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風の挽歌

番外編 ささやかな言葉


扉へ/とっぷ




「お帰りなさい」「ありがとう」
 そんな何気ない一言が、何よりも大切に思える時がある。


 ふと空を見上げると、夕暮れの名残火が一筋、遠くの稜線に、橙色の照り返しを残して消えて去るところだった。反対側から忍び寄る夜の気配の向こう側に、無数に輝く星の煌めきがある。
 夕闇と黄昏が同居する一瞬。足を止めて思わず景色に見取れていたカイは、一瞬、襟元を吹き抜けた風の冷たさに、我に帰ったように歩みを早めた。
 西方の州都がある1つの街に、質屋を探しに行った帰りだった。
 魔物を退治し、それによって報奨金を得る賞金稼ぎとして生計をたてるには、厳しい季節である。秋から冬にかけては、魔物の絶対数が少ない。しかもこれまでなら、森中で野宿しても命までは奪われることはなかったが、これから先、今後の健康の為にも野宿は避けたい。
 傍系とはいえこの国の皇家の家系に連なるカイは、宮殿を出奔する時、皇宮の宝玉(ほうぎょく)をいくつか持ち出していた。宿に泊まる金もない現状を打破する為、それらを売りさばきに出かけていたのである。
 しばらく歩くと、周囲を雪と枯れ草に囲まれた小さな空間に、ささやかな山小屋が存在した。壁に空いた空気取りの穴から、暖かな蒸気が漏れる。いささか立て付けの悪い戸板をずらし、カイが上半身を小屋の中に入れた時、その内側から声がした。



「――お帰りなさい」
 その言葉が、あまりにまっとうすぎて、カイは一瞬、返答に詰まった。生まれの複雑さとその後の環境の過酷さで、彼はこのような、当たり前の言葉の呼びかけに慣れていない。思わず後ずさったカイを訝(いぶか)るように、黒髪の少年は冷え切った彼の肩に、手を伸ばすような仕草を見せた。
「思ったより、遅かったね。カイ?どうしたの?」
「あ……あ、ああ」
 ようやく発した彼の声は、恐らく不自然にかすれていたのだろう。首をかしげながら、シナはしげしげとカイを見る。結果を問いかけているのだとわかったカイは、うまくいった、とだけつぶやき、上着を脱いだ。
 カイが皇宮から持ち出したものは、いずれも市井では容易に手に入らないような、高級品ばかりである。当然、売り払えばたいそうな値段になるのだが、この場合、それが本物だと知れて、素性を怪しまれるのは多いにまずい。役人でも呼ばれ騒ぎにでもなれば、せっかく見つけたこの小屋にさえもとどまれず、野宿で夜を明かすことになる。
 したがって、正真正銘の本物を「模造品」と偽って質入れしてくることになるのだが、世慣れた質屋の親父を口先八寸でだまして、本物を(……偽物をではない)を掴ませるのは、さすがにカイもかなりの精神力を要した。
 そんなカイの苦労も知らず、黒い上着の袖を掴んで「うわ、冷たい」などと騒いでいたシナは、動きを止め、今度は何故かひどく不思議そうな顔をして彼を見た。
 小屋の中心の囲炉裏には赤々と炎が灯り、その中でさび色のやかんが、真っ白な蒸気を噴いている。
「夕ご飯は食べたの?」
「それどころじゃなかった。……朝、一番最初に行った質屋で怪しまれて役人を呼ばれかけて、必死で逃げていたんだ」
 今思っても、なかなか目の鋭い親父だった。しかしそれでも街から出ずに、裏の物品を買い取る人間を捜したのは、ひとえに旅に出ようにも旅費がないという、今の彼らの懐事情による。
 カイのこの返答に、シナはまともに目を丸くする。
「え?って、ことはちょっと、もしかして、お昼ご飯も食べてなかったりする?」
「……」
 ――そういえば。
 何しろ田舎でこの外見は目立つ。どうやって役人の目を欺くかばかり考えて、食事のことなど忘れていた。
「信じられない!カイって、どうしていつもそうなわけ?少し待っててよ。今何か用意してくるから!」
 おい、ちょっと待て、という間もなかった。伸ばしかけた彼の指先で、しなやかな山猫を思わせる背中が消えて行く。やがてカイが溜息と共に床にあぐらをかいた時、土間の向こうの竈(かまど)のそばから、何かを切っているらしい、包丁の音がした。



 言葉通りものの10分で、シナはほくほくと湯気をたたえた、盆を抱えて持って現れた。木椀1つと、皿に載った黒いパン。ご丁寧にも切り込みを入れ、暖め直してある。手にとってほおばると、バターの香りが口いっぱいに広がった。
「もう僕は夕ご飯食べちゃったから、たいしたものは残ってなかったんだけど」
 何しろ、今は2人とも、財布の中身はすかすかだ。
「……いや、それほど腹が空いてるっていうわけでも」
 匙(さじ)で一口救って液体を口に入れると、ほのかな塩味が口内に広がり、胃の底のしみいるように温かかった。
 透明なスープの表面には、赤いトマトの角切りと、塩味の強いハムが浮いている。
「美味(うま)いな」
 思わず、言葉がこぼれ落ちる。
 自分で思っていたより、実は空腹であったらしい。あっという間にパンとスープを平らげると、シナは何故か非常に嬉しそうな顔で、まだ食べる?と聞いてきた。頼む、と椀を差し出すと、並々と注いで手渡してくる。
 迂闊に触れたなら、折れてしまいそうなくらいに華奢な手から木椀を受け取り、そういえばこの少年が、実は少女であるということを思い出した。
 シナが賞金稼ぎとして暮らしてきた年数は、実のところカイより長い。シナもカイもお互いのこれまでについて明かすようなことはなかったが、カイに誰にも言えない過去があるように、彼女にもまた、彼女にしかわからない、彼女だけの思いがあるのだろう。
 しかし今、少女は目の縁を緩め、にこにこと微笑みながらカイを見ていた。そんなに見られていると、正直言って食べにくい。素直にそう告げると、シナは少し慌てた後で、照れくさそうな顔をして、指と指を組み合わせた。
「あ、ごめんね。だけど、何かいいな、と思って。こういうの」
 何が?と問いかけかけようとして、カイは言葉を呑んだ。不意に、ごく自然に、本当にただ胸奥からわき起こるようにして、ひとつの言葉が脳裏に浮かんだからだった。
 ――作り物ではなくて。誰かに聞かせて、望む結果を得るためでもなくて。
 ただひとこと、その言葉だけを目の前の少女に伝えたくて、カイは椀を床に置いた。
「……ごちそうさま」



「お帰りなさい」「ごちそうさま」
 そんな何気ない一言が、何よりも大切に思える時がある。
 そこにいる誰かに聞いて欲しいと願うとき、それはきっと今までより、ずっと意味があるものへと変わる。
 ――言葉はきっと、その為にだけある。







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