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風の挽歌

第10章 思いの形


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 煉瓦(れんが)色の空間をすり抜ける風の感触は、まだ、春と呼ぶにはほど遠い。だがそれでも、一日の長さは大分長くなってきた。
 その太陽も、暮れかけてきた冬の午後。顎まで上着に埋もれていた少女は、ふと頭を上げ、前方から近づいてきた男が差し出した手に、自分の小さな手のひらを重ね合わせた。
「――ただいま。ラウル」
「ああ、ティティ。お疲れさん」
 握りしめた小さな手は、そのまま氷嚢(ひょうのう)に使えそうなくらい冷え切っている。一日中、屋外にいたのだから当然か。心苦しさと情けなさと、幾ばくかの腹立たしさを感じながら、ラウルははるか下方にある、黒色の頭を見つめ下ろした。
「で、どうだった?今日の稼ぎは?」



 そもそもが、賞金稼ぎの仕事が少なくなる冬の季節である。
 年も明け、大部温かくなってきたから、野外での野宿が命にかかわることはないといっても、半病人を抱える今の彼らにとって、できるなら避けたい事柄であることには違いない。だが仕事なしで宿生活を続けていられるほどには、現在のラウル達の懐は暖かくないのが現実だ。
 ――自然、大の大人である男2人が、1人の少女の稼ぎをあてにする、という大変面目のない事態になりつつある。
 とはいっても、ティティがそのことで、彼らを蔑んだり、軽蔑したりするような態度を見せることなど一度もなかった。それだけが救いといえば――いえないこともないのかもしれない。
「今日は割とお客さんが来たわ。……ねえ、カイは?」
「叩き寝かしてきた」
 ――はり倒してきた、ともいう。
 そうでもしないと、あからさまに良くない顔色のまま、平気で動き回ろうとするから。町から町へ移動するのに徒歩をやめて馬車を使うのだって、認めさせるまでに、どれだけ骨を折ったことか。
 もっとも、普段のカイはラウルに黙ってはり倒されているような男ではない。他人の指図に従うことが何よりも大嫌い、というたいそう性格のひねくれた若者なのだから。だが、その彼が今日は黙って横になる方を選んだということは、ラウルが思っていた以上に、本人も体が辛かったのかもしれない。
 しかし今、ラウルのこの台詞に、ティティは歩みを止め、意味ありげに呟いた。
「……そう。だったら、ちょうど良いかもしれないわね」
「ティティ?」
「ねえ、ラウル。ラウルは幽霊って、信じる?」



 ――今夜の訪れは、昨夜より少し遅いようだ。
 部屋中の灯りを消し歩いていた女は、その中の1つ、寝台の横に備えてあった銀色の手燭に炎を灯し、窓の外を眺めた。
 月も、星さえも見えない夜。かつてはそんなことはなかったのに、再び彼女の前に姿を現してからというもの、夫は極端なほど、光というものを厭うようになっていた。わずかな灯火、星の瞬きにさえも顔をそむけ、彼女の前から顔を隠す。
 不意に、かたり、と扉が鳴いた。弾かれたように、女は顔を上げる。やつれた頬に、満面ともいえる笑みが浮かぶ。
「あなた……お待ちしておりました」



 ラウルとティティがその屋敷を訪れた時には、既に陽は完全に暮れていた。
 大災厄の前から、貿易でたまさかに儲けていたという商人の自宅は、そうと知らなければ王侯貴族の持ち物かと錯覚してしまいそうな程、広い。すべての葉を落とした庭の木々は藁で囲われ、未だ解かれることのない冬囲いのまま、深い眠りについている。正直、清く正しく25年間一般庶民をやり続けたラウルは、初めはどこが入り口だかわからなかったほどだった。
「大災厄で死んだはずの亡夫が、夜な夜な生き残った妻のもとを訪れるって……そりゃ、完全に怪談じゃねぇか」
「怪談の季節には、まだ相当早いわよね」
 今日の日中、ティティが町で辻占いの真似事をを行っていた時、小耳に挟んだ出来事――であるという。
 町一番の屋敷の奥方が、ここ数ヶ月、病と称して伏せっている。だがその本当の原因は病ではない。大災厄で亡くなった前の夫が、夜ごと彼女の寝所を訪れて、妻の生気を吸い取っているのだ、と。
 どこの町にもよくある、くだらない怪談話の1つとも思われた。だが子供の身ながら占いを生業とし、あちらこちらの町を旅してまわっていたティティは以前にもよく似た同じ話を、聞いた記憶があったのだ。
「あそこが……、幽霊の出るっていう部屋か」
 外側から眺めた窓は厚い布に覆われ、中の様子は窺い知ることはできなかった。まだ大人が眠るには早い時刻だというのに、灯火の揺れる気配すらない。
「……とにかく、一度おうかがいして、幽霊さまのお顔を拝んでみるしかなさそうだな」
 ラウルの言葉に、ティティは黙って頷いた。



「あなた」
 するり、と衣が滑る音がする。吐息と、おさえた、だが確かな息づかいが、闇の中から聞こえてくる。光がないので、影は見えない。だがわずかながら、壁の向こうで誰かが動く気配がする。
 屋敷の主人の了承は、既に得ていた。無論、不法な侵入にはあらたない。ラウルもティティも、得体の知れないものに魅入られ、取り殺されようとしている婦人を助けたいと思ってここにいるのだから、むしろ感謝されたって良いくらいだ。
 だがティティと共に問題の夫人の部屋の前まできて、密かに壁の向こうの気配をうかがった途端、ラウルは思わず、その場で固まってしまった。
「……ティティ。お前はここで引き返した方が」
 自分はまだいい。れっきとした大人だから。だけどこの部屋の内側の様子をうかがい、その意味を知るには、目の前の少女はまだ幼すぎる。
 だがラウルの意志に反して、ティティはまったくひるむということをしなかった。少女小さな手のひらが、扉へと翳される。ぎぎぎ、とかろうじて聞き取れるくらいの鈍い音をたて、暗闇への入り口が開く。
 ――え……?
 瞳が完全に闇に慣れるまで、ほんの少しの時間。その後に自分の目に飛び込んできた、思いもよらぬ者の姿に、ラウルは、再び、別の意味で固まってしまった。



「……ラウル?」
 隣にいた男の突然の変調に、ティティは小さく声をあげ、彼の袖を掴み取った。先ほどまで彼女の手を握っていた、大きな手はぴくりとも動かない。
 すべての灯火を消し去った部屋の中に一筋、橙色の光が灯った。廊下から射し込む蝋燭の炎は、風もないのに時折ゆらめき、そのたびに黒い影色をした部屋の床に、奇妙な陰影が走る。
 寝台の上で、身を横たえている女は、ほとんど動くということがなかった。やせ衰えた指先だけが、時折、思い出したように痙攣している。ラウルが想像したような、艶っぽい情景などどこにもなかった。夜具の上にはただ、病んだ女が1人いるだけである。
 だがその時、不意に、ふわり、と寝台の上方で何かが舞った。女の頬をかすめ、髪をまきとり、天井近くまで舞い上がっては、また落下する。
 白く薄っぺらい、だが人の形をした、紙人形、のようなもの。
 人の体の形をしたその表面には、複雑な文様がびっしりと書き込まれている。文様の表面には光沢があり、白っぽい、だけどどこか影のある光を放って揺れている。
 この世のものならぬ光景。現実と幻の境界線。だがそれを目にした途端、ゆっくりと、ラウルは言った。
「何で……お前がこんなところにいるんだよ」
「え、ちょっと、ラウル?」
 心底慌てた。そして、悔いた。今の今まで、迂闊にもティティは、彼もまた過去に大切な者を――家族や友人を失っているかもしれないという可能性を、すっかり忘れていたのだ。
「――目を覚ましてよ。さっき話したじゃない。これは、人に、自分の見たい者の姿を見せる呪(じゅ)なのよ!」
 この人形は、一部の呪(まじな)い師がよく使う、呪術の依り代だ。
 今からほんの数ヶ月前。大災厄以後、時折訪れる気鬱(きうつ)の病に悩まされていた夫人を見舞った、怪しげな呪い師がいたのだという。
 夫人の気鬱の原因は、かつて、目前で夫を失ったことにあった。彼女の目の前で、崩れ落ちてきた柱の下敷きになって、息絶えたのだ。女の力では、苦しんで弱って行く夫を目の前にして、柱をどかすことも、救い出すこともできなかった。そんな人間が、今のこの国には大勢いる。
 呪い師は言った。夫に会いたいか、と。女は答えた。会いたい。一目でいいから、会って自分の無力を謝りたい――と。
 そうして、女は取り付かれた。呪い師の――いや、自分の心が作り出した幻の夫に。
 紙人形は、女の体から離れ、糸の切れた操り人形のように、揺れながら近づいてきた。表情などないはずの真っ白な顔が、ほんの一瞬、笑ったかのようにさえ見える。
 ――このままではラウルまでもが、幻に心を食われる。
「ラウル、目を覚まして!」
 しかしどんなに揺さぶったところで、ティティの力では、大柄な男の体に衝撃与えることはできなかった。こんな小さな手しか――誰かを守ることも、何かを築くこともできない、こんな手しか持たない、自分自身が歯がゆい。
 だがその次の瞬間、銀色に光る金属の光沢が、わずかの灯火を弾いて橙色に瞬いた。弾かれたように、近づいてきたものの動きが止まる。
「……」
 ティティはこれまで、彼が武器を使うところを見たことがなかった。だからラウルが、充分に依り代を自分に引きつけた後で、上着の裾に隠していた剣を振り抜いたのだと理解するまで、しばらく、時間が必要だった。
 一刀で、それはただの紙切れとなって床に散った。ラウルの袖にすがりついていたままで、ティティは目を見開いて、彼を見る。
「ラウル……?」
「悪いが、こっちには、幻に取り込まれるような隙はねぇんだよ」
 かちゃり、と鞘が鳴る。純粋に剣技の優劣を競えば、あの金髪の青年には負けるのだろう。しかし、見事、としか言いようのない一撃だった。
「……俺には、俺の稼ぎで食わせて行かなきゃならない奴らがいるんだからな」
 不意に、悲鳴が辺りをとどろいた。どん、とはじき飛ばされ、ティティは床に尻餅をついた状態で、今まで自分がいた方角を見つめ上げる。
「人殺し……」
 それまで死体のように動かなかった女が、ラウルの胸にしがみついていた。濃い灰色の髪は薄闇の中に飛び散り、薄い夜着の下に見える両腕は、骸骨を思わせる程細い。
「あの人を返して!――人殺し!」
 何といっても、体格が違う。拳で胸を打っている女より、打たれているラウルの方が、相手に怪我を負わせないように気を遣っている。ふとティティは、この人、家で自分の娘を抱くときも、こんな風に――壊れ物を扱うように優しげに抱き上げるのかしら、と思った。
「返してよ、この人殺し、悪魔!」
 失った、2度と会うことの出来ぬ大切な人。例えそれが、自分の心が作り出した幻に過ぎぬと知っても、それでも本人が望むというのなら、赤の他人に一体なにができるというのだろう。
 打ちたいだけ打たせた後で、ラウルはかがみこんで女の肩を抱いた。人殺し、と叫ぶ女の声は、嗚咽にまみれ、もうはっきりと聞き取ることができない。
「奥さん、あのな」
「……」
「死んだ人間の思い出にしがみついて、それであんたは満足かもしれない。だけどそうしたら、あんたの夫は……そこであんたを待ってる、生きたあんたの夫は、どうすりゃいいんだよ?」
 ラウルが指した先でいつの間にか、1人の初老の男が微笑んでいた。心なしか目の辺りが光って見える。それは、ラウルとティティがこの屋敷に踏み込むことを許可した――彼女の現在の夫の姿であった。
 彼もまた再婚であるという。大災厄で先妻を亡くしていると。だから常軌を逸して行く妻を、強く引き止めることができなかった。それは間違いではあったけど、だけど同時に、彼の優しさでもあったはずだ。
「あな……た」
 のろのろと顔を持ち上げて、彼女は自らの夫を見た。その向こうに透けて見える、何か他の物を必死でつかみ取ろうとしているかのように、真剣に。
「あ……」
 やがて、ふっと、目尻の線が和らいだ。頬に生気が戻り、どこか、泣き笑いの表情になる。ぺたんと幼女のように膝をついたので、生成り色の夜着の裾がふわり、と床の上に広がった。
「……あなた」
 ――これから先も、この2人はこうして寄り添って生きて行くのだろう。正しかったり、間違っていたり、優しかったり、時に傷つけ合ったりしながらも。
「さあ、ティティ。俺たちの仕事は終わった。帰ろうぜ」
 ラウルの声を聞きながら、ティティはこの時、確かに、1人の人間が死者の世界から生者の世界へ引き返してきたのを、見たように感じた。



 すべてが終わり、カイ1人だけが待つ(……待ったりせずに、さっさと寝ている可能性が高いが)、宿屋へと帰る道すがら。空には月が浮いていた。病んだ人間の頬を思い起こさせるような、生気のない、青白い三日月が。
 どう考えても、ティティのような少女が起きている時間はとうに過ぎてしまった。はたから見れば、ラウルは、年端の行かぬ娘を夜遅くまで引っ張り歩いている、悪い父親に見えることだろう。
 ひたひたと忍び寄る夜の冷気に、ラウルが密かに首をすくめかけたとき、ティティが彼に問いかけた。
「ねえ、ラウル。いつから、剣、持っていたの?」
「ああ、あれか」
 ラウルは苦笑する。
「俺はただの薬屋だけど、この商売を続けるなら、剣のひとつくらい、持っていた方がいいかと思ってな。手に入れたんだ。……あの茨の城の件のすぐ後に」
 以前、ティティとは別行動を取った時に。ラウルとカイと――そしてもう1人の少女と。訳あって、ラウルがカイの剣を借りたことがあったのだ。
 危険は互いに承知の上で、それでも他に術がないから、皆が助かるために行った行動であった。だが結果として、その行いは確実にカイの命を危機にさらした。だからその後、自分も、身を守る為の術を持とうと思ったのだ。
 ふと、今度はラウルからティティへ向け問いかける。
「なあ、お前、最初に、この件に関してはカイがいない方が都合がいいって言ったよな。……どうしてだ?」
「だって、今のカイなら、きっとあんな子供だましにだって簡単にひっかかるわ。そう思わない?」
 そうかもしれない。一瞬だけ目を閉じて、まだそこに残る残像をのぞき込みながら、ラウルは思った。
 人が会いたいと願う、だけど実際には会うことの出来ない人間を、現実にそこにあるかのように見せる呪法。そんなもの、ただの子供だましだ。だがそれは、あらかじめそうと知らされていたはずのラウルでさえ、一瞬、取り込まれるかと思ったくらいに鮮明だった。
「……」
 不意に、ラウルの脳裏で、幻の人影が揺らいだ。子供の頃に死んだ祖父が。ラウルが成人する直前に、病で世を去った両親が。大災厄で息絶えた友人が。足下からたれ込めた白い霧の中に、懐かしい人たちの影が次々と現れては消えて行く。変わりに浮かんできたのは、遠く離れた場所で彼を待つ、妻と娘の姿だった。今度家に帰る時は、何をみやげにしよう。

 ――真っ白で、ふわふわしていて、目では定かに見えぬもの。人の心の中でだけ、はっきりと形作られるもの。

 人の思いの形とは、実際のところ、そんなものなのかもしれない。
 だが今、その一欠片を削り取って、暗い闇の中でさ迷っている友に渡してやりたかった。見せてやりたかった。
 ふと、そんなことを、思った。――考えてしまった。






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