に、面白がっているような響きがある。
 ――まるで氷のようだ、とシナは思う。
 いつでも、どんな刺激にも、波打つことはない。どんな波紋も描かない。少なくとも、シナは見たことがない。シナの方から伸ばした指先は、いつも空しく滑り落ちるだけだ。
「なら、お母さんは?お母さんをあのままにして――」
 そこで初めて、意外なものでも見つけたように、カイはまともにシナを見た。目の奥に薄い幕のようなものが下りている。風に吹かれて落ちてくる粉雪と一緒に、カイの目にある幕もちらちらと揺れて見えた。
「お前も見たんじゃないのか?何が一番良いかって、俺がここから消えることが、何よりの孝行だろうが」
 目の前で、小枝の先が風に吹かれ、はらはらと雪片が館の方角に向かって降ってきた。微細な硝子の欠片にも似たものが、無数に肌に突き刺さる。冷たいというより、痛いに近い。
 まるでひどい言い合いでもした後のような、どこか気まずい沈黙を抱えたまま、シナとカイは押し黙った。シナの目に、宮殿の方角へと向けられたカイの背中に、目には見えない無数の傷が走っているのが見えたような気がした。
「……カイってさ、子供の頃はどんなだった?」
「え?」
「ほら、何をして遊んだとか、どういう友達がいたとか、いろいろあるじゃない」
 国の要たる皇都、そのまさに中心であるこの場所で育った人。
 「う〜ん」と。その青年は、口の端だけで笑った。今度の微笑ははっきりと、「苦笑」の形をしている。
「……言いたくないみたいだね」
「いや、そういうわけではないんだが……何というか、どう話せば良いかわからない、というか」
 ――わからない?
 感じた疑問が、そのまま顔に出てしまっていたのだろう。シナから目を逸らし、カイは少し――ほんの少しだけ、だけど本当に、困ったような顔をした。
「俺の伯父に子供がいなくて、だからここに引き取られたって話は、前にもしたよな」
「うん」
「だけど、俺が引き取られた後で、生まれたんだ。皇帝の愛妾に、れっきとした実子が」
 腕を擦ったのは、寒さの所為からではなかった。何となく、その後の展開が読めたから。
「そもそも、俺をここに引き取らせたのは、先帝――要するに俺の祖父さんだったんだそうだ。だがその祖父さんも、その後ですぐに死んだ。伯父貴はどうしても、自分の子に後を継がせたい。そうなれば、押しつけられた甥っ子は邪魔者以外の何者でもないだろう。だから、一部屋に押し込めて放っておいた」
「放って、って……」
「体の弱いガキだったからな。できることなら、あのまま死んで欲しかったんだろう。もっとも、俺は昔からこういう奴だったから、部屋も壁も破壊しては逃げ出して、その都度連れ戻されて、飯を抜かれたりしてたっけな」
「……」
 話の接ぎ穂を失って、シナはしばし目を伏せる。
 ――こんな話を聞きたかったわけじゃなかった。誓って、彼を傷つけたいと思って、こんなことを聞いた訳じゃない。
「本当に聞きたいか?こんな話」
「嫌な思い出しかないの……?」
「そうでもないか。逃げ出したり追いかけられたり、そのうちにここのじいさんに捕まって、飯を食わせて貰ったりして、剣と武術を叩き込まれた。もう一人若いやつがいたろう?あれはその頃の剣友――まあ、幼なじみかな」
 言われてみればそこにそんなものが落ちていた、という感じで、カイは軽く肩をすくめて見せた。シャツ一枚だけを隔てた腕の皮膚に、今日シナがひっかいた傷跡が、今でもはっきりとわかるくらいに口を開けている。
「要するに、今度の婚約話も、5年前に従弟殿があっさり逝っちまったから回ってきたってだけで、基本的に俺はここでは、穀潰しの持て余しものなんだ。消えたところで、誰も困りやしない」
 寸前のところで、聞いてしまいそうになった。誰が、貴方にそんなことを言ったの?と。もしくは、貴方にそんなことを言った人間は、これまでにどれくらいいたの?と。
 何事もないように言ってはいるけれど――そして実際に、今現在は何事でもないことなのかもしれないけれど、だけど、そこまで至る過程には、きっと途方もなく長い時間が必要だったに違いない。様々な思いがあったに違いない。貴方はいらない人間ではないと、誰かに言って欲しい願ったこともあったに違いない。
「……もう1つ、聞いてもいい?」
「何だ?」
「お母さんは……何時からあの場所に?」
 瞬時に、ほとんどためらいいも感じさせずにカイは答えた。
「さあな。俺がまだここにいた頃には、そんな話は聞かなかったが。大方、生みの親があれじゃあ縁談に差し障るっていうんで、あそこに隠されたんだろう」
「そんな、お母さんなのに――」
「って、これまで、1度も会ったことがないんだぜ?もっとも、皇家には、時折ああいうまともでない人間が生まているらしいが」
 近親婚の弊害の1つとして、精神の異常は古くから指摘されている。精神だけではない、色の区別のつかない目の病や、血の固まらない病での命を失う者の数も、一般よりはずっと多いと聞く。
「カイ……」
「と、言うことは、だ」
 口元が、わずかばかり歪む。
「俺もいずれは、ああなるのかもしれんな」
「……そうしたら、僕を呼びなよ」
「シナ?」
「カイが何処にいたって、どうなったって、呼んでくれれば、迎えにいくよ?地下牢だろうが土蔵だろうが探しに行って、カイの手を引いて戻って来るから」
 こちらの世界に。狂気と闇に支配された世界じゃない。1日に1回、ちゃんと朝陽の光を浴びることのできる世界に。
「……」
 青い目が、激しく瞬いた。カイはしばし目を見開いてシナを見た。
 そして――吹き出した。タガでも外れたみたいに、全身を震わせ、目の縁にうっすら涙まで浮かべて、けらけらと。他人を懐柔する時の媚びを含んだ微笑でも、してやったり、の不敵な笑みでもない。カイという青年のいわゆる「爆笑」を、シナは初めて間近で見た。
「な、何がそんなにおかしいのさ?!」
「……お前、おもしろい女だな」
「おもしろいっ?」
 その時、ほんの一瞬、本当に刹那のことではあったが、おかしそうに笑っているカイの目に、笑いとは違う何か別の感情が横切ったのを見たように感じた。幻だったのかもしれない。だがシナは一瞬、カイという青年の内側にある、傷つきやすくて寂しい剥き出しの精神を、見たと思った。

 ――この人、本当はただ泣きたいだけなんじゃないのか。だけどそれを人に悟られなくて、もしかすると自分にも悟られたくなくて、こうして笑っているだけなんじゃないのか。

 冷たい氷の底に埋まっていたのは、人型に削られた石の固まりではなかった。息もすれば血も流す、生身の人間の体だった。
 その芯の部分は少し固くて、強ばってねじくれてはいるみたいだけれど。
「カイってさ」
「あ?」
「今まで誰かに、性格が歪んでるって言われたことなかった?」
「何だ、お前、今頃気がついたのか?」
 まだおかしそうに顔を歪めているカイの手から、葉巻が雪の中へと落ちた。じゅっと、湿った音を残して火が消える。そのまま自分で自分の腕を抱き、腹を抱えるようにして、彼は笑い続けていた。
 空を見上げると、分厚い雪雲の隙間から、そこだけ爪でひっかいたような、細い月が浮いていた。何だか月の形まで、笑っているように見える。
 その時、不意にカイが顔を上げ、シナと同じ場所を見上げて呟いた。
「いつか、お前の夫になる男は幸せものだな」
 ――え?
「さて、もう1回寝るか。明日……いや、もう今日か。朝が早いぞ」
 また1つぽたりと粒の大きな雪片が、今度はシナの肩へとむかって落ちてきた。一歩部屋の中に足を踏み入れると、建物の中は、思わず涙が出るかと思うくらいに暖かい。シナの手の上で、雪が溶けて水となって流れ落ちる。
 ふと、思った。
 ――いつか……もしもそんないつかが、あるならば。私は、いつかこの空を降る雪になって、貴方の肩を暖めてみたい。凍てついた心を溶かしてみたい。
 そんなことが、果たして私にできるだろうか?
 いつもなら必ず頭をよぎるそんな疑問も、この時ばかりは浮かんではこなかった。








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