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風の挽歌

最終章 風が帰る場所 1


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 生温い風が吹いていた。
 ごつごつと岩の転がる荒地。風は大地に張りつくわずかな緑をさえをも引き千切り、乾いた土の表面を、刃物のように削り取る。空は薄い藍色で、赤茶けた土埃の向こうに彼方の星が光って見えた。
「――シナ?」
 隣で寝ていた男が、身を起こして手を伸ばしてくる。長い指が頬に触れ、涙の跡を伝って顎に落ちた。
「どうした?」
「……どうして」
「?」
「どうして帰りたいと思う場所って、いつも帰れない場所ばかりなんだろうね」
「当たり前だろう」
 ふ、と眦(まなじり)を下げ、カイは静かな笑みを顔に刷く。どこにこんな顔を隠しているんだろう。ごくたまに――ほんとうにごく稀にではあるのだが、彼はこうして、泣きたくなるくらい優しい顔を見せることがある。
「帰りたい場所と帰る場所が同じだったなら、いちいち思う前に、みんながすぐに帰っちまうからな」
 仰ぐように空を見上げ、2人で包まっていた布を肩の辺りまで持ち上げる。まだ朝まで間があるから少し眠れ――。シナはこつり、と男の胸元の布地に額を押し当てた。
 感じるのは人肌の温もり。目を瞑れば、流れる血潮の暖かさまでもが伝わってくる。こうしていれば夜は優しく、怖いものも、寂しいものもここまで追っては来ないということを、シナは既に知ってしまった。
 あるのはただ、安息のみ。闇が身を包みこみ、眠りは緩やかに弧を描いてやって来る。


 ――人が帰りたいと願うのは、いつも帰れぬ場所ばかり。


 初夏。
 花は散り、枝に咲くのは緑の若葉。その合間を擦りぬけて大地を照らす陽光はあくまでも眩しく、生きとし生けるすべてのものの息吹の上に、流れ落ちる清流の飛沫が重なる。
この世を生きる、生命(いのち)あるものすべてが、太陽の恵みを称える季節。長く険しい冬を越え、ひび割れ乾いた大地に芽吹いた無数の草花が、神々の慈愛と、豊穣への祈りを歌う。
「――もう大丈夫じゃ」
 ごま塩頭に、山羊のような白い髭。いかにも好々爺、といった感じの医師の台詞に、乳飲み子を抱いた若い母親は、目に見えてほっとした顔をした。
「何、季節の変わり目にはよくあることでの。一晩で熱も下がったようだし、口の中も荒れていない。心配はない」
 差し出された皺だらけの指をむんずと掴んで、赤ん坊はきゃらきゃらと笑う。人懐っこい子じゃ、と医師も笑ったが、それは赤ん坊に笑いかけている、というよりは若い母親に向けての微笑みだった。18という彼女の年齢は、母親になるのに若過ぎるわけではないが、小柄で化粧気もないので、下手をすれば15,6くらいにしか見えない。
 女は「大災厄」で滅んだといわれていた、遊牧の民の生き残りだった。おおよそ1年近く前に起こったある出来事により、今では南部だけでなく北部地方でも彼らへの風当たりはあまり芳(かんば)しくない。だがそれでも彼女が一族の暮らす南方へと戻らない――戻れない理由が、腕の中でしきりに拳を開いたり閉じたりしては、母親と違う色の頬をくしゃくしゃにしている。
 ――真面目で働き者の、良い娘なんじゃが……のう。
「……あれからもうすぐ1年か。お前さんも1人で大変じゃろう。どうじゃ、そろそろその子の父親を引きうけてくれそうなのは見つかったか」
「いえ、そんなことは――」
「後添いでも良ければ、家(うち)に来て欲しいくらいなんじゃがのう。ばあさんが死んで5年になるで、家の中が荒れていかん」
 老医師の戯言に、女は屈託なく笑う。気立ての良い、器量だって決して悪くない娘だが、こうして笑っていても消えない憂(うれ)いの色が、17で恋人に死なれ、18で母親になった女の人生を象徴しているかのように見えた。
「あまり気張らずにな。何、子供なんぞ親がなくとも勝手に育つものじゃ。育ち上がってしまえば、後は意外や意外、これが結構使い勝手の良いものでな」
「ありがとうございます」
 笑いながら代金を置き、一礼して去っていこうとする細い背を、低く厚みのある声が追いかける。
「――シナさんや、また何かあったら、連れて来られい」
 緑がそよぐ枝の上から、椋鳥の群れが飛び立った。向かう先には抜けるような青。大きく広く旋回し、高く一声鳴いた後、天を駆けるように舞い上がる。風を切り空を跳ねる対翼に、遮るものなど何もない。



 医師のいうところのあれとは。皇都と国を未曾有(みぞう)の大混乱に落とし入れた事件から、早くも1年あまりが過ぎようとしていた。
 遊牧の民に攻め入られた都は多いに混乱し、同時に襲いかかった地震により、皇都の要たる宮殿内の建物は、ことごとく崩壊して瓦礫の山と化した。
 今回の皇帝軍と遊牧民の戦闘で死んだ者の数は優に千を越えるが、それでも地震による死傷者が出なかったというのは幸いだったというべきだろう。揺れの割に被害の小さかった衝撃は、皇宮以外の場所を破壊することなく、また再び、地中の深いところへ消え去ったのである。
 離宮に避難していた皇帝夫妻と宰相、大臣までもが皆無事で、南方の一部で未だ活動を続ける反乱軍との一触即発の空気は消えていないものの、国は現在、少しずつ平穏さを取り戻しつつある。
 多くの人間の心と体に、決して癒えることのない傷だけを残して。



 外の陽射が暖かければ暖かい程、迎えるものが誰もいない家の中が、日影に置き去りにされたブリキのばけつの中の水みたいに淀んで見えることがある。
 いやそれともそれは、自分が遊牧の民出身で、「家」という概念との親しみが浅いからだろうか。
 その場所でシナは幻のような光景を見た。あまりに驚いたので、上がり口に抱えていた洗濯物の束を、すべて取り落としてしまったほどだった。
 「家」と呼ぶよりは「小屋」といった方が良さそうなたった一間の部屋の中、寝床に横たえられた赤ん坊が眠る。自分の指を口の中に目一杯しゃぶって、すやすやと安らかな寝息をたてている。母親から受け継いだ、濃い黒の髪が小さな息吹で時折、ゆらりと揺れる。
「――異民と血の混じった混血の児。これが、あの誇り高いタリア皇家の最後の1人とはな。なんとまあ、とんだ皮肉だ」
 まだ夢の中にいるであろう柔らかい肌の表面を、細く長い指が滑っていた。両手で軽く頬を撫でた後、10の指を首筋に添える。縊るように指先にわずかに力を入れ、振りかえって微笑んだ。夢にまで出てきそうな、何とも言えないくらい嫌な笑い方だった。
「あなたは――」
 金色の髪に、抜けるような白い肌を持った女。シナが忘れたくとも忘れられない人に、あまりにもよく似た容貌。確かに前に一度会ったことがある。だけどあの時の彼女は常軌を逸してはいたけれど、こんな風に狂気を帯びた目をしていただろうか。
「遊牧の民の娘よ」
 元は納屋だか倉庫代わりに使われていたというだけあって、小屋の周囲――少なくとも声を上げて届く範囲に民家はない。だが入り口の壁際には、そうとわからぬ形で愛用の刀がしかけてあった。ここに越してきた当初、まさか賞金稼ぎ上がりとも知らない里の若い連中が、父なし子を生むような娘だ――などと良からぬ目的を持って忍んでくることがあったので、すぐに手に取れる位置に置いてあるのである。もっとも、そんなけしからん男共の中で、無傷で帰っていった者など1人もいなかったが。
 そろりそろりと僅ずつ後退を繰り返していたシナの指先がようやく、金属の固い肌に触れる。しかし次の瞬間、酷く冷たい空気の筋のようなものに肌を撫でられ、掴みかけた柄を取り落とした。
「あっ…」
「何を恐れることがある。そなた、わらわに跪き、忠誠を誓ったのではなかったのか?」
「……」
 ――まさか。
 皇都にとって異物である彼らがそこへ侵入するには、どうしても結界を緩める必要があった。その為に流された血。汚れを知らぬ幼子の命を皇都にまき散らすことを、その声は遊牧の民に望んだ。
 それだけではない。いかにして皇都の気を乱すか、そしてどうやって城門を突破するかまで、声はことこまかに指示を与え、彼らを皇都まで導いてきたのだ。
「――あれが、あなただったというの?!」
 皇弟夫人であり、数少ないタリア皇家の直系の1人。そして何よりも――カイをこの世に産み出した女性。
「どうして、どうしてそんなことを――」
「皇家の血筋が憎いからじゃ。そなたらも同じであったのだろう?仲間を殺した国が憎い。己の家族を見殺しにした者たちの血筋が永劫続くことには耐えられない。だから我らは手を結んだ。――そうであろうが」
 細い首に添えられた手に、力が加わる。
「それが、たった1人の、それもあの男の息子の為に無為に終わったと思えば、虫唾が走る。おまけにこのような、余計なものまでこさえおったとは」
「やめて!あなただって皇家の……それに、カイはあなたの子供でしょう!」
「カイ?……ああ、あの忌(い)み子のことか」
「忌み子?」
「あれは産まされた子。わらわの子などであるものか」
 ――え?
「…どういうこと?」
「皇太子妃――今の皇妃は最初の子を流した後、子供の望めぬ体になった。わらわは最初の子を、病に取られて失った。そこで、彼奴らは考えた。わらわに皇帝の子を産ませれば良いのだ――とな」
 皇帝の2人目の皇子の妻は、皇宮に監禁され、夫の父親の子を産むことを強制される。彼女にとっても皇帝は叔父だ。誰1人として幸福になれるはずのない、ただ血の濃い子供を得るためだけに過ごした時間。
 結果、生まれた赤子はすぐに母親から引き離される。そのままでは、女が我が子にどんな危害を加えるかわからなかったからだ。
「……」
 シナはカイの他には男を知らない。彼以外の男が、女を抱くときに何を思っているのか――いや、初めてシナを抱いた時から、カイはその行為にはかなり慣れていた。カイが自分やそれ以外の女と接する時に、何を求めていたのかさえ、シナにはわからない。
 心惹かれた相手に、身体だけを求められることが辛くなかったはずもない。だけど抱かれること事体が、嫌だったり苦痛だったりしたことは一度もなかったように思う。少なくともその一時だけは、愛されて包まれているように感じることができたから。
「ひどい……」
 女は、子供を生むための道具ではない。国の偉い人間たちが何人も集まって、そんな簡単なことさえわからなかったのか。
「愚かな子よの。歴代の皇族でも稀に見る強い能力を持ちながら、それに値するだけの器を得なかった。さすが狂者の血筋の忌み子。何もかも自ら投げ捨てて――破滅の道を突き進んでいったわ」
 くつくつ、と白い喉が音を発した。はからずもその笑い方は、シナが最期に見た、彼女の息子の笑い方と良く似ている。
「……これが、復讐のなの?」
 結果的には皇都は守られた。敗退した遊牧の民は南へ引き、皇帝も国も無事だ。だけど皇家の血筋は滅びる。たった1人の継承者だった筈の男は、もうこの世にはいない。
 人でも喰らったように赤い唇が、両端を吊り上げて笑っていた。その色に見覚えがあった。血の色だ。あの日、皇都で見た雪の色。切りつけられた心のまさにその箇所から流れ落ちた血。あの日の形のまま、傷は癒えることも閉じることもなく固まってしまった。
 ――それでも生きることができたのは、残されたものが、他でもない、自分自身の中にあると知ったからだった。
「……その手を離せ」
 シナの声に宿った強い気迫に、女の手が止まる。もうどこにもいない人にあまりにもよく似た顔が、目を見はってシナを見る。
「何?」
「私の子供に触るな。この子は、皇家の子なんかじゃない。私の子なんだ!」
 同時に、鋭い風の束が打ち寄せてきた。かわさずに正面を進み、触れる直前で膝を折る。ほとんど刃に近い風の鞭が束ねた髪の一筋を掠めて、絹糸のごとき黒が空(くう)に散った。女の目が開かれる。しかし再び風が放たれる直前、下方から酷く暖かい、熱の波のようなものが2人の身体を押し包んだ。
 光を操ったカイ。風を遣うこの人。そしてこの子は――
 火がついたように泣き叫ぶ赤ん坊の全身から、橙色の光が渦を巻いていた。弾かれたように女は赤子から手を離す。白い指先に火脹れができる。次の瞬間、シナが拾いあげた刃の先が、女の胴を切りはらっていた。
 どう、と鈍い音がして、体が垂直に倒れ込む。寸前で手を伸ばし、子供の体を引き寄せる。小さくて暖かな体を抱きしめた瞬間、波が引くように、全身を安堵の思いが駆けぬけた。
 ――憐れな人だ。狂った心で、憎しみの形を取り違えた。濁った眼(まなこ)で、一番大切なことを見失った。
 例え誰の子であろうとも――それがあなたの子供であることには違いなかったのに。






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