×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


風の挽歌

第15章 赤い雪


扉へ/とっぷ/戻る




 ぱたり、またひとつ、ぱたりと。水面に滴る雫の音が、深い微睡みの中にある意識を呼び覚ます。
 燃え上がる炎の青。そこへ滴り落ちる水の青。そして自分を見下ろしている人物の瞳の青。
 目を開けて最初に飛び込んできたのは、丸く切り取られた空だった。足下に広がる床は大理石、祭壇に灯された炎は煌々(こうこう)と青い。まるで意思あるがごとく蠢くその表面が、白1色の石肌に、複雑な光輝を描いて消える。
「――じいさん、目が覚めたか?」
 しげしげとこちらを覗きこんでいるのは、年若い、しかし高貴な風貌を持った青年であった。周囲の壁と変わらぬ白い肌に、青い炎が濃い陰影を落として揺れている。ひた、とこちらを見据えてくる視線が、相手を射るように鋭い。
 はて、この顔はどこかで見たことがあるような……と考え、やがて思考が1つの場面に行き当たった。

 ――最近、この町を訪れたという2人連れの賞金稼ぎを知らぬか?

「お前は、確か……」
 崩れかけた神殿の片隅。ちりばめられた月の光。そこで出会った、一組の旅の男女。ほんの一時、それは真夏の夜の夢にも似た邂逅(かいこう)。
 老獣はもたれていた頭(こうべ)を上げ、長く白い毛をふるり、と震わせた。
「皇宮の主神殿で神獣を呼び出してみて、出てきたのが、老いぼれ一匹……こりゃ、本当にこの国もお終いだな」
 長い腕を胸の前で組みながら、青年は深々と嘆息する。
 自分から呼び出しをかけておきながら、これはまた、随分な言いようである。しかも老いたとはいえ神獣相手に、一欠片の敬意さえもない。今ここで、神の獣と呼ばれるこの身の、「神」たる証を見せてやろうか。だが、いきりたつより早くに足腰の力が抜け、その場に座り込んでしまった。
「まあ、あんたでも、いないよりましだろう。1つ、力を貸してくれ」
「何だと?」
「皇都に、結界を張り直す。……手を貸せ」
 青年が言葉を吐き出すと同時に、祭壇に灯る炎が左右に揺れた。
 300年近くの月日を経て、ほころび始めた皇都の結界。壊れつつある気脈の流れと、それをついて襲いくる異民の群れ。このまま放置すれば、いずれ天の理(ことわり)は、今以上に狂い出すことだろう。地震、干ばつ、異常気象――そして魔の世界の生き物は、荒んだ人心を餌代わりに数を増やす。
 ふさり、と長い毛が床を滑った。四肢が床を踏みしめ、老いて尚、優美さを留める全身が灯火のもとにあらわになる。長々と伸ばされた首。そこから続く頭部、その中央にそびえ立つ一角の角。ほの青い炎を弾いて、薄闇に白く光る。
「結界を形作る為の呪の数は、皇都の城門の数と等しく5。土、風、水、火、そして――光。今の皇家に、5つの呪を集めるだけの力など、あるものか」
「<光>は、ここにある」
 青年は空を見る。やがて、彼だけに見える、彼だけにしか見ることのできない何者かに語りかけるように、静かに呟いた。
「この身体を流れる皇家の血で、一体どれほどのものが購えるものか……」
 そこで一度言葉を切り、老獣を見て、そして軽く微笑する。
「やってみようじゃねぇか」
「……あの娘が、嘆こう」
 何もかも焼き尽くすかのような日射しが姿を隠し、ようやく過ごしやすくなった夏の夜。夜空に浮かぶ月の光が、崩れた壁にぶつかり散る。その中で抱き合う若い男女の姿は、隠微(いんび)というよりむしろ、幸福の象徴であるかのように思われた。
 ――それほど、幸せそうに見えたのだ。あの時の2人は。
「あんた、見てたのかよ」
 しかし今、幸福の片割れであったはずの青年は目をみはり、そして、ひどく渋い顔をして、前髪をわしわしとかき上げた。
「……エロじじい」
 人の住みかにずかずかとあがりこんで、見られたら困るようなことをしていた、というところを完全に棚に上げている。いや、棚に上げるだけでは足りずに、箱に詰めて封までしている。
 そう言ってやろうと思って見上げた先には、若者らしい闊達(かつたつ)な笑みがあった。一角の下の、額の上に添えられた掌は広く、まるで長年慣れ親しんだ愛犬を慈しむかのごとく、柔らかい。
「忘れるなよ。あんた、俺には1つ、借りがあるだろうが」
 その瞬間、老獣の身体は青年の影の中へと溶解した。



 宮殿内の建物はすべて石造り、床を打つ靴音は壁にぶつかり、天井を反射して一際高い響きを残して虚空へ消え去る。
 皇宮は、奇妙な静謐に満ちていた。庭園の草木が、赤茶色に冬枯れているのは街中と同じ、空に禍禍しい赤みが見え隠れているのも等しく、だけどその下で蠢く人の気配だけが存在しない。
「俺は良く知らないが……、こんなに静かでいいものなのかな?」
 振りかえった先の高い壁に取りつけられた物見櫓(ものみやぐら)には人気がなく、本来門を潜り抜けた先にいる筈の門番さえも、姿が見えなかった。灰白色の城壁の隙間、育ちあがった苔の濃緑だけが、静まり返った風景の内側に適度な色どりを添えている。
 街で聞いた噂を思い出した。確か皇帝も皇后も、宮殿を出て既に皇都にいない、などと、誰かが口にしてはいなかったか。
「……僕も、この前は連れてこられただけだったし、皇宮の中までは良くは知らないんだ」
 傍から、返答があった。随分と伸びた髪が肩の辺りで緩く波打ち、走った所為か肌は薄く汗ばんで上気している。前方を見つめる双眸に、先刻のラウルの不安をそのまま映し出したかのように、一抹の恐れと、濃い焦燥が浮いている。
 ――ティティが死んだ。カイが姿を消した。
 たったそれだけの言葉で、シナは何も言わずにラウルについてきた。皇宮を訪れたところで、中に入れるという保証などあるはずもなく――ましてやカイがここにいるという確信さえもない。それを承知でなお、ただ1人の男の身を案じる、その気持ちだけで。
 ふと、問いかけずにいられなかった
「シナ、お前あいつの身体のことを」
「知ってた」
「え?知ってたって、お前、それなら何で――」
 ――ならば、何故。
 カイの置かれた状態が、良くはないことなどとっくに気がついていた。だけどそれでも、ラウルの言うことに耳を貸すような若者ではなくて。
 しかしそれでも――いや、だからこそ、思ってしまうのだ。
 共に在るのが彼女でさえあったなら、せめてもう少しくらいは、自分の体を気遣う、ということもあったのかもしれない。
 そこまで考え、軽く舌を打つ。
「……これは、八つ当たりか」
「何か言った?」
「――あ、いや、何でもない」
 彼方で揺れる稜線。波のように、打ち寄せては引いて行く喧騒と。シナとラウル、二人の足音も、やがてその中へと呑み込まれて行く。
 終焉への道標。それは、白い壁と続く静寂だった。



 遠方から見下ろす都は、それ自体が1つの城砦(じょうさい)だった。
 皇都を取り囲むようにそびえる山脈から切り出される石灰岩は、白というよりは灰に近い色をしている。すり鉢状に窪んだ山腹の内、灰白色の城壁に囲まれた町並みは、まるで水のない海の中央に投げ出された孤島のように見えた。
 燻(くすぶ)る炎の漣(さざなみ)が、窪みの外周に燃え立つような赤い照り返しを残して消えていく。
「近衛長」
「どうした」
「今、伝令が」
 部下の一人が、足許に喉頭する。
「陛下は、無事に離宮にお渡りになられました。宰相様、皇弟ご夫妻も到着されたとのこと」
「……そうか。わかった」
 キール近衛長は甲冑の紐を締めなおす。連なる兵も皆、強固な鎧に身を包み、緊張を内に秘めた面持ちをしている。
 ――夜が明ける前に、皇帝とその他の要人を都から追い出せ。
 それが、未だ夜が明け切らない頃に近衛隊下された命令の1つであった。「追い出せ」とはまた随分な言葉遣いで、それを指摘すると相手は笑って「ならば、叩き出せ」と言い換えた。
 その命に、逆らう権利など自分にはない。だが笑顔で交された最後の台詞に、ひどく不遜な思いを抱いたのも事実で。
 従うべきであったのだろうか。例え不敬罪に問われようとも、力ずくでも、彼の命令をその場で撤回させるべきではなかったろうか。
 皇弟の子と近衛長としてではなくて。子供時代の一時を共有したただ一人の友人として。
「――近衛長、あれは……
 部下の1人が発した声に、キールは、はっと我を取り戻す。
指し示す先、煉瓦の赤と石の白に彩られた街を網目のように張り巡っているのは民の生活を支える水路、ここ数日の災異でからからに干上がり、赤茶色の底で絡む苔や水草が剥き出しになっていた――筈であった。
 今、その内側を駆けるものが。都の中央、皇宮を取り囲む外壁の一部を起点とし、糸のように細いものが筋となって滴っている。それらが水路の端で溢れ、染み入り、流れ落ちていく光景は、渓谷を落下する滝の流れを思い起こさせた。
 初めは、泥濘のように思われた。
 だけど流れるものは水よりも艶を帯び、あるはずのない光輝を弾いて鮮やかに瞬く。煉瓦色の窪みの内側で、幾筋もの小川が寄り集まって流れを広げ――通り過ぎた後には黒とも茶ともつかない褐色の、酷く粘度の強い物質がこびりついている。
 思わず、目を見張る。
「あれは…まるで」
 ――まるで、血のような。



 シナとラウルがようやくその場所に辿りついた時、炎は既に燃え果てていた。銀色の紋章が施された祭壇の内側に、青色の残滓(ざんし)が、時折、思い出したように瞬いては揺れる。
 ただ広いだけの部屋は灯火を失い、薄闇が空間を間際なく埋め尽くしていた。壁も床も磨き上げられた白色、吹きぬけになった天井に、扉を開けた2人の息遣いが盛大に響く。
「おい、あれは――」
 壁に背をもたれ、長い両足を投げ出すようにして、青年は眠っているかのように見えた。
 肌の色は白蝋で、薄く開いた唇は色を失して青い。こそりとも動かぬ上体の下に、じわじわと広がる濃い色の染みだけが、鈍い光りを放って濡れている。
「カイ!」
「待てシナ、動かすな!」
 咄嗟に引いた掌に、べっとりとこびりついた色。一部はもう乾いて、どす黒い色に変色している。
 大災厄で。そこ後の人生で。シナが慣れ親しんだ色だ。浸ってきた色だ。だがそれが今どうして、これほど禍々しく見える。
「どうして、こんな――」
 伏せられていた睫毛が揺れる。ごく薄く、瞼が開く。
「カイ!」
「……何で、お前らがこんなところにいるんだ?」
「――そりゃ、こっちの台詞だっ!」
「ラウル?」
「俺たちは、この皇都をどうにかする為に依頼されてやって来たんだろうが?依頼ほっぽって、勝手にほいほい出かけられたら困るんだよ」
「……」
「それと、大体」
 と、ラウルはカイをねめつける――ふりをした。
「ティティの分の宿代はどうすんだ。ティティの分は。俺1人に全額払わす気かよ?!」
 血の気を失った唇が、笑む。――笑った、つもりなのだろう。頬に皺が寄ったようにしか見えなかったのだけど。
「俺は、依頼を忠実に実行しただけのつもりだが。金は……、そうだな。後で皇宮にでも請求しておいてくれ」
 遠くで、微かに誰かが叫ぶ声がした。次いで、馬が嘶く音。焦げた木の爆ぜる調べ、崩れて散る瓦礫の響き。近づいて来る。音が大きくなる。少しずつ、だけど確実に。手の施しようのない次元にまで。
 今、皇都は滅びようとしている。都が滅ぶことが国の崩壊を意味するのであれば、今、タリアを襲っているのは死病だ。
 きっと多くの人が死に、残されたもっと多くの人間が胸に憎しみを飼う。他でもない、シナ自身がそれを望んだ。
 だけど――
 不意に、カイが大きく目を見開いた。はっとしたように暫く眉をひそめ――次いで微笑んだ。いっそ呪わしいとでも呼んだ方がよさそうな暗い笑い方で、シナを見る。
「……馬鹿な女だ」
「え?」
「仲間に伝えて来るんだな。隠れ家に押し込んであった武器も油も、夜の間にすべて回収してあるぞ。……俺が、近衛長に命じて回収させた。軍は、国は、お前らのやることなんぞ、最初からすべてお見通しだった、ってわけだ」
 軽く肩を竦めた男の喉から、喘鳴(ぜんめい)に似たものが零れ落ちた。同時、下方に新たな血の流れが加わる。呼気が荒い。屈み込んで耳を寄せたシナの髪の先が、震える息吹で揺れる。
 ――彼は、覚えているだろうか。
 かつて同じ唇が、この髪を好きだと言ったのだ。指を絡ませ、口付けて、綺麗な髪だ、と。俺は好きだな、と。
「今すぐ、ここを出ていけ」
「何を言って――」
 長い間、この手に振り払われることだけが、他の何より怖かった。だけどそれでも握りしめていたならば。それでも離れたくないのだと一度でも口にしていたなら、何かが変わってはいなかったのか。
 シナの思いを、冷徹な色を宿した声音が打つ。
「それとも何なら、今ここで俺と死んでみるか?」
 くつ、と乾いた笑みが喉奥を零れた。
「下衆(げす)の女が」
「なっ」
「この俺が、お前のような女を本気で相手にするとでも思っていたのか?」
 嘲笑を含んだ男の台詞に、ほんの一瞬だったが、心が揺れた。同時、布地を掴んでいた手が緩む。引き離された手の甲に衝撃が走る。――打たれたのだ、と気付いた時には、全身が床に叩きつけられていた。
「――!?」
 金の光が空を滑り、細い光の筋が無数に床を撫でる。
 波動に乗り、シナとラウルの体が一瞬、宙に浮く。咄嗟に自分が流される反対側へと伸ばした指先は、だが届く直前に、明確な意図を帯びた力に跳ね返された。
 白いだけの壁が、鮮やかな銀の祭器が、光とは違った力で、捻れて歪んでいた。地の底で何かがぐらぐらと沸き立ち、その狂暴な力に揺さぶられ、世界が崩壊しようとしている。
 大地が震え、空気が割れる。
 ――地震だ。
 それも、かなり大きい。大災厄の地震を経験したシナには、それがわかる。
 ――皇都はどうなる。そこで暮らす人々は。攻め入ろうとする遊牧の民たちは。
 そして――カイは。



 気が付いた時、両手で肩を抱いたまま、シナはべったりと地面に座り込んでいた。見上る先では砂煙が上がり、灰白の城壁や高く天を突く尖塔(せんとう)、それらすべてが根底から捻じ切られ、または途中で陥落し、ぶちまけられた瓦礫が彼らの足許で溢れかえっている。
 地中に埋め込まれていた石の幾つかが浮き上がり、土で汚れた腹の部分が剥き出しになっていた。亀裂が走った柱の破片が、シナの頭上で弾けて割れる。
「おい……大丈夫か?」
「ラウル」
 どこをどうして弾き飛ばされたのかわからなかったが、腕にも顔にも無数の擦り傷が残っていた。カイが力を使って外に出してくれなかったなら、きっとシナもラウルも今頃、あの瓦礫の山の下にいた。
「結局、僕たちってなんだった……んだろうね」
 粉砕された石や建物の破片に遮られ、皇都の景色は見えなかった。ただ灰色に広がるのみの虚空(こくう)、根元から捩れた大木は、長く太い根を地上へ剥き出しにする。
 共に過ごした日々は。そこで確かに築かれたものは。何かがそこにあったと思っていたのは、結局シナ1人だけだったのか。
「……そうかな」
 不意に、ラウルが呟いた。
「え…?」
「俺には、愛していると言っているようにしか、聞こえなかったぞ」
「ラウル?」
「例え口で何と言おうが、あいつがお前に…、最後に、愛していると言ったようにしか聞こえなかった」
 ――生きてくれ、と。俺のことは忘れて、お前は生きてくれ、と。
 あの血を吐くような言葉に、他のどんな解釈の仕方がある。
「う……そ」
 ――愛している?
 多分、そんな短い言葉だけを、ずっとずっと求めていた。だけどこんな伝え方があるか。返答のしようがないじゃないか。
「嘘だ……」
 声にならない声の木霊が、風に巻かれて消えて行く。悲鳴は出場所を失い、瞳は渇いたまま、何も映し出すことはない。いっそ正気など失ってしまいたいのに、自分がまだ意識を保っていることが、他の何よりも厭わしかった。
 少女は知る。
 優しさと残酷は、現れ方が違うだけで、実はまったく同じ場所に存在するのだと。
「……シナ」
 ラウルがかがみこんで、シナの肩に手を置いた。
「うちに来ないか。嫁も子供もいるし、決して広い家じゃないけどな」
 うつむいたままの細い肩に、春の雪が落ちてきた。濁った空を、削り取って溢れてきたような雪が。
 シナの目に、それは赤い色をして見えた。引き裂かれた胸の隙間から溢れ出した極彩色の。すべてを灼(や)き尽くし虚無を作り上げる、業火の色の。
 触れればそこから弾けて溶け出して、べっとりと肌にこびりつく。


 ――皇都揺れ、赤い雪が降る。
 建国暦336年、初春の出来事であった。






扉へ/とっぷ/次へ