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風の挽歌

第11章 もつれる糸 1


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 黄昏が色付き始めた夕刻の空に、黒い鳥の群れが姿を現した。
 どこか山奥の、ねぐらへと帰る烏(からす)の群れだろうか。そう思って頭上を見上げた男は、その尾羽の一筋に、橙色の照り返しも眩しい金の羽を確認し、商売道具の鉋(かんな)を取り落としそうになった。
「貴方?」
「家に入ってろ!」
 険も露わな夫の台詞に、傍らで木目を磨いていた妻が、訝しげに男の顔を覗き込む。あら、この人震えてるわ――と心中で呟き、女は結婚してからこの方、夫のこんな顔を見たのは大災厄の時以来であることに思い至り、ぞっとした。
「……貴方、一体何が?」
「いいか、よく聞け。家に入って、家中の窓をすべて閉めろ。俺がいいと言うまで、子供たちも、絶対に外に出させるんじゃない」
 何か問いたそうに、だが結局それ以上は何も問わずに、妻は素直に屋内へと姿を消す。すぐにばたばたと家中の、窓と言う窓の木戸が下ろされた。
 消え行こうとする太陽の最後の照り返しが、路上を燃え立つ色に染め上げ、男の足元から始まる長い影が1本、風に吹かれる案山子(かかし)のように、ゆらりゆらりと揺れている。夕闇が支配しつつある街角に人影はなく、日中にこの辺りで遊んでいた子供が忘れていったのか、何かの空き瓶が1本、からころりと転がるのみで。
 ――だから、男の呟きを聞いた者は、誰一人としていなかった。
「何てこった。どうして、屍鳥(しちょう)がこんなにたくさん……」



 黄昏が過ぎ去った漆黒の夜道を、とぼとぼ歩く子供が一人。
 目には涙。頬には深紅に腫れた跡。うつむく小さな手の上に、ぱたりと一滴、透明な液体が零れ落ちた。
 ――皇都の城門近くの酒屋に、父親の酒を買いに行く途中だった。
 子供の父親は大工である。いつまでたっても棟梁になれない手間取り大工で、そのくせ、母親が内職で稼いだ金を鷲掴みにして、それさえも酒代に換えてしまう酒のみなので、一家の暮らしは一行に楽にならない。挙句の果て、酒が切れると狂ったように彼や母親、まだ小さな弟2人にまで手を上げるから、今日、遅く帰ってきた父親が酒を買って来いと怒鳴った時、夜道はとても怖かったのだけど、僕が行くと言って、金を持って家を出たのだった。
「お母さん……」
 もう暗いし、遅いから。お前が一人で行くことないと、母親は泣いて彼の手を取った。だけど、その涙の何割かは、酒が入ると小さなことで怒って殴りつけ、だけど酒が入らないともっと殴る父親への恐怖の涙と知っていたから、子供はこうして、自分の足音にも怯えて肩を抱き、風を切るようにして道を走る。

 ――ヤフーが来るよ。やって来る。遊びに夢中、時間を忘れた子供はご用心。誰かが肩を叩いたら、決して振り向いちゃあいけません。ヤフーは怪物。夜の物。全身毛だらけ、五指に長い長い鉤(かぎ)の爪。その手で子供の頭をがっしと掴まえて、むしゃむしゃがりがり喰らってしまう――

 <ヤフー>なんていない。これはもっと小さな子供の為に、両親が寝台の中で唄ってあげる歌だ。まだ小さな弟達のために、母親が歌ってあげる子守唄。日が暮れたらすぐに帰っておいで、さもないとどこからともなくヤフーが現れて、子供の魂を喰らっていくよ――
 前方の、遠くの方に、小さく橙色の灯りを見つけた。こんな夜遅くまでやっているのは酒屋か飲み屋くらい、その向こう城門の中にはいつも必ず、何人かの兵隊さんがいて、皇都を悪い奴から守ってくれる。
 ほっとして、彼は頭を上げた。そして、凍りついた。
 ――嘘だ。ヤフーを信じているのはもっと小さな子だけで、こんな夜更けにお遣いに出るような、大きな子供のところになんて、やってきたりするものか。
 がっし、と肩を掴まれた。衣ごしにでも、その手が尋常でない量の毛に覆われているのがわかる。
 ――振り向いちゃいけない。振り向いたら、長い爪で頭をこねられて、大きな焼き菓子を食べるみたいに、一口で、怪物のお腹に入れられてしまう。
 だけど振り向いていない子供を、ヤフーが見逃してくれたことなんか、本当にあったんだろうか?
 子供の両足が、地面を離れた。ちりんと音をたてて路面に落ちる銀の硬貨。父親の酒を買う為に、家から持ってきた小銭。だけどもう子供には、それを拾うことは出来ない。銀の硬貨のその上に、赤い雫の花が咲く。
 薄れていく意識の片隅で、ぼんやりと子供は考えた。
 ――このまま僕が帰らなかったら、また、お父さんはお母さんをぶつのかな……。

――ヤフーが来るよ。やって来る。ヤフーは怪物。夜の物。全身毛だらけ、五指に長い長い鉤の爪。その手で子供の頭をがっしと掴まえて、むしゃむしゃがりがり喰らってしまう――



 剣呑な空気が、部屋の中を満ちていた。空間を張り巡った透明な弦の1本1本が、その重苦しさに耐えかねて、びりびりと震えているようにさえ感じられる。
 きっと戦争後の和平調停だって、もう少しは友好的な雰囲気で行われるに違いない。密かにため息をつきながら、ラウルは室内で、最も険しい空気を発している若者を見やった。
「よりにもよって、あんたが、賞金稼ぎに依頼を持ってくるとはな。こりゃ本当に、世も末だ。……ゾフィー宰相」
 足首まである長いロープのような衣装を身にまとった男が、窓に背をむけた状態で、するり、と音をたてて立ち上がった。
 時刻はまだ午前のうちで、この宿屋の食堂には彼ら以外の姿はない。場末の宿屋には非常に場違いな男の姿を、見とがめる者は誰もいなかった。
「随分とご無沙汰しておりますが、まったくお変わりがないようで、何よりです。皇子」
「皮肉はいい。宰相様ががじきじきに、こんなところまで来お出ましになったんだ。さっさと本題を言えよ」
 ――変わりが……ない、だと?
 随分と長く伸びた前髪を乱暴にかきあげ、カイは待ちうける椅子の上に、崩れ落ちるようにして座り込んだ。もともと、白いというより青いに近かった肌の色が、今はなんだか、土気色をして見える。
 一体、どこがどう変わらないというのか。だがラウルが足を踏み出すより早く、男が口を開いた。
「では、要点のみを申しましょう。依頼の内容は、最近の皇都の怪異についてです。もっと具体的に言うなら、屍鳥(しちょう)です。あれは本来、大勢の目に触れるものではない。それが群れを為して飛んでくる。……その意味はおわかりでしょう」
「へぇ、ついに、都にも魔物が?そりゃ知らなかったな。だがもう1つの噂なら知ってるぞ。こないだ南都の兵舎が義賊だか義民に襲われたそうじゃないか。……ああ、そうか。いっそ、俺が伯父貴を追い落して、そいつらに国を譲り渡してやる、という手もあるな」
「こんな時にまで、おふざけかっ!」
 カイの暴言に、だん、と机全体が揺れた。だが、当の本人は動じなかった、視線をまったく動かすことなく、一国の宰相を真っ直ぐに見つめ返す。
「別に、ふざけちゃない」
「……」
「屍鳥は人に死期を伝える冥界の渡り鳥だ。その姿を見た者は総じて、近い将来にあちらの世界に渡る。都に屍鳥が集まったということは、答は1つしか考えられないだろうが」
「……近く、皇都で大勢の人が死ぬってこと?」
 カイの傍らで、ぽつり、とティティが呟く。
「そういうことだ。じゃあ、行くか」
「って、おい、カイ、どこに行くんだよ?」
「どこに?」
 大まじめな顔をして、カイはラウルとティティの顔を見渡した。やがて、引き締まった唇の両端をぐい、と持ち上げて、ほんの少しだけ笑い顔を見せた。生まれ持った顔立ちは作り物のように端整なのに、笑い方は不敵で、人を嘲るかのようにふてぶてしい。だがこれが、カイという青年の通常の笑い方だ。
 そしてラウルもティティも、この1ヶ月ほどの間、カイの笑った顔を見るのは、実に久しぶりだったのだ。
「どこにって、決まってるだろう?いつから賞金稼ぎは、依頼人と依頼場所を選ぶようになったんだ?行くぞ。――皇都だ」
 ――結局これが、彼ら賞金稼ぎ達が引き受けた、最後の依頼となったのだった。



 久しぶりに訪れた(といっても、前回は無理矢理拉致されて来たわけだが)皇都の光景は、以前とは随分と変わって見えた。
 空気の色。風の匂い。そして道行く人々の表情。
 一見して何が違う、というわけではない。だが300年以上の年月、この国を支え続けた一族の末裔であるカイの精神は、厚くたれ込めた雲に覆われた空気の中に、微細な気脈の乱れを感じ取っていた。
「――ラウル」
「何だ?」
「お前、ティティを連れて家に帰れ」
「ああ?!」
 何を言うのだ、と。ラウルはカイに向け、まともに身を乗り出してきた。鼻先に、髪の感触を感じるくらいに近づかれて、カイは思わず、2,3歩後ずさりする。
「お前らが思っているほど、簡単な仕事じゃなさそうだ、って言ってんだよ」
 皇都は国土の中で唯一、街の周囲に強固な城壁を持っていた。筒状の城壁によって外部から中を隔て、300年以上も前の初代皇帝が、その類まれなる呪力によって国の安寧を封じた、といわれている。だからこそ大災厄以後にも、皇都にだけは魔物が現れなかったのだ。
 もっとも本来ならば、国中の至る所に設置されている神殿、安置されている神獣の加護さえあれば、タリアに魔物など現れるはずがないのだ。だからカイは各地を巡る中で、可能な限り、神の在る神殿の再建に努めてきたが――大災厄の混乱で人々は神獣を見失い、神殿の多くは未だ破壊から立ち直らない。
「……皇都には城門が6つある。宮殿を中央に6線を交えたその交点が、外部との接点として開かれた」
 そこら辺にあった小石を手に、まずは丸を1つ、そしてその内側に三角を2つ重ねた星型を、カイは地面に描き上げた。
「門が開けば当然、国の中でもっとも清らかでなければならないこの土地に、外部からの穢れが入り込む。だから城門は特に厳重に警備され――代々神殿の巫女や神官がそこに呪をかけて、結界を張り巡らせてきた」
「……で?」
 唐突に始められた歴史の講釈に、ラウルはぽかんとした顔をしてカイを見た。理系の学生としては優秀だったが、文学や歴史にはてんで疎い。そんな顔だ。
「だから、その呪やら結界やらも、300年もたってそろそろ壊れてきたんだろう。大体、これだけ国中に魔物がいるっていうのに、皇都だけ安全でいようという方が間違っている」
 説明するカイの方も、正直、あまりやる気出るような話ではなかった。基本的に皇都がどうなろうが、国がどうなろうが知ったことではないと思っている。いや、むしろ、そんなものなくなってしまった方が、どれほどすっきりすることか。
 それでも、引き受けてしまった以上は、それなりに収めてみなければなるまい――とは思う。
「ねえ」
 くい、とティティがカイの袖を引いた。難しく顔をしかめた男2人の下方で、翡翠色の瞳がぱちぱちと瞬いている。
「だったらもう一度呪をかけて、結界を張り巡らせばいいんじゃないの?」
 確かに、その通りではあった。しかし、1つ大きな問題があった。大地に結界を張るなど、そんじゃそこらの呪い師や神官にできる芸当ではない。それなりの力のある神官や巫女が複数いれば不可能ではないだろうが――
「あ、そっか。神官も巫女も大災厄で逃げ出して、もういない……のよね」
 カイはわずかに、眉根を寄せた。ゾフィー宰相の策略で、遊牧民の少女とこの地に連れてこられた時、確かに皇都は清浄な気で満ちていた。無残に崩れ、神を置き去りにした多くの国土の中でこの土地だけは、あくまで清廉な結界の内にあった。
 ――結界も呪も、壊れる時は壊れるのだろう。器の中でたわめられた水面が、永遠に波打たないなどというような幻想など、既にカイは持ってはいない。
 だが、それにしても。
 何故――今なのだろうか。
「だから、ラウル、お前は家に帰れ。先立つものがなけりゃ、旅費くらいはくれてやる」
「お前、馬鹿か?」
「はぁ?」
「俺は、賞金稼ぎなんだぜ?宰相様じきじきのご依頼を断れるとでも思ってるのかよ。こっちはお前と違って、俺の稼ぎに一家3人の生活がかかってるんだ」
「ラウル、お前な――」
「私も、こんな子供が一人で生きていくには、後ろ盾が欲しかったのよね。この件が解決したら、皇宮専属の占い師にでも雇って貰おうかしら?」
「あのな、お前ら……」
 皇都に広がる変異。壊れ行く結界。どこの国でも、首都は国の要だ。首都が機能を失えば、国は壊れる。多分――その内側から。
「率直に言ってくれ」
「……ラウル?」
「俺達は、邪魔にしかならないか?」
 視界に飛び込んできたのは、これまで見たこともないような、真摯な目で。
「まったく役立にもたねぇって言うんなら、どこにでも消えるけどな。俺たち3人が引き受けた依頼だ。お前1人に全部押しつけて家に帰って、枕高くして寝てられると思うのか?……見くびるな」
 その瞬間、カイの中を、何かが音をたてて駆け抜けた。5年――いや、5年と数ヶ月前のあの日、ちょうどこの土地で、もうこれ以上は何事にも揺れ動かされるまいと、固く塗り固めておいたはずの心の枝が。駆け抜ける何かによってかき鳴らされた音を、確かにカイは聞いたような気がした。
「……頼みがある」
 ようやく、それだけ口にできた。
「ここ1ヶ月でいい。この土地で起こった出来事の子細を知りたい。……屍鳥だけじゃない。他にも何かなかったか。あったとしたら、それはどういうものだったのか。とにかく、今は情報が欲しい」
 ラウルは黙って頷き、彼を見た。大きな――カイのものよりももっと広い手と、そしてずっと小さな手が、重なり合ってカイの手を打つ。
「よしわかった。聞き込みだな。ティティと手分けして行ってくる。任せとけ、すぐ終わる」



 ――夕刻、城門が閉まる時刻に、都外れの東の宿で。
 待ち合わせの場所と時間を決めると、すぐに若者と子供の背が見えなくなった。去って行くラウルとティティの背中を見送りながら、カイはふと、考えた。
 もしも俺が待ち合わせの時間に、待ち合わせの場所に行かなかったなら。あの2人はどうするだろう。何を思うだろう。
 ティティは泣くか、それとも怒るだろうか。ラウルは間違いなく怒るだろう。いや、あれで結構現実的な奴だから、怒る前に、どこかで行き倒れてやいないかと探して回るかもしれない。
 いや、それよりも多分、他でもない自分自身が――
「できやしない……か」
 苦笑半分、呟いた刹那。
 目の端に飛び込んできた人の姿に、瞬間、カイは過去を、未来を――仕事を、すべてを忘れた。
 ――まさか。
 しかし彼が次の角を曲がった時には、既にその人影は消えていた。1つの小路から1つの小路へ抜ける、ほんの一瞬の間の出来事であった。
「……」
 ――あいつが、皇都にいるはずもない。
 なのに今更、何を足掻(あが)く。今頃、何を求めて彼女を探す。
 いつかは、手を離さなければならない時が来るとわかっていた。だから、あの娘が望んだ時には――望んで離れて行く時が来たなら、それを止めることだけはよそうと、自由に羽ばたくことの出来る鳥の足枷にだけはなりたくないと、そう心に決めていた。
「畜生……」
 背中を預けた、壁の感触が冷えていた。ここ2,3日は落ち着いたと思っていたが、少し急激に動き過ぎたらしい。急速に、体が貧血を起している気配がある。
 膝が震えて、視界がぼやける。次いで襲ってきたのは猛烈な吐き気で、膝を折って背を屈めても、嫌な匂いがする黄色い液体が溢れ出てくるだけだった。

 ――屍鳥は人に死期を伝える冥界の渡り鳥だ。その姿を見た者は総じて、近い将来にあちらの世界に渡る。

 漆黒の羽中に一筋、金の羽毛を持った鳥を「屍鳥」という。魔とも神ともつかぬ、幻の鳥。ほとんど伝説に近い、死を呼ぶ鳥。その鳥を、ある夜、カイは己の頭上に見た。
 この5年程は、我ながら随分と好き勝手にやってきたと思う。行きたいところに行って、やりたいと思うことをやりつくし、随分と多くの人間と出会った。そのくせ今、もう充分だ、もう満足だとは感じられない自分がいる。
 気がつくと、心が悲鳴を上げていた。まだ、終わりたくない。誰か止めてくれ。行くなと叫んで、名前を呼んでくれ――と。
 身体の苦痛なら、慣れることもある。だが精神の悲鳴は、それが人間の根源的欲求であるだけに、噛み殺すことが難しかった。
 無意識に鷲掴んだ布地の隙間から、赤いものが滴り落ちていた。皮膚に爪が食い込んでいる。――よりにもよって、こんな場所で。体の芯を貫く痛みに思わず声をあげ、意識を手離しかけた瞬間、背後から暖かいもので肩を掴まれた。
「――こっちへ」
「……?」
 目が霞み、視界が利かない。だがそれでも、肩を抱いているのが自分よりかなり小さめの人間で、彼がほとんど足に力を入れないので、その人影が、半ば引きずるようにして自分を連れていこうとしているのがわかる。
 しばらく、カイの身体はそうして引きずられていた。何しろ引きずられる側の方が引きずる側より上背があるので、足はぶつかる、膝は打つわ――あそこで転がっていた方がよっぽどましだと思わないわけでもなかったが、不思議と嫌な気はしなかった。
 そのままどこか、古びた家の前まで連れていかれた。皇都の民家は大抵煉瓦造りだが、ここは壁も床も木で出来ている。
 投げ込まれるように、積み上げられた藁(わら)の中に突っ伏した。瞼を閉じて呼吸を繰り返すと、取りあえず、差し迫った苦痛は引いていく。
「……お水、いる?」
「ああ。ありがとう」
 唇に、皮で出来た小袋のようなものが押し当てられた。その中に満たされていたのは見事にきんきん冷えた冷水で、倒れた時に口の中を切ったのか、口腔内に激痛を覚え、思わず飛び上がりそうになる。だがその刺激によって、今までぼやけるだけだった視界が、急速に開けてきた。
「大丈夫?」
 閉ざされた木戸の隙間から薄く零れた光の中に、黒い髪が舞っていた。掴めば指の合間から零れるその感触は、目を開ければ消えてしまう、夢の残滓(ざんし)によく似ている。
 ようやく焦点のあった視線の先に、すらりと引き締まった四肢があった。象牙色に艶やかな肌。夜の闇よりも、なお黒い色の瞳。この目が濡れた時、そこに映る自分の姿を見つける瞬間が好きだった。
「……」
 綺麗なったものだ。もう誰が見ても、少年と間違うことなどあるまい。蕾がほころび、やがて花が開いて行くように。あの宰相の言葉ではないが、時間さえたてば、きっともっともっと美しくなる。少々じゃじゃ馬だが心根は優しい娘だから、いつか、心から慈しんでくれるような男に巡り合い、幸福に暮らしていくことだろう。
 ――腕の中に捕らえて掴まえた時には、確かに彼1人だけのものだったのに。
 カイは呆然と、目を見開く。
「シナ、どうしてお前がここに」
 ――どうしてお前が、皇都なんかにいるんだ。






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