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風の挽歌

第13章 砕け散った祈り 3


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 結局、カイが皇宮を退出した頃には、すっかり夜の帳が降りていた。月も星も、窓から零れる灯火さえもない。街の中心から外れた宿屋の周囲は人の気配がなく、風向きの関係だろうか、水路を流れる水の音だけが、時折思い出したように鮮やかに聞こえてくる。
 思い出したくなかったことを思い出して、いつも以上に黙り込んだカイと、隣国の王女殿下との間に、会話などまるで成り立ちはしなかった。
 そのかわり、というわけでもないのだろうが、近衛隊長殿がしゃべりまくっていた。どうやら、カイと王女を引き合わせるというより、彼自身が彼女と話をしたかったらしい。だったらお前が嫁にもらえ、と言ってやるとまんざらでもない顔をしていたので、つまり、そういうことだったのだろう。
 こちらにも頼みたいことがあったから、わざわざ宮殿まで出向いていったのだが、正直、途中からは何しに出かけたのだかわからなくなっていた。
「――カイ!」
 名前を呼ばれて見上げると、黒々と流れる水路の向こう、橋を渡ってすぐのところで、1人の子供が、ぶんぶんと両手を振っている。目を細めたカイが歩みを早めると、満面の笑みを浮かべてこちらに駆け寄ってきた。
「お帰りなさい」
「……お前、こんなところで何やってんだ?」
「カイを待っていたに決まってるじゃない」
 ――待っていた……?
「遅かったわね。早く帰って晩ご飯にしましょうよ」
 ティティは手を伸ばして、彼の手に触れようとした。カイは思わず指を引いた。ラウルと違って、子供の手を引いて道を歩いたことなどないのだ。ティティは少し悲しそうな目をした後で、腕を下ろして横に並んだ。1人の男と少女は2列に並んで、宿屋に向かう道を歩んだ。
 ――お帰りなさい、か……。
 そう言われてみると、少し空腹なような気がしてきた。朝食こそ取って行ったものの、宮殿では昼食は出なかったのだ。ここ最近は食欲のない日が続いていたが、米か麦の煮たものくらいなら、食べられそうな気がする。
 隣を歩きながら、ティティがふと、呟く。
「お隣の国の王女様には、会ったの?」
「ああ、会ったよ」
 文字通り、会っただけだったが。
「ねえ、もしもよ。もしも、会ってみて、思いっきり好みだったりしたら、お嫁さんにしてあげた?」
 いかにも子供らしいティティの発言に、カイは少しだけ笑って首を振った。
「それは、ないな」
 どうせ自分のものにならないのなら、いっそ壊してしまえばいい。
 シナに出会ってからずっと胸の内で、ずっと囁きかけてくる声があった。
 それがいかに彼女を傷つけるか、わかっていなかったわけではない。わかっていたのに手を伸ばし、その声従ってしまったのはカイだけの咎。シナが責めを負う要素は何一つとしてない。
 だからその責めならば、すべて甘んじて受け入れる。他の誰かと去って行きたいのなら、絶対に引き止めたりはしない。こんなろくでもない男の人生に、彼女の未来を係わらせたりはしない。
 ――それでも俺にとっては、お前が最後の女だ。
 これまで自分がしてきたことを思えば、そんなことくらいで許されるとは、到底思えないのだけれど。
「……そう。あ、あのね。カイの調子が良ければ、ラウルが明日、皇都の古老のところに行かないかって。何かね、その人は前にも屍鳥の大群を――」
 そこまで言って、唐突にティティは言葉を切った。
「ティティ?」
 のろのろと、子供は首を後に向ける。カイも同じ場所を見た。そして、剣の柄へと手を触れた。

――ヤフーが来るよ。やって来る。遊びに夢中、時間を忘れた子供はご用心。誰かが肩を叩いたら、決して振り向いちゃあいけません。ヤフーは怪物。夜の物。全身毛だらけ、五指に長い長い鉤(かぎ)の爪。その手で子供の頭をがっしと掴まえて、むしゃむしゃがりがり喰らってしまう――

 一体何の毛皮だろうか。
 全体の作りは猿に似ているようにも思うが、色が白過ぎる。そもそも、皇都の周囲に猿はいない。いや、野生の獣が多く生息している南の地にだって、ここまで大きな猿は存在しないのではないか。
 手の先に鋭い鉤状の爪を持った生物が、カイとティティへ向かい、ゆっくりと近づいてくる。顔の形は猿ではない。どちらかと言えば――野生の猪(いのしし)に近い。
「カイ!」
「……下がってろ」
 夜の静寂に火花が散った。金属がぶつかりあう音と同時に、相手は身を翻して、後方へと舞う。ティティの前に出て、相手の姿を確認し、カイは思わず眉根を寄せた。
「お前……人間か?」
 向かいあった獣の体が刹那、びくり、と大きく震えた。獣の匂いと、そこに染みついた濃い血の色は、カイという若者の中で眠っていた闘争心を呼び覚ましたようだった。振り上げられた剣の動きに合わせて、飛び散る白い毛が、雪のごとく辺りを覆う。
 やがてぴたり、と切っ先が獣のどもとに突きつけられる。対する若者の方は、息切れ1つしていない。
「1つ、教えてやろうか」
「……」
「魔物ってのはな、どんなに人を殺していても、血の臭いはしねぇんだ。……まったく、だ」
 猪の顔をした生き物は、動きを止めてカイを見た。長い毛に覆われた手の先で、赤銅色に染まった鋭い爪が、小刻みに震える。
 だが――
 その次の瞬間、カイの目の前で、ぐらりと暗闇が歪んだ。
 ほとんど同時に、身体の奥から、焼け付くような痛みがこみ上げてきた。咄嗟に口元を覆った指の間から、赤いものが糸を引いてしたたり落ちる。
 ――まずい。
 剣を地面につきたて、バランスを保つ。思わず力を解放しかけたが、それはほんのわずか、水路の水面を波打たせる程度の効果しかもたらさなかった。
 夜だからもともと暗いはずなのに、さらに視界が黒ずんで行く感覚に、カイは慌てた。ここで倒れるわけにはいかない。今、この場所では――
 そこで、ようやく気がつく。
 ――今この場所には、自分以外にもう1人、別の人間がいなかったか。
 甲高い子供の声が、夜陰を貫いた。鋭い悲鳴をあげながら、水路の欄干近くまで、ティティが追いつめられていく。
「ティティ――」
 剣を捨て、ティティの前方へ体を投げ出すようにして倒れ込む。地面にぶつかる瞬間、肩の辺りが激しく痛んだが、それでも残されたありったけの力を振り絞って、少女の体を遠方へと押しのけた。
「逃げろ!」
 もう、彼らが滞在している宿まで大した距離はないはずだ。そこまでたどり着けばラウルがいる。場合によっては城門の兵士に通報することも、可能かも知れない。
 ――お前が逃げるまでの時間は、何をおいても稼いでおいてやるから。
 ゆっくりとした動作で、それは振り返って、こちらを向いた。鋭く尖った爪形の武具が、真っ直ぐに目の前に翳される。
 せめて目くらい閉じようかと思ったが、瞼が凍りついたようで、上手く閉じてくれなかった。そのくせ感覚だけはやたらと鋭敏に、研ぎ上げられた凶器が皮膚を突き破る衝撃や、内臓を抉られる瞬間の、灼けつくような苦痛を先取りしている。
「――カイ!」
 ――これでようやく、終わることができる。
 半ば焦がれるようにして、カイはその瞬間を待ちわびた。



 気づいた時、飛び散った生暖かい液体が、胸の辺りを濡らしていた。
 ぼたり、ぼたり。胸からあふれ出た魂の色。散っては咲く大粒の華。ぬるりとしたその質感と、どすぐろい光輝。
 すべては、濁った血の色の中に。
「……」
 スローモーションでも見るようにゆっくりと。小さな身体が、地面の上に突っ伏してゆく。彼女の唇の端からちろりと顔を出した、赤いもの。まるで蛇の舌のように。
 ――ティティ……?
 まだ何の膨らみもない胸部の布地が、赤い飛沫で斑(まだら)になっていた。無意識に伸ばしたカイの指先に、じわり、また新たな染みが加わっては落ちる。
「お前、どうして逃げなかった……?」
 少女の答えはない。かわりに背後で、はは、と笑う者があった。鮮血の滴る己の手を空に掲げ、狂ったように笑い出す。
 視界がぶれたように歪んで、剣のありかがわからない。しかしティティをえぐった同じ武器が、カイに向けて振り下ろされることはなかった。
「貴様――」
 白銀の光が、渦を巻いて闇の中を飛び散っていた。幾筋にも渡る光の波動は虚空(こくう)を波打ち、黄金色の鞭となって地面を撓(しな)る。
 灰色の毛に覆われた体が一瞬、空に浮く。そのまま力強く打ち据えようとして、そろそろと伸ばされた子供の手に、カイは息を呑んで、下方を見た
「カイ……だめ。そんなことをしたら、カイが壊れる」
 すう、と波が引くように、金色の髪が首筋を打つ。気違いじみた声を発しながら、駆けていく影を引きとめようと伸ばした腕を、小さな指先が絡めて取る。
「……お願い、行かないで」
「ティティ」
「嬉しかったの……」
「何がだ?」
「どうしたい、って聞いてくれたでしょう?あの時、地下牢で。そう言って、私も一緒に、連れて逃げてくれた。それが、嬉しかったの……」
 ――今まで誰も、そう問い掛けてはくれなかったから。
 恨みを晴らしてくれ、と、一族を再興してくれと言われたけれど、誰もその術は教えてくれなかった。
 たった一人で生き残ったって、どうしたらいいのかわからなかった。何とかしよう、どうにかしよう。そうしている内に時間だけがたって。積み重ねられた祈りだけが、今は肩に重い。
 ――だから。
「……私の命、カイにあげるね」
「ティティ、お前」
 呼気と同時に首や胸から、また新たな血液が染みだして地面を濡らした。微かな拍動に合わせて、そこから命が溢れて抜けていく。
「もう……黙れ」
 かすれきった、ほとんど呼吸の音とかわらないくらいの小さな台詞に、微笑みながら少女は口を閉じた。そろそろと濡れた手を差し出してくる。簡単に、すっぽりと、カイの手のひらに収まるくらいの、小さな小さな、手。
 ――こんなに、小さな子供だったろうか。これほど――まだ、他人の庇護なしで生きられないような?
 それは多分カイがずっと、この手を取ることを拒んできた所為だった。こちらに向かって差し出された小さな手を、きちんと握り返してやらなかった所為だった。
 わかっていた筈だったのに。今の皇都はこれまでの皇都とは違うのだと、そしてこの手にはもう、誰かを守る力などないのだと。
 頭上に分厚い雲の影が伸びていた。まるでその下で生きる、あらゆるものを地面へ縫いとめようとしている――そんな風に。
 広がり始め雲の切れ目から、カイが見た月の光は、錆びた鉄の色をしていた。濁った風の中から濃厚な血の香りが浸みだしてきて、辺り一面をどす黒い色に染め上げて行く。

 ――世界は今、急速に色を失いつつあった。






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