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風の挽歌

番外編 祝祭


扉へ/とっぷ


 年に一度の祝祭日。街の目抜き通りには出店や見世物小屋がひしめき合い、道行く人々の呼吸や歓声で、むせ返るほどの熱気を帯びていた。
 玩具をねだる子供を、なだめる母親の声がする。昼日中から酒を飲んだ男の調子の外れた歌声に、それを囃(はや)す声もする。この日ばかりは人々は日頃の憂さを忘れ、ただ陽気にはしゃぎ、騒ぐ。
 だが一歩足を裏に向ければ、そこにはまた、別の顔が見えてくる。掏(す)りに盗みに、恐喝、私娼――祝祭日は同時に、世の中の裏と表を明確に際立たせる一日でもあった。
「――わかってるよなあ、ばあさん」
「俺の財布に触ったんだ。役人に差し出したらどうなると思う」
 背丈の高い若者二人に前後を囲まれては、後ずさることも前に進むこともできなかった。あっという間に路地裏に連れ込まれ、老女はその相貌に、怯えの色を強く張り付かせる。
「たく、とんだ図太いばばあだぜ。この年になってまで巾着擦りかあ?」
 先程もそう言われて、取り上げられた杖でしたたかに腰を殴られた。財布に触ったつもりはない、などとは思っても口には出せない。ただ人に押されてつまづいた拍子に片手が若者の腰の辺りに触れただけ――当の若者達もそんなことは重々承知しているのだ。こういうのを、属に言いがかりという。
「なあ、ばあさん。出すもんだしなって言ってんだよ。どうせ老い先短けえんだ。あんたが持ってたって、墓場の先じゃあ使えまい」
 そうに違いない、ともう一人の男がはやし立てる。しかし、そろそろと懐の財布を差し出した次の瞬間、若者の踵にしたたかに鳩尾を蹴られて、老女は顔面から地面に突っ伏した。
「何だよ、これっぽちの金かよ」
 そもそも祝祭日にわざわざ出歩いていたのも、この日まで支払いを待とうといってくれた気のいい医者へ、なけなしの診察料を払いに出向いた帰りのことだった。支払いを終えた今、財布の中にはわずかばかりの小銭しかない。
 ちりん、と軽やかな音をたてて、財布の中身が地面に転がった。若者の顔に怒気が宿っている。思わず地面に顔を押し伏せると、背中に押し当てられた爪先に力がこもり、ぎり、と身体がきしむ音がした。
 殺される――。夫を亡くし、娘を亡くし、わずかな蓄えを切り崩して生きているこの身が滅んだところで、悲しむものもない。ならばせめて一思いに、彼らのもとに向かおうではないか。半ば本気で覚悟を決めた、その瞬間のことだった。
「ったく、いい年してお年寄りからお金を取ろうなんて、男の風上にも置けやしないね」
 不意に頭上に光が射しこんだ、と思うと同時に、身体を覆う圧迫感がなくなった。飛び起きたくとも、年老いた身体は本人の言うことを聞いてくれない。身体中の痛みに耐えながらそろそろと顔を上げると、といつの間にか、もう一人いたはずの若者の姿が消え、彼女を蹴り上げた男は額から血を流し、のた打ち回って呻いている。
「……」
「おばあさん、大丈夫、怪我はない?」
 思わず瞳をしばたたく。一体何が起こったかわからず戸惑う老女に、快活そうな若い娘が細い腕を差し出し、そう言った。



「――大丈夫?お水飲めます?」
 半ば引きずられるように薄暗い路地裏を抜け出し、広間の噴水の石垣に寄りかかる。娘が差し出してくれた木椀には、冷たい水が満ちていた。ありがたい。喉を鳴らしてそれを飲み干すと、心配げにこちらをのぞきこんでいた若い娘の姿が、これまでよりはっきり見えてきた。
 漆黒の髪を一つにまとめ、簡素な木綿の衣服を身につけている。褐色の肌に黒い瞳は、遊牧の民の生き残りの証だろう。十分器量よしと言ってよい風貌だが、祝祭日だというのに、飾り気などまるでない。
 どくり、と心の臓がざわめく。そんなはずはない。あれはもう二十年近くは前のこと。この娘の年のころは精々二十程度、けれど、これはあまりにも――
 ――似ている。
「え、あ、あの、やっぱり何処か怪我してます?私の働き先、薬屋なんです。ここから近いんで、良かったら――」
 否定の言葉を口にしようとも声にならず、ただ黙って首を振り続ける。だって、この娘の顔立ちは、あまりにも似ているのだ。遠い昔――だが忘れようもない過去の時間の最中(さなか)で、彼女が失ってしまった宝物に。
 気がついた時には、堰が切れたように喋り出していた。遅くにできた一人娘。夫を病で失った後、死に物狂いで育ててきた。幸い十歳をこえるまでは病ひとつ知らず、器量も性格もよい、自慢の娘に育ってくれた。それが。
「まだ十三じゃった。まだたった十三で熱病にかかって一月苦しみぬいて。親を置いて行ってしもうた」
 せめてもう少し金があれば、医者に見せることもよく効く薬を買うこともできただろう。だが女一人の稼ぎではそれもままならず、薄いスープを飲ませて額を冷やしてやる以外、できることなど何もなかった。
 握り締めた皺だらけの拳に、ぱたぱたと雫が散る。初対面の老女の深刻な打ち明け話に、嫌がる素振りすら見せずに聞き入っていた娘は、痛ましげに眉を顰めた。
「……私は十一の年に、両親を亡くしました」
 口許からぽろりと、零れ落ちたような言葉だった。この娘の年齢を考えればそれは恐らく、この国を襲った大地震――大災厄でのことだろう。問いかけに、娘はこくりと頷く。
「はい。父も母も、兄も姉も……一族皆が」
 ならばこの娘はわずか十一で、大災厄後の世の中に、たった一人で取り残されたことになる。
 病に苦しむわが子を見かねて、タリア中の神という神の名を呼んで、この病を自分に移してくれと願った日を思い出す。あの時、満願かなって彼女が死んでいれば、娘はわずか十三で、この世に一人で取り残された。あの時は必死すぎて気がつかなかったけれど、そうなっていればあの子はその後、どんな人生を送っていたのだろう?
「それで……、今はどうなすった?」
 幸せであって欲しい。この娘の今が、幸せなものであって欲しい。半ば祈るようにして紡がれた言葉に、返された応えと微笑は、最高級のものだった。
「――嫁ぎました」
 一人でに顔が綻ぶのが、自分でもよくわかった。たった一人で取り残された娘は伴侶を見つけ、新たな家庭を築いている。あの子もきっとそうだったはずだ。生きてさえいれば家族に囲まれ、きっと笑って毎日を過ごしていたはずだ。
「……おう、そうか。そうか。して、お子は?」
「娘が一人います。今は夫と一緒に――」
「――シナ!」
 低く響いたその声に、娘――否、女は弾かれたように上向いた。見れば眩いばかりの金髪を首の後ろで括った若い男が――遠方からでも、目印になるくらいの長身だった――人の合間を縫うようにして、こちらに向かって駆けて来る。全身が良く見える場所にまで近づいた瞬間、二人の傍らにあった若い娘の集団が、きゃあ、と甲高い声を上げた。
確かにそれも無理もないくらいの、なかなかの男ぶりだった。その腕の中にちょこんと収まった――まるでここは自分の特等席だ、文句あるかと言わんばかりに利発そうな瞳を見開いた――幼子の存在さえなければ、袖引くものもあったかもしれない。抱いて歩くには少々重たくなったわが子を器用に抱きかかえ、しかし青年は迷いなく、自らの妻の傍らに走りよった。
「ったく、はぐれるなって、俺があれほど言ったのを聞いてなかったな、お前」
「ごめん、カイ。ねえ、泣いてなかった?」
 青年の腕に自らの腕を絡め、若い母親は夫の手からわが子を抱き取った。幼子が両手を伸ばして、母親の温もりを確かめている。微笑ましい光景に、思わず傍らにあった背の高い青年の顔を見上げると、あえて不機嫌そうな顔を形作ってはいるが、その瞳には妻子への情愛が満ちている。
 年に一度の祝祭日。この日に願った祈りは、天地創造の神に聞き届けられると言う。ならばこの若夫婦のこの先が、ずっとずっと幸せであるように。かつてあれほど祈った時には、聞き届けられなかったのだけれど。
 何十年かぶりに、神の名を呼びそう祈った。――祈らずに、いられなかった。








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