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風の挽歌

最終章 風が帰る場所 2


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 その店は、市内の目抜き通りからほんの1本だけ内側に入った、裏通りにある。
 広さは普通の家の2軒程。もともとは2棟の住宅であった中央をぶち壊して、通り側を店舗に作り変えてある。表通りの大店と比べれば実にささやかで、本当なら店と呼ぶのもおこがましいような作りだが、これで主人とその妻子、ついでに働きに来る若い娘と彼女の子供の食い扶持まで養っているのだから、なかなかどうしてたいしたものだ。
 ――あら、お客かしら。
 店番を夫に任せ、娘と共に買い物に出ていたユウナは、1つ先の角から店の中を覗き込む、若い男の姿を見つけて首を傾げた。青年は逡巡するように何度か店先を通り過ぎた後、意を決したように呼び鈴を鳴らしている。……おかしな話だ。奥行きなんてまるでない建物のこと、呼び鈴は一応あるだけで、本当は一声かければ用は済むのに。
 立ち止まって見つめた彼女の視線の先に、何やら慌てた風で夫が現れた。濃い茶色の髪に同じ色の瞳、大抵の人間なら見上げずには会話が出来ないほどの大柄である。
 しかし客人も方も負けず劣らず長身だった。だが無論、思わずユウナが目を見張った理由は、そのことではない。
 ――青年を迎え入れた、夫の顔が。
 これでもかと目を見開き、口の端がわなわなと慄いていた。短く刈り上げられた前髪が、眉毛の上を所在無さげにさ迷う。あげくの果てに手元が狂ったのか、台の上にあった売り物の薬の瓶を全部突き倒してしまった。
 硝子の破片が散り、床上を液体が這う。
 ――いつもあたしに散々、取り扱いには気をつけろって言ってるくせに。
 これじゃまるで――そうまるで、幽霊にでも会ったみたいだ。
「……お母さん、お客さん?」
 娘に袖を引かれ、ユウナはふっと現実に戻された。若い男が誰なのかはわからないけれど、どうやら夫を尋ねて訪れたのだということぐらいはわかる。だとしたらここで黙って眺めているわけにもいかないだろう。何しろ、あの店の主婦はユウナなのだから。
 ――例えそこに多少、夫にあんな顔をさせた訪問者の顔を間近で見てみたい……という好奇心があったとしても。
「お母さんはお客さんにご挨拶してくるからね。リザは先にお家に帰っていてくれる?」



 どれくらいそのままでいたのだろう。気が付いた時、閉まったままの窓の隙間から一筋、茜色の光が差しこんでいた。対照的に開け放たれた木戸を吹き抜ける風は冷たい。子供は抱きしめられたまま、頼りない母の膝の上で顔を突っ伏すように眠っている。
 女の姿はどこにもない。のろのろと持ち上げた両手は乾いたまま、其処には一滴の染みもない。
 ――幻影だった……?
 ただ一度相見えた時、彼女は皇宮の地下牢にいた。地下牢に幽閉されながら遊牧民たちに指示を与えることが出来るのならば、肉体を持たずに精神だけを移動することも、可能なのかもしれない。だけど――
 これが一連の事件の真相なのか。1人の女の妄執の上で、私たちは皆、ただ踊らされていただけだったのか。
「そんなことって……」
 どれほど悔やんだことだろう。カイが何よりも助けを求めていた時に、シナは隣にいることができなかった。傍にいてやることができなかった。
 傍にいて、私はあなたがいてさえくれればそれでいいのだと、他には何もいらないのだと、そう告げることさえ出来ていたならば。たったそれだけのことが出来なかったが為に、シナが失ってしまったものは、あまりに大きい。
「……」
 ふと真下を見下ろす。自分の腕の中に収まった、頼りなく小さな命。無垢の未来を夢見る、まだあまりにも儚いもの。
 血のつながりや生まれの良し悪しが、それほど人の人生を規定するものだろうか。希望的観測にしても、それは否、だとシナは言いたい。
 確かにそこに根は生える。草木だって肥やしによって葉の色を変えるのだから、人の生き方だって多少は左右されるのかもしれない。
 だがその先は千差万別だ。あなたはどのように枝を生やすのか。どのようにして太陽を求め、葉の合間を吹き抜ける風に、どのような旋律を奏でるのか。その過程こそが生きるということであり、他人を惹き付けるのもまた、彼らがそうして生い茂らせた枝や葉の部分なのではないのか。
 いつまでも、我を忘れてはいられない。ようやく立ち上がりかけた若い母親の足下に、じわりじわりと、長く細い影が落ちていた。日が暮れかけているのか。思わず、シナは動きを止めた。
 ……影?
「誰?!」
 背の高い家具もない家の中。周囲に高い樹木がないことは、無論承知の上だ。問答無用で入り口へ向けて武器を突き出したシナの耳を、耳慣れた――ほとんど幻にも近い声がかすめた。
「うわっ」
「……」
「お、おい、それを引け」
 小屋の入り口を塞いでいた影は、両の手を肩の辺りでひらひらと振り翳していた。敵意のないことの表明。かつて自分の目の前で、そんな仕草を見せた人間を、1人だけ知っていた。
 ――どくり、と全身の血液が脈打つのがわかった。
 金髪と、深い青色の目。
 低くて、滑らかな声。
 不適と呼ぶ以外、なさそうな笑い方。
 最後に会った時よりも随分と血色が良くなって、頬の辺りに肉がついた。といっても男にしては線が細いことに違いはないのだけれど。
 喉奥が引き攣ったようで、声が出なかった。きっとこれも幻で、何か言ったり、瞬いたりしたら消えてしまうのだ。今までがずっとそうだったように。だから瞬き1つしないで、凍りついたように立っていた。一瞬が、これまでの人生よりも長く感じられた。
「……おい、まさか誰だか忘れた、とか言わないよな」
「カ……イ」
「正解」
「本物?」
「俺はこれまで、自分の偽者という奴には会ったことないが」
「そんな、何で、どうして――」
「……説明はするから、頼むからまず先にそれをどかしてくれ」
 男の首筋に突きつけられているのは、刃の切っ先。一寸の狂いもなく急所を突き、少しでも動けばこの首を掻き切ってやろうと身構えている。持ち手の動揺そのままに、皮膚の表面に、ごくささやかな朱が走る。
 はっとしてシナは目を見張った。だが腕を引かなかった。次いで、耳をつんざくような音が、決して広くない小屋の内側を盛大に響き渡った。
「シナ――」
 白い頬の上に、いささか気の早い紅葉がはっきりくっきり浮かび上がった。強烈な平手打ちに、カイだけではなく床の上に置き去りにされていた赤ん坊までもが、一瞬、あんぐりと口を開く。
「い、1年近くもどこをほっつき廻って――」
「……」
「私はあなたが、死んだと思ってたんだよ!?」
「……ああ」
 激情を、再び振り上げられた掌を、静かな声が受けとめる。
「俺も、そう思っていた……」



 ――生きたい、そう願って。
 と、その娘は言った。
 とにかく医者を探そうとしたこと事体は、間違いではなかったと思う。だがただあてもなくさ迷ったところで、見つかる筈もないと気付いたのは散々歩き廻った後のこと。ならば取りあえず大通りに出さえすれば、血塗れの男と少女に驚いた誰かが救いの手を伸べてくれるかもしれない――と悟った時には、もうすっかり道を見失っていたのだから、我ながらかなり冷静さを欠いていた。
腕の中の少女はこそり、とも動かない。時折思い出したように震える幼い吐息だけが、彼女の生命がまだかろうじてこの世に繋ぎとめられていることを証明している。
「……畜生、どこなんだよ、ここは」
 視界の端に軒の低い民家が幾棟か、港に繋がれてそのまま忘れられた木船みたいに、ゆらり、ゆらり、と揺れている。実際に家が揺れるわけはないので、歪んでいるのは自分の頭の方だろう。
 例(ためし)に1軒の戸を力任せに叩いてみたが、返答はない。自棄気味に蹴飛すと、一瞬、粗末な家屋全体が津波に押しつぶされたようにぐらり、と揺れる。衝撃で、腕に抱かれたティティが目を開いた。
「カイ……。もういいよ」
「おい、ティティ――」
「……私は、もう充分に生きたもの」
 例え何年生きようが、カイにとって死とは恐ろしいものだ。何故ならそれは切り離されることだから。身体の終焉と共に精神が病んだのも、今こうして必死で助けを求めるのも、突き詰めればすべてはそこに行き付く。
 今隣にいるあなた。足下で蠢く大地。頭上を広がる空。分離にはいつも痛みが伴う。だったら切り離すものなど何もなかった昔の方が良かったと思いながら、心を無視して体だけを重ねて、本当は何よりも大切にしたかったのに、いつも傷つけてばかりいた。
「……あのね」
「何だ」
 必死で目を凝らしているのに、もうお役目は終えたとばかりに、瞳は濁った空以外の何者も映し出してはくれなかった。いっそここで大声を張り上げてみようか。息を吸い込みかけたカイの右腕に、小さな掌が触れる。
「私ね、ハザイなの」
「ハザイ……ハザイ族か?」
 都が築かれるその前に、この地に住んでいたといわれる一族。天を崇め、呪術をよく行い、タリアの地に住む周辺の他部族からは「魔族」と呼ばれて恐れられ、――それ故に他族の代表となったタリア族の兵に攻められ、滅ぼされてしまった。
「建国当初に滅んだと聞いていたが、そうか、生き残っていたのか」
 ふるふると、ティティは首を振る。
「違うの。……ハザイ族はね、まだ寿命を残して他人に命を奪われる時だけ、強く願うことで、たった1人に、自分の残りの寿命を分け与えることが出来るのよ」
 ――生きてくれ。
 それが死んでいった一族の最後の祈りだった。生きて、生きて生き延びて、いつか一族を再興してくれ――
 だが願いがあまりに強過ぎた為なのか。そうして生き残った少女は、その時から肉体の成長を止めてしまった。
 永遠の子供。子孫を残すことも出来なければ、兵を挙げて恨みを晴らすことなどもっと出来ない。こんな自分が生き残ったことを冥界の一族はどう思っているのか――考えると悲しくて情けなくて眠れなかった。
 だけど死ねないのだ。望まずに与えられた<命>という名の贈り物が彼女を死なせない。もういい、楽になりたいとどんなに願っても、それでもやっぱり死ぬのが怖かった。
「ねえ、カイは生きたいよね?死ぬのは怖い。生きていたい――そう思うよね?」
 ほとんど悲鳴に近い、悲痛な声。今、まさに逝かんとする者の。握り締めた腕に爪が食い込む。カイはその手を拒まなかった。ティティに負けないくらい悲愴な顔で彼女を見る。
「わかっているでしょう?このままじゃ、あなたの時間、もうすぐ終わってしまうのよ。それがどういうことか、わかってる?!」
「もうよせ、ティティ」
「……本当は、今もまだ好きなくせに」
「え?」
 そろそろと伸ばした小さな掌に、柔らかい金の髪が絡む。青白い顔に浮かんだ慈愛に満ちた表情。まるで慈母のような。
「今まで誰も、あなたに教えてくれなかったのね」
 愛し方も、愛され方も。
「……ティティ?」
 ――羨ましい。
 かつてあの少女に告げた言葉は本心だった。気の狂うような長い時間を1人で生き抜いて、どれほどまでに願ったことか。
 自分の命を受け継いでくれる人間が欲しい。そうすればきっと、この長い命を終わらせる勇気が出る。
 だって人は皆、そうして生きていくのではないのか?
「――お願い。生きたいって、そう願って」
 そうすれば――
 私はあなたに、命をつないであげられる。



「ティティが……」
 ことり、と何かが床に落ちる音がした。シナの手からようやく柄が滑り落ちて、刃先が床に突き刺さったのだ。ただ落としただけに見えた刃が思いのほか深くささっていることを確認し、カイは思わずぞっとする。
 首筋にやった掌に、うっすらと血が滲んでいた。薄皮一枚切られたか。一度は捨てたはずの命でも、拾ってしまえば、やはり惜しいと思うのだから、不思議なものだ。
「まったく……お前と係わるのは、いつも命がけだな」
「生きていたのなら……何でもっと早く出てきてくれなかったの?!」
 やみくもに振り回された拳が、カイの肩を、胸を打つ。暫くするがままに任せ、やがて抵抗ごと抱き寄せると、酷く暖かいものが胸の辺りを濡らした。熱い液体がシナの頬を伝い、顎から滴って、足の甲の上でぽたぽたと散る。
「あの地震に巻き込まれたんだぞ。これでも、精一杯急いだんだ。頼むから、もうそれ以上、泣くな……泣かないでくれ」
 ――目を閉じて、思い出すのはいつも泣き顔ばかりだった。
 もしくは、怒った顔か。記憶の中でさえ笑った顔を思い出せないのか、といささか自分に辟易(へきえき)したものだが、考えてみればそれも当然だった。――俺はいつだって、怒らせるか泣かせるかしかしてこなかった。
 やりなおせるだろうか。俺にもう一度、この場所から生きなおすことが出来るだろうか。
「……悪かった」
「何で謝るの」
「あの時、随分と酷いことを言った」
 5本の指が髪を梳き、首筋に、耳朶に触れる。やがて2つの掌が、濡れた頬を挟んで引き上げた。
「シナ。聞いてくれ」
「……」
「これは――貰った命だ。恐らく、そう長くは持たないだろう。だが、それでも俺といるか。……いてくれるか?」
 答えた声は、問いかけた声と同様、ほんの少しだけかすれていた。
「……子供を」
「えっ?」
「抱いてあげてくれるなら」
 シナから視線を逸らし、カイは赤子の顔を覗き込む。
「これが、俺の子か……」
 いつか夢で見た時と同じくらい、酷く優しい顔をしていた。恐る恐る、こわごわと伸ばした指の先が、白く柔らかな肌に触れる。ごく微かな刺激に、閉じていた嬰児(みどりご)の目が開く。
 その瞬間、茜色の空の彼方から忍び来る宵の気配の向こうに、また1つ新たな季節が巡ってきたのを、シナは確かに、見たような気がした。

【完】





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