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風の挽歌

第11章 もつれる糸 2


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「シナ、どうしてお前がここに」
 ――痩(や)せた。
 あの南方の街で、シナが彼に別れを告げてから、おおよそ1ヶ月ばかりの時がたっていた。それを長いと呼ぶべきか、それとも短いと呼ぶべきなのか。――だが、この変わりようはどうしたことだ。
 確かに、もともと線の細い男ではあった。だがそれでもあの頃、肌は若者らしい艶に満ち、着ているものの下には見事に鍛えられた、鋼(はがね)のような筋肉を持っていた。
 しかし今、それらすべてが若さを失い、肌が、唇が、土気色に乾いて乾燥している。白い布地の隙間から覗く胸は不自然に喘いで上下し、そして何よりも――落ち窪んだ双眸(そうぼう)から、刺すように射る青が痛い。
 ――痩せた……んじゃない。やつれたんだ。
「一体、いつから……」
 天井半ばまで積み上げられた藁の下方で、カイは上半身だけを起して、シナを見ていた。街角で倒れていた自分を助けた人間が顔見知りであったことを、彼はどう思っているのだろうか。それを問いかけてみるのが――怖い。
「ああ、着いたのは今朝方……ちょうど陽が昇った頃だ。それからしばらく、この辺をうろうろしていた」
「……」
 ひどく苦いものを噛み砕くような顔をしている。やがて苦笑し、半分近くが空になった水袋を差し出した。
「口の中を切ったらしい。悪かったな、水を無駄にした」
「ううん……」
 渡された皮の袋が、冷水で濡れていた。指と指が触れた刹那、シナは熱いものに触れたように手を引っ込める。そのあまりの不自然さ。咄嗟、目を逸らすしかなかった。
「ここなら、しばらくは人が来ないから。僕は行くから、少し休んでいけばいい」
 逸らした視線の先に、以前より肉が落ち、鋭角に切れ上がった顎の線があった。首筋から鎖骨へ刻まれた深い窪み、毛羽立ったように荒れた肌、瞼にかかるほど伸びきった前髪は、青年の端整な顔立ちに、一種の荒んだ色気のようなものを添えている。
 胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……隣国の王女さまは、随分とお綺麗な方だそうだね」
「は?」
 ぱか、と唇が開く。
「今、タリアの皇宮に、滞在してるんだろ?そう聞いたんだけど……その為に来たんじゃないの?」
「……あの野郎、そういう目的もあったのか」
「へっ?」
「あ、いや、何でもない」
 破顔(はがん)一笑。
「なんだ、やけに態度がよそよそしいと思ったら、お前、妬いていたのか」
「な、何で僕がそんな……」
 ようやくまともに見ることのできたカイの顔は、笑い堪えて震えていた。両の肩がくつくつと震え、やがて堪え切れなくなったらしく、盛大に噴出した。
「そっ、そんなに、笑うことないだろう!」
 この瞬間、シナは1ヶ月間の空白の存在を忘れていた。思わず振り上げた指先を、一回り以上大きな男の手が取る。
 そしてそのまま、強引に引き寄せられた。次いで衣の隙間から差し込まれた指の感触に、背筋を走ったのは、戦慄。
「な、離して!」
 体をひねって抜け出そうとした瞬間、どこかで何かが裂けるような音がした。慌てて動きを止めると、剥き出しになった肩の上を、慣れた仕草で息が這う。同時に背筋をはい上がってきた甘い感覚と、息が出来なくなるくらいに苦しい胸の痛みに、シナは目をつぶってそれらをやり過ごした。
「ちょ、ちょっと、ふざけないでよ。本当に、もう行かないと――」
「本当に嫌なら、突き放せば良いだろう。今の俺なら、お前にだって簡単に振り解ける」
 先刻の笑いが嘘だと思う程、冷たい声だった。それだけを告げ、淡々と無表情に、カイはシナの首筋に顔を埋める。抵抗しようと振り上げた両手は、あっさりとかわされ、虚しく空を掴んだ。
「やっ!」
「……あの男には抱きついても、俺に触れられるのは嫌か」
「何を言って――」
 舞い上がった細かい藁屑を吸い込んで、咳き込んだ。それごとまとめて呼吸を奪われ、頭の奥に靄がかかる。口の中に広がる血の味と共に、思考が抜け落ちそうになる。
 かろうじて全身の力が抜けきる寸前に唇を離され、咄嗟、ありったけの力をこめて、男の胸に両手を突き立てた。
 ――嫌だ。こんな…。
 こんなところで――こんな風に無茶をしたりしたら、それが彼の体力を、余計に奪うことにはならないか。
 だけどそんな、相手の身を思うが為の拒絶が、カイのいう「振り解く」ことになるはずもなくて。
 容易に組み伏せられ、視界が反転した。指と指が絡んで、体に重みがかかる。耳元に感じる吐息。露わにされた肌に移る熱。震える心のどこかで、離れていた間ずっと、この腕を恋しいと感じていた自分を、認めざるを得ない。
 何か言おうと口を開けば、そこを塞がれ、せめて視線を合わせたいと思うのに、すぐにふい、と逸らされる。
「……お願い、やめて」
 彼にとっては意味のないことでも、触れられれば、心が乱れる。この腕に抱かれれば、シナはどうしても、カイをひとりじめしたくなる。
 決して、優しくないわけではない。その優しさに寄りかかることは許してくれなかったけど、1人で立てない時には、何も言わずに手を貸してくれた。だけどシナが差し出す手は、カイは必ず振り払うのだ。これ以上とないくらい、醒めた冷たい眼差しで。
「っ……」
 外部から与えられる熱と、自分自身の内側から押し寄せてくる熱と。2つの熱が作り上げる奔流に呑み込まれながら、結局、この男に奪われた心の半分も、取り戻すことが出来なかったのだな――とシナは思った。



 目覚めた時、羽目板の隙間から射し込む陽光が傾いていた。微かに吹き込む空気は内に温もりを帯びて柔らかい。寒さ厳しい北方の土地に、遅い春の気配が忍び足で近づいている。
「カ……イ?」
 乾燥させ、積み上げられた藁の上。身体の上には、黒い布地が被せられていた。まだ温もりが残った上着に、シナはすっぽりと包まっている。なのに何故、当の本人がいない。
「……」
 壁に背を預け、右足を裸の胸に、もう一方を投げ出すようにして、カイは薄い闇に目を向けていた。気づいてないはずもないのに、こちらを見ようともしない。シナが隣に膝をついて手を取ると、ようやく一言だけ、ぽつりと呟く。
 斜めに射し込む光の下、赤銅色に染まった髪の内側を、一筋の悲痛が駆け抜けた。
「…ごめん」
 絶望的で、荒っぽい抱き方だった。貪るように肌を奪われ、これまでにない程激しく求められ、何度も声を上げ――堪え切れずに、泣いた。
 ――謝らないでよ。
 それは、余計、辛くなる。
「ごめんね。私には、どうしてあげたらいいのかわからない……」
 両手を首に回して、引き寄せる。額にかかった髪をかきあげ、頬を寄せ――シナの戯れを、カイはとがめなかった。細い指先が、規則的に脈打つ左胸の下にたどる。
 ふと、男が顔を上げた。両手で少女の頬を挟み、吐息が混じる程の間近で覗き込んで、濡れた自らの手の甲を見て、怪訝な顔で腕を引く。
「どうして、泣く?」
「カイが、泣かないから」
 指が頬を伝い、それでも拭い切れない雫が顎から滴り、重なり合った肌の隙間を転がり落ちる。次いで漆黒の睫毛の縁に浮かび上がった一滴を、薄い唇が吸い上げた。
「しょっぱくない?」
「甘くはないな」
 くすくすと2種類の笑い声が、ささやかな空間に満ちた。陽の光届かぬ、灯火さえない、薄く優しい闇の中、鼻腔をくすぐる、藁の香と、土の香と。
 寄り添うことで、人はそこに幸福の幻影を見る。走って虹を追う子供のように。水面(みなも)に揺れる泡沫(うたかた)のように。己の内の幻を、相手の瞳の中に映し見る。
「本当に……もう、行かないと」
「……そうか」
 カイの腕に体をもたせかけながら、密かに、シナは周囲を見渡した。
 壊れて傾ぐ支柱。埃を被った農具。積み上げられた藁と、土で塗れた煉瓦たち。一見、ただの納屋――そう見える。だけど彼なら、鍬の先や鉞の刃が、1度も本来の目的の為に用いられたことがないことに、気がつくのではないだろうか。
「おい、行くんだろう?」
「……」
 土気色の顔が、笑む。傍らに落ちていたシャツを引き寄せ、身にまとい、そんな仕草が手探りで。
「その格好でこれ以上ここにいると、明日の朝まで離してやれなくなるけれど、いいのか?」
「――!」
 くつくつ、と肩を抱いている。またからかわれたのだと悟った時には、両手で体を支えるようにして立ち上がっていた。長身が、視界の隅でぐらり、揺れる。
「カイ!」
「……大丈夫だ」
 慌てて衣を整えたシナの手を、強い力で振り払う。開けた途端にた木戸から溢れ出してきた強烈な閃光に目をしばたたかせる、その動きがやや不自然だった。
 ここから出ればまた、行く先は別々だ。シナとカイ、2人の歩む方角は、既に別方向に位置付けられている。
 ――ならば何故、彼らは今ここで出会ったのか。
「……気をつけてね」
「ああ、お前もな」
 飴色に染まった太陽。平屋作りで、連なる煉瓦屋根の上方、鮮烈な照り返しを見せる陽炎(かげろう)の中。東の方角から染み入る夜陰の内を、遠くの喧騒が過ぎていく。
 後ろ髪引かれるように幾度となく立ち止まりながら、しかし結局、一度も振り返ることはなく、細い背が消えて行く。視界の縁から完全に消えるのを待ったカイが口にした言の葉は、無論、シナの耳には届かなかった。だが、もしも間近でそれを聞くことが出来たならば、駆け戻って、彼の肩を支えることもできたのかもしれない。
「シナ、死ぬなよ。俺より先にだけは」


 ――出会いは偶然か、それとも必然だったのか。しかし、この一時の邂逅(かいこう)が、後に、ある1つの結末を呼ぶこととなる。


 山吹色の空が、石造りの家々の頭上を染めていた。見上げれば西の空低く、橙に瞬く強烈な夕焼けが見える。永遠の暗黒へ向かう直前の、一瞬の空白。光が強ければ強いほど、それは人の心の内側に、どれほど強い影を落とすことか。
 待ち合わせ場所の宿屋前に、一人の若者の姿はなかった。
 息を切らして石畳を蹴る少女は、足を緩め、自分より随分と高い位置にある茶色の目を見つめ上げた。
「ティティ。お疲れ」
「ラウル、そっちは終わったの?」
「おう。聞き込んできたぜ」
 それはティティも同様だ。なのに何故、それを報告するべき一人の姿だけが、ここにない。
「カイは?」
「さあな」
 ラウルは苦笑して肩を竦ませた。待ち合わせ時間のすっぽかしなら、カイはこれまでにも何度かやってきた。よんどころない事情があるわけでもなく、忘れていたわけでもなく、ただ純粋にすっぽかすのだから、ほとんど確信犯である。だが少なくとも自分で言い出した約束を容易に破棄する程、腐ってはいないはずだ。
 ――その彼が、待ち合わせに来ていない。
「どこかで行き倒れて……なんて、ないわよね」
「……」
 ずっと寝食を共にしていれば、嫌でも気がつく。本人は少し休めば良くなるのだと言い続けていたが、良くなるどころか日に日に悪くなっているようにしか思えなかった。
「ねえ、本当にお医者に見せなくとも大丈夫なんだと思う?」
「……あいつが何も言わないってことは、俺達が知らなくても良いことだ、ということだ」
 本当にそうだろうか。もしかしたら、酷く重要なことを――決して見失ってはならないことを、自分達は忘れてはいなかったか。
「ティティ」
「……」
「俺達に出来ることはねぇんだ。今までも……これからだってな」
 ラウルの台詞は、憂いを帯びて苦々しい。彼だって何も感じていない筈がない。自分の手の届かぬところで、確実に動いていく運命。それを黙って見せつけられる程、辛いものはないのだから。
 何も出来ない。手を出せない。どんな人でも、持っている手は2つだけ。だが時に、それでは支え切れない程大きなものを、神は人に与え給う。

 どうか、我々の願いを、ハザイ一族のこの深き恨みを、叶えて下され――

 たった一人生き残った細い肩に乗せられた運命は、少女一人で支え切るにはあまりにも重かった。
「……ねえ、ラウル、私達は仲間よね?」
 例えそれが、かりそめのものに過ぎなくとも。
「当たり前だろう」
 ぐしゃぐしゃ、と大きな手が、ティティの頭を撫で上げた。に、と笑って見下ろしてくる顔は、いつも、もうず―っと昔に失った、父や母のそれを思い出させた。ラウルだけじゃない。カイもシナも、ティティの過去にも経歴にも頓着せずに、帰る場所を与えてくれた、優しい人達。
 もっとも、自分よりもずっと長く生きている人間に親に例えられているなどと、とうの本人たちが知ったら目を剥くだろうが。
「待ち合わせに遅れた、あいつが悪いんだ。取りあえず先に行って、飯にしようぜ」
 だけど、今だけ。ちょっとだけ。無くした手を取り戻したような気分になれるから。
 ――もうずっと長い間、私はこの手が欲しかった。
 ティティは小さな手で、差し出された若者の手を、ぎゅ、と握り締めた。


 もつれ、解け、離れ、そして再び絡み合う、人という名前の糸。1本1本が細く儚く――寄り集めて太くしてみても、やはり脆くて、壊れやすい。

 ――この長い長い幾本かの糸の先。物語の終幕は、もう間近まで近づいていた。







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