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風の挽歌

番外編 駆ける虹


扉へ/とっぷ




 ――うちに来ないか。嫁も子供もいるし、決して広い家じゃないけどな。
 ようやく自宅に辿りついた時には、既に3度目の夜がやってきていた。浮かぶ月は死にかけた人間の頬のように真っ白で、暮れなごむ空の藍色の彼方に一筋、夕暮れの名残が顔を出している。
 その色を目にした途端、隣にいた人物の背中が、ふるり、と震えたのがわかった。思わず目の焦点があっているかを確かめてしまいそうな、あまりにも性質の良くない震え方だ。懐かしき我が家の戸に手をかけ、ラウルは大声を張り上げた。
「――ユウナ、おい、いるんだろう、早く来てくれ」
「ラウル?!良かった。無事で――」
 妻の髪は、ほとんど黒に近い色をしている。光の加減でかろうじて茶色に見える程度なので、これでもし瞳も黒かったなら、遊牧の民と間違えられることも多かったろう。だが彼女の瞳は碧(みどり)色をしていた。まるで、深い深い森の奥に置き捨てられた宝石のような。見る者を捕らえ、帰り道を惑わす樹海の色。
 ばたばたと玄関まで夫を迎えに出た妻の目には、帰宅した夫を迎える安堵と、次いで、ほんのわずか、怪訝そうな表情が浮かんでいた。ひゅっと息を吸い込み何かを言いかて、自らの指を噛んでそれを堪える。これは、何か言いたいことを飲み込むときの彼女の癖だった。
「ラウル、ねえ、その娘(こ)は……」
「話は後でする。取りあえず、こいつに飯と着替えをやってくれないか」
 こいつ、と言われて袖を掴まれた少女は、ラウルの動きに何ら抵抗さえ見せずに、素直に前方へと押し出された。
 ――今、妻が何を飲み込んだのか。まず間違いなく、当てることができるな、と思った。
 皇都から逃げ出す人々の群れに混ざって、城門を出たのか皇宮崩壊の直後。方角が同じ幌馬車に便乗させてもらって2日と半日。その間、話しかければ返事もするし、水も食事も口にした。
 だが、それだけだった。
 自らの肩を抱き、何もない空間だけをひた、と見据える娘の目の動きは、穴蔵に潜り込み嵐が去るのを待つ獣の仕草に似ている。ただ1つ違うことがあるとすれば、彼女はその嵐が止むことがないことを知ってしまったということだけなのだ。
 ――この無表情。
 硝子(がらす)で出来た作り物の花だ。雨にも風にも散らないくせに、ある日突然、ばりばりと噛み砕かれる。
 息を呑み、少女の顔をみつめた妻の目にも、彼と同じものが映っている筈だった。いや、ラウルよりもっとよく見えていることだろう。鏡を見ているようによくわかるはずだ。
 彼女もかつて、この娘とまったく同じ顔をしていた時があったのだから。
「あたしはユウナ、この人の妻よ。あなたの、名前は?」
 少女の返答はない。闇色の瞳が映すのは、悪夢か絶望か。まるで声を失ったかのように渇いた呼吸を繰り返すシナの腕に、ラウルの妻が腕を絡める。
「……さあ。いらっしゃい」
 ――これがあの勝ち気な娘の姿だとは。
 これまで、賞金稼ぎとしてどのような危機的状況に立とうとも、シナが自らを失う、ということはなかったように思う。自分の身体の優に倍以上はある魔物に、何ら臆することなく向かって行く少女の姿は、ラウルの目から見ても、正直、かなり壮観だった。
 そして同時に、あの若者が焦がる程に求めたのもまた、彼女の中にあった凛として揺るがない強さだったに違いない。
 ――たった1人を失っただけで、壊れる。人の心とは、これほどもろく儚いものか。
 それでもあまりに痛々しくて、半ば持てあましていた存在を、誰よりも信頼できる相手の腕にゆだねることが出来た安堵に、ラウルはようやく息を吐いた。



 時と季節は巡り巡る。生き行くものと、消え去るものと。そしてその狭間に置き去りにされた者の上を、時の流れは等しく通り過ぎる。
 過ぎ去る時と癒えない傷跡を抱え、生きていかねばならぬ者と。己のすべてを投げ打って、その運命を散らした者と。時間の流れはすべてにおいて、平等に残酷だ。
 しかしまた、時の流れをを紡ぐのは、その中を生きる人間達でもある。
 進む他に、道はないのないのだ。巡り流れる時間の中を。彷徨いながら。永遠に。


 
「……南方へ帰るって?」
 思わず、ラウルはまじまじと見慣れた娘の顔を眺めた。しげしげと見つめるラウルの視線の先で、シナは唇の端だけを強引に持ち上げるようにして、微笑んでいた。
 それは彼女が愛した男の笑い方だった。共に過ごした日々の中で、彼がどんな気持ちでその笑みを浮かべていたのか。今となってはもう、誰にもわからない。
「それで、暮らしていけるのか?」
「同族だし、受け入れてくれるとは思うんだ。ラウルとユウナさんには……本当にお世話になりました」
 ぺこり、と頭を下げたシナの動きに合わせて、首の後で1つに結われた黒髪がゆらりと揺れた。
「何も出来ずにお世話にだけなって、本当に申し訳ないと思ってます。……ありがとう」
「そんなこと言わないの。家のことも仕事も、充分に手伝ってもらったじゃない。淋しくなるくわいだわ」
「でも、同族が迎えてくれるのなら、シナにとってもその方がいいだろう。このままここにいても――」
 彼女にとって、辛いだけに終わった恋。叫んでも叫んでも届くことのなかった声。その痛みやわらげることの出来る場所は、すべてを知り尽くし、嫌が上でも結末を思い出させずにはいられない仲間よりも、何も知らない、自分と同じ血の流れる人々の中なのかもしれない。
「ラウル。おかわりはいる?」
 テーブルの上に黒いパンとトマトのスープ。薄切りのハムと取れたての春野菜が並ぶ。ラウルの木椀になみなみと赤い液体を注いだ後で、ユウナは少女に向け、ラウルでさえ最近では見たことの無いような、深く慈しむような視線を向けた。
「シナちゃんは?」
「いえ、わたしはもう……」
 黒いパンにごく薄くバターを塗って、シナは申し訳程度に食事を口に運んでいた――筈だった。この数ヶ月、ほとんど小鳥程度しか口にしないので、ただでさえ細い身体が、更に痩せてしまった。
「食べてもらえると助かるのよね。これがなくならないと、お鍋が洗えなくて。リザは、もっといる?」
 いる、と答えた夫妻の一子は、満面の笑みを浮かべて匙を口に運んだ。
 何一つ憂うことのない、平和な食卓。しかし彼らがこうして食卓を囲むまでに、乗り越えなければならなかった障壁は多い。
 唐突に、がたり、と椅子が鳴った。ラウルとユウナ、そしてリザが見つめる先で、シナは口元を手で覆い、その場から立ち去ろうともがいているかのように見えた。
 駆け出しかけて走ることができずに、結局その場に崩れ落ちた細い背中が、襲いかかる苦痛の波に揺れる。おぼれかけた人間が救いを求めるかのように、シナは椅子の背もたれにすがりつく。
「シナ?!」
「っ……」
 腰を折って床にうずくまり、苦しそうに口許を覆っている。何度呻いても、空っぽに近い胃の中には吐き出すものなどあるはずもない。瞳と同じ闇色の睫毛から、大粒の涙がぽろりぽろりと転がり落ちて地面を散った。
「――おい、シナ。大丈夫か」
 たくし上げ、折り返した袖の端が、汚れている。拳で額を拭い、娘はさらに苦しそうに身体を折る。良くない種類の汗で頬が濡れ、象牙色の肌が光って見えた。
「…ご、ごめんなさい。最近ずっと、胃の調子がおかしくて」
「ずっと?」
 立ち上がったユウナが、黒髪の娘の隣に膝を折る。呻き続ける細い背を抱き寄せ、さすってやりながら、さらに険しい顔で眉を寄せる。
「あなた、もしかして」
「ユウナ?」
「月の障(さわ)りは?ちゃんときている?」
 漆黒よりなお黒い色の瞳が、これでもか、というくらいに見開かれる。新たに浮かんだ涙が、下睫毛の端にぶら下がって、ぐらりと、揺れる。呆けたように空いた口の中の皮膚が、血の気を失い真っ白になっていることまで、見て取れた。
 そうしてその表情のまま、シナはのろのろと両手を自身の下腹辺りに持ち上げた。
「……マジかよ」
 ラウルの手から、黒いパンがぽろりと、床に転がり落ちた。



 夫妻の住む家は、皇都から西方に馬車で二日程行った、村の中にある。
 もともとは、亡くなった、妻の両親のものだった。大工だった義父が自分で建てた家。天井に梁を巡らし、テーブルに椅子、寝台と机だって自前だ。作りがいいから、大災厄だって無事にやり過ごした。将来娘が子供を生んだ時の為に、子供部屋だって用意してあるんだぞ――結婚の許しを得に始めてこの家を訪れた時、義父の自慢話に、思わずラウルは笑ってしまったものだった。
しがない薬師あがりの賞金稼ぎには、勿体ない程の家。だがそのことになると、ここ数年、夫婦はいつも言い争ってきた。
 売りましょう、と妻は言う。この家を売ればまとまったお金が出来るわ。あなたはちゃんと資格のある薬師なんだもの。街に出て小さな店を開けばいい。その為だったら、亡くなったあたしの両親だって否とは言わないわよ。
 だがしかし、と夫は躊躇(ためら)う。この家があれば、妻は住む場所にだけは困らない。例え彼の身に何があろうと、ここで暮らすことは出来る。彼女から、帰る家を奪っていいのか。この何の甲斐性もない夫が、彼女の居場所を奪うようなことをしていいわけがない。
「あなた」
 夜も更けた我が家の居間で1人、琥珀色の液体を手に、ごんやりと天井を見上げる夫。入ってきた妻は父親手製の背もたれつきの椅子に腰をかけ、テーブルの上に腕を置いた。
「あたしも、飲んでいい?」
「ああ。リザは?」
「今日は、シナちゃんと一緒に寝るって。彼女が、ここを出ていくって話をしていたこと、あの子にもわかったみたい」
「あ、あのな、ユウナ。昼間の話なんだが、本当に――」
「ラウル。わかっているとは思うけど、あの娘、もう充分<女>よ」
 ――そうだったな。
 数ヶ月前に世を去った友に、ラウルは心の内で語りかける。お前が女にしたんだろうが。なのに、そんな場所で何をやってるんだ。早く出てきて、責任を取ってやれ。
「まあ、本人が一番良くわかっているでしょうけど、必要なら明日、街まで連れていって調べてくるわ。村の産婆(ばば)さまでも教えて下さるけど、はっきりとわかった方が良いのでしょう?」
「そうだな。…ありがとう」
 ふと、言葉を切る。
「ユウナ、色々済まないな」
 本心だった。
 想う男に目の前で死なれ、心を壊してしまった少女を、ラウルはどうしても、放っておくことが出来なかった。そして、ばらばらに砕け散ったシナを拾い集めて連れて行く先を、彼は自分自身の家以外には思いつかなかったのだった。
 初めに説明すると言いながら、この数ヶ月、自分が連れてきた少女とその周辺――要するにあの金髪の青年について――の出来事を、まだ妻には話していなかった。ラウル自身がまだすべてに折り合いをつけていない所為でもあったし、そして何よりも、口にした途端に、すべてが嘘に――いや、本当になってしまいそうで、怖かったからなのかもしれない。
 そんな夫に何も問わず、ユウナは黙ってシナの世話をやいてくれた。
 だが、本当にあの娘が恋仲にあった青年の子を身ごもっているのならば、それは、とてもラウル1人には手に負えない。今まではただ、行き場を失った少女を養ってやるだけで済んだ。だけどこれからは、ただの身重の女を預かるのとは訳が違う。
 ――皇位継承権を持つ一人の青年と、大災厄を生き残った遊牧民の娘の恋。彼らの得た結末は、結局、悲恋にしかならなかった。
 すべて語り終えた後、妻は酷く複雑な顔でこちらを見た。魅入られた者を捕らえて離さない、どこまでも澄んだ碧の目に、何ともいえない曇りが浮いている。
 ――思い出しているのだ、そう思った。
 だが次いで彼女の口から飛び出たものは、ラウルの想像もしていなかったな台詞で。
「……あなたは、優しいものね」
「え?」
 真正面から向き合った状態で、妻は得体の知れない笑みを顔に浮かべていた。足掛け6年に及ぶ結婚生活の中で、ラウルが一度も見たことのないような顔だ。女は魔性のもの。そう聞いてはいたって、<妻>という存在の女の中に不気味さを感じることなんて、絶対にないと思っていたのに。
 不意に悪寒を感じて腰を浮かせ――次いで紡がれたユウナの台詞に、その体勢のままで固まってしまった。
「だから、お腹に子を宿したまま、1人取り残された女を、放って置くことなんてできないのよね」
「ユウナ!」
 がたん、と椅子が鳴る。
「リザは、俺の子だ。俺と……お前の子だ」
 思わず声を張り上げたラウルの姿に、妻はぱっと顔を覆った。自分が口にしたことをわかっていなかったとでもいうのだろうか。そろそろと手をのかした時、現れた顔は蒼白で。子供を1人生み、母親らしくふっくらとしてきた上体が、小刻み震えて揺れている。
「…ごめんなさい」
「ユウナ」
「ごめんなさい。少し頭を冷やしてくるわ」
 去って行く背中は、間違いなく、長い月日を馴染みあった妻のものだ。抱き寄せれば、いつも、当たり前のように腕に収まる。だけどそれが今、まったく別のもののように思われて、ラウルはこの時どうしても、手を伸ばすことが出来なかった。



 ――リザは俺の子だ。
 その言葉は真実であり、そしてまた同時に、真実ではなかった。
「あなた…」
 女は、心の中にかつての恋人の面影を追い求める。「あなた」と呼びかける相手が入れ替わってからの月日は、実際に彼と過ごした日々よりなお長い。思い出の中に押し込めた相手の顔は、取り出すとき、いつも小刻みにぶれて歪んで見えた。
 ――結婚して欲しい。お腹の子供は、俺の子として一緒に育てよう。
 平穏に過ぎ去るはずだった一日。崩れ落ちた瓦礫とその合間で燃え盛る炎。すべてが壊れ、崩れ去ったあの日、ユウナの恋人はその中へと呑み込まれ、そして二度と帰っては来られなかった。
 ラウルは彼らの、共通の友人だった。 事情をすべて知った上で、ラウルはユウナに求婚してくれたのだ。
 失われた命と、新たに生まれた命と。大災厄によって運命を狂わされたのは、ユウナだけではない。だけどこれが自分が選んだ道だ。悔やんだことはない。自分はこの人と生きるのだと、家族を作るのだと、そう心に決めた筈だったのに。
「……何を馬鹿なことを」
 ふとユウナが見上げた先に、無数の光が浮いていた。幼児の拳大の白光の群れ。河辺に咲く光の花。――蛍だ。
 皇都を襲った天変地異の名残なのか。この辺りに蛍が舞う季節にはまだ早い。なのに最近では夜になると、道に迷った何匹かが、家の庭にまで現れる。
 蛍は人の魂が具現したものであるという。亡くなってなお、世に未練を持つ者の、救われぬ魂が。
「……?」
 無意識に、河の方角へ耳をそばだてていたらしい。河辺を流れる水の音に、微かに異質なものが混じっていた。嗚咽のような――流れをどこかで堰きとめているような。
 その流れの内側に、細く長い影が射していた。少しずつだが確実に、流れとは逆の方向へ進んで行く。肩の辺りで1つに結わえた、黒い髪。ユウナにとっては見なれた、自分の服。――そう、あの娘は自分の着替えを持っていなかった。
咄嗟、駆け出していた。
「――シナちゃん!」
 ユウナの声に、シナは反応を返さない。
 水はまだ、春を迎えてはいないようだった。靴も脱がずに飛び込んだ河の水は、触れた途端、一瞬、身震いが出るほど冷たい。小柄な身体を掴んで、強引に岸辺に引き上げても、暫くは息を整えるだけで精一杯で。
 はあはあと息遣いだけが、夜の河原に木霊する。
「お、お腹に子供がいるかもしれないって時に、何をやってるの?!こんな風に身体を冷やしたりしたら、どうなるか――」
 少女は返答をよこさない。大粒の雫が、髪を、頬を伝って、そのまま垂直に落下する。
「……あなた、まさか」
 ――承知で、子を流すつもりだったのか。
 言外にそれを含ませた沈黙に、シナはゆるゆると首を振った。あまりに長く振っているので、濡れた黒髪が頬にはりつき、そこを涙が伝って、いささか道化じみた顔になってきた。螺子(ねじ)の壊れた道化人形。正気と狂気の境をぶんぶん。
「ち、違っ」
「なら、どうして?!」
「だけど、あ、赤ちゃんが…生まれたら、わ、私、南にいられない」
 彼女の恋人は、皇家の血を引く青年であったと聞いている。上流階級そのものの金髪と碧眼の、そんな男の種を宿していると知れたなら、確かに彼女の一族は黙っていまい。
 また新たな涙が浮かび上がって、象牙色の頬を汚した。次から次へ、新たな雫が浮かび出してきて、留まることも、拭われることもなくぽたぽたと岩肌に染み入っていく。しゃくりあげながら違う、違う、と訴え続ける少女の唇がみるみるうちに歪んで、ほとんと悲鳴に近い声が迸り出た。
「……赤ちゃんだけ、殺したりなんてできない」
「シナちゃん」
「だけど、し……知られたら、きっと取られちゃう。カイの子供がいるって知れたら、きっと赤ちゃん、皇宮に連れていかれちゃう」
「シナちゃん、落ちつきなさい」
「わ、私の子供なのに、きっと、連れていかれちゃうっ……!」
皇家にとってたった1人の後継者であった若者が、遊牧民の娘を連れ歩いていたことを、皇宮でも一部の人間は知っていた。もしもその娘が身ごもっていると知れたなら――。夫はそう言って、暫し頭を抱えていた。
 不意に、彼女が訴えたい言の葉が、わかったと思った。根拠も理由もないけど、確かにわかったと思った。
「だ、だから……」
 だから。
 ――赤ちゃんと一緒に、死のうと思ったの。
「ユウナさん…?」
気がついた時には、抱きしめていた。細い身体は全身がずぶ濡れで、黒い髪からも、無数の水滴が滴っている。彼女がゆらゆら身体を揺らすので、水滴は下方だけでなく、横にも上方にも弾けて飛んでいく。
 ――この娘は昔のあたしだ。婚約者に死なれ、お腹に子供を抱えて途方にくれていた、昔のあたし。あたしにはラウルがいてくれたけど、この娘には誰もいなかった。
 この黒髪の少女は、本当に寂しいのだと思った。
「ユウナ……さん」
 シナの両腕が、肩に縋ってくる。夜中に、夢で怯えた時のリザの顔に似ていた。この娘を「女」だと言ったのはユウナ自身であるはずなのに、何だかとても小さな女の子のように思えてきた。
 しかし彼女は子供ではない。子供ではないからこそ、誰かを愛することも出来たし、その結果を身体に宿すことも出来た。
 これでもしも。これでもしも――相手の青年がもう少し誠実でさえあったなら。少なくとも、彼女を置き去りにして世を去ることがないくらい、誠実だったなら。もしかしたら違った結末もあったのかもしれない。今頃前を向いて笑っていることだって出来たのかもしれない。
 虚しい想像と知りながら、そう思った。彼女の為に、そう思った。
「……わたし、言ってない」
「うん」
「あの人に、言ってない。赤ちゃんがいるんだよって。あなたの子供がいるよって」
「そう……」
「大好きだよって…、愛してるって」
 ――伝えていない。
 後はもう、言葉にはならないようだった。止むことなく続いていく少女の嗚咽を、ユウナは黙って抱き止めた。
 母のように。昔の自分を抱くように。



 盛夏。――まさしく、夏の盛り。
 むせかえるような緑の匂いの中を、強烈な夏の陽射が過ぎていく。裏庭で、水飛沫を上げてはしゃぎまわる子供達の喚声に、即席の虹が橋をかけている。
「暑い…。まったく、真夏に子供なんか産むもんじゃないわよね」
 はちきれそうな腹を抱え、うんうん唸る女の額から、大粒の汗が滴った。机に開いた帳簿の上にぽたぽたと散って、淡い染みを残して消えて行く。
 夫婦で――時にリザと少女も加え、何日も頭をつき合わせて話し合った。あまり南に行くと治安が悪い。かといって、北方過ぎると皇都が近い。散々悩んだ末に選んだ東方の国境の街、夫妻の店は開店から、信じられないくらい忙しかった。ひとえに賞金稼ぎ時代にラウルが掴んでいた客層が良かったことに所以する。
 だが、欠点はあった。
 盆地にあたる所為か、夏が非常に暑いのだ。北部生まれのユウナにこの地の夏は、何度経験してもかなりこたえた。おまけに今年は――
「予定日は来週でしたよね。もう少しの辛抱ですよ」
「あたし、この子生んだら、思いっきり水浴びするんだから」
 伸び上がって薬瓶の整理をしていた娘が、振りかえって微笑んだ。
「お腹が大きいと、身体洗えないんですよね。わかります。そうだ。ラウルに手伝って貰ったらどうです?」
「――そういえば、シナちゃん、お宅の旦那さんは?また仕事?」
 若い女は、ほのかに頬を染める。共に暮らしだしてもう大分たつのに、まだ夫婦と呼ばれることに慣れないらしい。
「西方に物売りに行く隊商が、腕のたつ護衛を求めてるって。最近どこも治安が悪いから。その方が仕事になるって、あの人は張り切ってるけど」
 ――彼女の恋人は帰ってきた。
 死んだと思われていた恋人の後を追い、彼女が自らも死を選びかけたことを、ユウナは誰にも話していない。これからも話すことはないだろう。
 帰ってきた恋人と、互いの子を育むことが出来たこの娘。父親になろうと言ってくれた人と、家族を作った自分。
 不意に、びー、とか、わーとか、どたどた、とか。随分騒がしい音がした。次いでしゃくり上げるような声と、何事かをわめく2つの声。ばしゃばしゃと、何かをひっくり返す音。
 若い母親達は、顔を見合わせる。
 ――もしも違う道を歩んでいたら。もしもあの時大災厄が来なかったなら。今頃私はどうしていただろう?
 それは考えても仕方のないことだ。少なくとも、この世で、母親という生き物だけは。
 だって毎日、そんなことを考えている暇がない。
「――お母さんっ!お母さん、ちょっと来て!」
「……はいはい、今行くわよ」
 大きなお腹を抱えて立ち上がったユウナの目の端で、子供達が作った、虹の橋が揺れている。







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