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風の挽歌

第14章 見えない手


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 あの人が心に闇を飼っていたことを、知っていた。
 完全な、澱(よど)みのない、真っ黒な闇を。
 そして心のどこかで、彼がその闇に浸り切ることをと望んでいたのだということを、知っていた。
 陽のあたる場所に引き留めたくて。これ以上落ちていって欲しくなくて。必死の思いでシナが伸ばした指先を、時折、酷く鬱陶しそうに見ている時があったから。
 けれど同時に、カイの中の暗闇が、シナにとって残酷であったのと同様に――いやそれ以上の重みで、カイにとってもまた残酷であったのだということも、知っていた。
 常に前だけを見すえ、立ち止まることのない力強い背中。憧れ、焦がれ、追いかけ続けた。だけど、それほど自分を追い込む必要がどこにある。一歩足を踏み出せば、ほんの少し首をよじってみたならば、多分貴方が思っているほど、現実は貴方に辛くない。
 目に見えない何かで、がんじがらめに縛られていた人だった。シナにはそんな彼を受け入れてやることはできたものの、赦(ゆる)してやることこそできたものの、どうしても、解(ほど)いてやることができなかったのだ。


 だけど、それでも。私はあの人の、一時の安らぎくらいにはなれていたのだろうか。


 シナがずっと、夢にまで見続けていたはずの光景がそこにはあった。
 地平から空までを一望する丘。その上をはためく布。白茶けた天幕の合間からは炊煙があがり、その脇で赤毛の馬がゆるりと草を食む。
 見下ろす遠くを、家畜の群れが横断していく。後端で鞭を振るう日に灼(や)けた男の肌は、嘗めた木の皮にも似た褐色だ。
 この国から、褐色の肌に黒い髪を持った民が消えてどれだけの月日がたったろう。南方の街で賞金稼ぎの仲間と別れた後、生き別れになっていた幼馴染みに連れられて、迫害を恐れて逃げ出した遊牧の民の集落にやってきた。基本的に遊牧民は同族意識が強い。例え一度もあったことがない人間であっても、同じ肌と瞳を持つ娘を、集落の人々は快く迎え入れえくれた。
 ――その暖かさを、心地よいと感じたのだ。あの時は。
 潅木がしがみつく痩せた土地を、真っ赤な太陽が燃えながら通り過ぎていく。枯草が震える地を踏みしめながら、シナは両方の手で、自分の肩を強く抱きしめる。
 ここが、本来の彼女の居場所のはずだった。大災厄によって壊されたはずのものが不完全な形がらも、取り戻された場所。なのにいたたまれなさを感じるのは、多分、この5年間で、自身の心の在りようが大きく変わった所為なのだろう。
 ――なんとまあ、無茶苦茶な男もあったものだ。
 見た目だけなら硝子細工のように繊細なくせに、性格は時折、シナが呆れかえるくらいに剛胆で。そして、あくまでも自分自身であることを貫き通そうとする、力強さ。多分、初めてであった時、彼が目の前で躊躇いなく刃を握りしめて見せた瞬間から、強烈に心惹かれていた。
 抱き寄せられて、首筋に唇を押し当てられた時、怖かったけれど嫌ではなかった。そうしていつしか心のどこかで、無くしたものを求めるよりもっと強い感情で、別の夢を見るようになっていた。
 空の色は翳り、空気は初春というより初秋のように乾燥していた。今日もまた、夜が早足で近づいてくる。握りしめた刃の冷たさに、思わず、身震いが出る。
 明けぬ夜など存在しないが、しかしまた、人々は夜の闇から逃れることは永遠にできない。既に、抗うことのできぬ広大な夜の中に、シナは取り込まれてしまっている。だが自身を巻き込む渦の中で時折、ふと我にかえるように、どうしても、思わずにはいられなかった。
 真実や正義に、本当に人間を救うことができるのだろうか。時に人は人をずたずたに切り裂いたりもするけれど、人間を本当に救うことができるのは、やっぱり、人だけなのではないのか――と。



 宿の代金はきっちり一人分、綺麗に清算されていた。
 整えられた寝台の上に、畳まれた夜具。あの青年がいつも身につけていた衣服と剣だけが、そこにはない。
 ――カイの奴、どこに消えたんだよ。
 彼(か)の青年が、血で斑(まだら)になった少女を抱えて帰ってきたのは3日前、その時すでにティティは息絶えていた。遺骸を清め、弔いを出して、その間一言も発そうとしない、見るからに憔悴しきった年若の若者に、次第を問いただすことは躊躇われた。
 ――なのに何故、今朝になっていきなり姿を消すんだ。
 焼けつくような焦燥の中、ラウルは薄い雲を仰ぐ。
 初めにシナが。次いでティティが。そして最後にカイまでもが。ほんの数ヶ月前までは、こんな日が来ることを想像できただろうか。
 ラウルが見渡す皇都の光景は、常とは異質な空気に満ちていた。
 真昼だというのに空は暗い。光りは射さず、今日の明け方から、断続的に続く地震に、城門には、荷車に家財を押し込んで、街を出ようと門に並ぶ人々の列が続く。
 ラウルの妻と子は、皇都から馬車で北に2日ほどの土地に住んでいる。周囲といえば人間より家畜の方が多い田舎のこと、心配はないと思うが――彼らは、果たして変わりなくいてくれるだろうか。本当は今すぐにでも飛んで帰りたいのに、今のラウルは、どうしてもこの場所を離れることができないでいる。
「南都が、反乱軍の手に落ちたというのは、本当かね!?」
「皇都まで、攻めて来るのか!」
「皇帝陛下も皇妃様も、既に都を落ちられたという噂は!」
 城門を警護する兵の応対は、何時にもまして乱暴だった。縋りつく街民を槍で振り払い、地に伏す背中を軍靴で蹴り上げる。呻く声に罵声。兵士に向かって投げつけられた石の数は、今、都にある人々の悲鳴の象徴だ。
「南方の争いはただの小競り合い、軍の出兵ですぐに収まった。陛下も皇后さまも王宮でご政務をとっておられる。余計な噂に心惑わされず、家に帰れ!」
 言っている本人が信じていない言の葉ほど、相手を不安にさせるものはない。真っ黒な不安に胸奥を蝕まれながら、ラウルは1人、その場から立ち去った。



 背後で、鬨(とき)の鳴く声を聞く。
 次いで積み上げられた石の外から聞こえてきたのは、無数の馬蹄(ばてい)の音だった。地を揺るがすような音が、少しずつ、だが確実に近づいて来る。間近までやってきた時、それらは秋に訪れに砂漠の大地を打つ、豪雨の音にとても良く似ていた。
「ご覧下さいもう間もなく、皇都を、この呪われた地に巣くう者どもの命を、散らしてご覧にいれます」
 膝をつき頭を垂れて瞑目する白い毛皮の表面は、飛び散った血の飛沫で所々が黒い色が飛んでいた。答える声はない。だがどす黒い水の内側に、確かに彼は何者かの意思を感じていた。
 皇都と外界を隔てる分厚い城壁、そのすぐ内側にその場所はある。常人の目には、ただの泉としか見えないかもしれない。だがもしもそれを凝視する者があったなら、水、と思えたものの表面が、まるで無数の羽虫の羽ばたきのごとく蠢いていることを知り、背筋を粟立てたに違いない。
 水、砂、光、そして空気。すべてが皆、生きている。脈打っている。呼吸している。かつて遊牧の民の中で、万物はそれ自体が意思を持ち、人と共生することで命を保っていた。水も空も。草も木も風も。何もかもが。

 ――火を放て。

 渦を巻いて水上を漂う風の声に、彼は瞑目をやめて瞼を開いた。
 砂嵐が舞う、荒れた土地。草を求め、家畜を追いながら移動する気性の荒い、だが気の優しい仲間達。それらすべてが破壊され尽くされたあの日。
 悪夢から、解き放たれるには、その根源を絶ちきるしかない。固めた決意の固さを現すかのように握りしめられた拳には、磨き上げられた5本の武具が添えられていた。
 皇都のを恐怖に陥れた、白い毛皮の殺人者。夜を支配する都の怪物。彼らが紡ぎ上げた物語の行く末は、既に手を伸ばせば届くところにまでやってきている。
 見えない手に押し進めれるように立ち上がった彼の前方に、何時の間に現れたのだろう、土作りの甕(かめ)があった。その内側から漂う濃い油の匂い。皇都内の、幾つか点在する彼らの隠れ家に、人通りのない夜の間に密かに運び込んでおいたものと同じものだ。

 ――火を放て。

 耳許(みみもと)で再び風が鳴く。そうだ、火をつけなければ。だけど火種はどこだ。憑かれたように辺りを見回す彼の腕で、ぶす、ともぐす、ともつかない、何かが焦げるような音がした。それは、生肉を焼く匂いだった。家畜を屠って客人をもてなす日、遊牧の民の天幕からはいつもこの匂いが漂っていた。
 再度、耳の近くで風が鳴いた。炎は瞬く間もなく毛皮に覆われた全身にも燃え広がった。同時に、彼の意識も弾けて、飛んだ。



 薄暮に近い空の片隅に、あるはずのない光が顔を出す。
 空を駆け巡る風は、赤みを帯びて生温い。熱に炙られた瓦礫は安定を崩し、強風に煽られ左右している。その内の一部、地震で崩れた石材の一部が通りに雪崩れ込んで、逃げ惑う人々の列を前後に分断した。
 煙の中から、悲鳴があがる。その内の1つ、泣き惑う子供の声に、シナは思わず振り向いていた。城門の1つを突破する時に、衛兵達と乱闘になった。巻き込まれた女や子供の悲鳴に、シナの心は大きく揺れる。
「――お母さん」
「…………」
「お母さん、お母さん――どこ?」
 幼い少女の頬は、煤(すす)と涙で塗れている。雪のように白い肌を、滂沱(ぼうだ)のごとく涙が伝う。縺れた足が石畳の縁に躓いて、全身が弾かれたようにつんのめた。届かないと承知で伸ばしたシナの手の先で、少女の全身が地面に叩きつけられる。その上に落ちてきたのは、余震で傾いた建物から外れた石造りの屋根。
 どんなに耳を凝らしてみたところで、もう泣き声1つ聞こえやしない。
 白い石で出来た路の表面、少しずつ、細い鮮血が血溜りを作り上げていた。伝った血の赤がシナの足下まで来て、止まる。
 耳元で鳴いているのは、何の音だ。風の音か。炎が家屋を駆逐する音か。それとも単なる人の悲鳴か。
 賞金稼ぎの仲間達と離れ、あの南方の街を出た直後、ある声が、殺された同族達の恨みを晴らしたくはないかと問いかけてきた。自分の運命を狂わせたものへ、償いをさせたくはないかと問われた時、初めて、茨の城に入る直前に耳にした、南都に乱入した義民の群れが、かつての仲間達であるということを知った。
 ――お前の力が、必要だ。
 かなわぬ想いに傷ついた心には、その言葉が、まるで救いのように感じられた。だから彼らが密かに貿易商から横流しした武器を皇都に運び込むのを手伝った。生き残った遊牧の民の中でわずかなりとも皇都に土地勘のある人間は、シナを含めほんの数人しかいなかったから。
 だけどもしも、このまま皇都に攻め入った誰かがカイの首筋に刃を突きたてたならば、私はその人間を恨まずにいられるだろうか。憎まずにはいられるだろうか。
 その首に同じように刃をつきたてたいと、願わずにいられるのだろうか。
 親を殺された子供が加害者を恨み、妻を奪われた男が復讐を誓う。売られた女が誇りを踏みにじられ、生まれた子供が世界を憎む。
 かつて、確かにこれと同じことがあった。
 ――そういうことなのだ。今、私達がしようとしていることは。



 煙は上へ上と巡り巡る。風に負けた木の葉が、枝を離れて螺旋を描いて舞い上がる。木の爆(は)ぜる音と灼熱が空を焼き、視野の片隅に焦げつくような赤い煙幕を張って、自分の足跡さえも覆い隠してしまう。
 この季節、冬枯れた大地は今だ潤いを帯びず、地を這う草木はからからに乾いて乾燥している。炎はそれらを薪(たきぎ)代わりにじわじわと、今ある世界を侵食していく。破壊と破滅、それらが街まで辿りついた時――
「やばいな、こりゃ……」
 ラウルが振りかえった街中、きっちりと石を引きつめた通りに、赤白の靄がかかり、今、自分が通ってきた道さえ見えなかった。どこかか1つの門を開いて街の民を避難させられればいいのだが、今の皇都に、果たしてそんなことが可能だろうか。
 足を速めたラウルの前方、煉瓦造りの低い屋根の軒先から、唐突に1つの影が飛び出してきた。咄嗟、止まることも避けることも出来ずに、そのままぶつかる。相手がラウルより小柄だったのが(彼より大柄な人間も珍しいが)幸い、ひっくりかえることも転がることもなく受けとめ――向かい合った人間を確認し、思わず息を呑む。
 遠くの橙を背景に、目線の先、小柄な身体の線が赤くぶれて見えた。
「シナ?!」
「ラウル!」
「そうか。お前も皇都に来てたのか……」
 遠くで、潮騒にも似た音がする。弾けた火の粉が屋根や枝に着地して、再び新たな炎を生み出している。最早、彼らが今ある場所とて例外ではない。
「で、カイは?」
「えっ?僕は会ってないよ。ラウルこそカイとティティと一緒にいたんじゃ――」
 若者の焦げ茶色の瞳が見開かれた。何でこんな場所にいるのか、とか、今までどうしていたんだ、とか――そんな当たり前の質問をすべてふっ飛ばしても不思議に感じられないのは、ラウルという若者の持つ大らかな雰囲気の特権かもしれない。
「……ティティはどうしたの?」
「死んだ。3日前に」
 ――え?
「でもおかしいんだよな。随分一緒にいたはずなのに、悲しくないはずもないのに、何か、いなくなった――っていう感じがしないんだ。妙に現実感がないっていうのか、いないのにいる感じがするっていうのか」
「……」
「だけどそれから、カイがちょっと変になった」
「変って?」
 ラウルは腕を組んで空を仰ぐ。
「きちんと3食、飯を食うんだ。夜になれば寝台で眠って、朝になって目を覚ます。おかしいだろ?」
 それが普通なんじゃないの――と言いかけたシナは、ここ1月ほどの彼の生活状態をまったく知らない。
「おまけに、随分無口になって、ずっと何か考えている風で。あいつ、腕は確かだから身体だけ動かしときゃいいんだけど、頭を使い出したらやばい。果てしなくマイナス思考な奴だからな」
 この若者の目には、あの青年はそんな風に映っていたのか。この緊迫状況で、シナは少しだけ噴出(ふきだ)しそうになった。
 だけど確かに、カイという男の生き方には、どこかそういった、得体の知れない危うさのようなものがつきまとっていた。強さと弱さが実は表裏一体でしかないように、彼の中の強さが光を放てば放つほど、影の部分がより鮮やかに浮かび上がるような気がしていた。
 シナとラウルが見上げた先、褪せた緑の向こう側に白くそびえる皇宮が、遠方の炎を映して揺らめいていた。灯火は赤一色、それらが空で混じり会い、風が闇の濃淡を作り上げる。混乱を極める皇都の中にあって、ただ密やかにそびえるその建物は、まるで別世界のように思われた。
「俺達が入れてくれって言ったところで、通してくれるとは思えないんだけどな……」
 それでも、居ても立ってもいられずに、ここまで必死に駆けてきた。
 人と人の繋がりは、本当にただ脆くて儚いだけだろうか。もしかすると、あまりにささやかで、細くて見えづらいだけで――触れて初めてその存在を知る蜘蛛の糸みたいに、なかなか、その在り処に気付かないだけなのではないのか。
 ――あの痩せ方。狂ったような激情。自分の中にあるものすべてを、叩きつけたような抱擁。まるで、これが最後だと言外に告げているみたいだった。
「行ってみよう、ラウル」


 だけど結局、私たち間に合うことが出来なかったのだった。
 ――あの不器用な人が、自らの手で、最悪の選択を選び取ってしまう、その前に。







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