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暁の彼方〜第九章 邂逅〜




 自分の力で寝床を抜け出すまでには、それからさらに5日近い月日が必要だった。
 脇腹の傷は熱を持ち、身体中にある打ち身の痕はいまなお、鈍い痛みとなって眠りを妨げる。とはいえ、元来が一晩中森で過ごしても、風邪ひとつひかない健康な身体だ。傷口が膿んだりでもりしない限りは、とりあえず命に別状はないだろう。半ば意識が混濁していた間の出来事とはいえ、無茶をしたあげくに助けてくれた人間に、やつ当たりに近い当たりかたをしたことについては――穴があったら入りたい。
「――頼みがある」
 寝台に半身を起こしたルーカスの言葉に、黒髪の若者は訝しげに首を傾げた。無理もない。差し出されたのは、黄ばんだ上にしわだらけになったわら半紙で、しかもその裏には、どこぞの街に出たという、盗賊の人相書きなどが描かれている。
 役所や大商人の館ならともかく、一般の民において紙は貴重品なのだ。ルーカスは無論、読み書き両方をこなすが、王都の民でさえ、書けるのは自分の名前だけという人間の方が数が多い。
「これを……王城へ、衛兵の誰かに渡して欲しい」
 王家の紋章も、御璽(ぎょじ)はおろか宰相の印もない。ただ反古(ほご)紙に書き連ねただけのこんなものが、どこまで効力を発揮するかはわからなかった。第一、王宮で宰相ルーカスの負傷や消息不明についてどれほどのことが知られているのかさえ、街の噂からは定かでない。
 これを受け取った誰かが、宛先にある近衛騎士隊長グレイに手渡すか。あるいは反黒宰相と目されている誰かの元へと差し出すか。
 もしくは、自身の意思で握りつぶすか。
 しかしこのたった一枚の紙切れこそが、<黒宰相>の――ひいてはグリジア王国そのものの、命運を担う一手となるはずだった。
 

 
 うつらうつらしながら、誰かが歌う声を聞いていた。
 例えるなら、花弁を浮かべて渦を巻き、散っては消えて行く水の声。若葉が茂る小枝で、羽を休める鳥たちのさえずり。冬を飛び越え一足先に春がやってきたようで、瞼の裏側にまで、ひどく温かなものが染入ってくる。
 そろそろと天幕から地面におり立って、ルーカスは眠りについた時には高いところにあったはずの太陽が、既に沈み始めていることに気がついた。
「起きても大丈夫?」
 薪の傍で何かを煮炊きしていたらしい、少女が振り返って微笑む。
「……おかげさまで」
 本当に、そうとしか言いようがない。王家の森は禁忌の森だ。常人は決して足を踏み入れない。動かぬ体で森を抜けようとした判断自体は間違ってはいなかっただろうが、あのまま放っておかれたら、今頃間違いなく、この体は冷たくなっていたに違いない。
「もう少ししたら晩ご飯を持っていこうと思ってたんだけど、起きられるんなら、ここで食べる?」
「――ありがとう」
 傷をかばって慎重に腰を下ろしながら、ごく素朴に、感謝の言葉が口をついて出た。
 座長と呼ばれる老女はただ一度顔を見せただけ、あとは踊り子だという少女が1人と軽業師の女が1人、それに蛇使いの青年が1人だけのごく小さな世帯だ。夜には街に出て舞台をはって日銭を稼いでいるようだが、食べて寝ているだけの怪我人をただで養うような余裕はないだろう。
「お礼なんていいわよ。ここの人たちって、みんな訳ありだから。怪我人とか行き倒れた人には優しいの」
「……訳あり?」
「わたしは、前の王様が倒れた時の戦で父さんと母さんが死んじゃって、人買に売られそうになったところをここの座長に買われたの。ダワは前はもっと大きな劇団にいたんだけど、そこの座長が代替わった時に、西の民なんか雇えないって言われて追い出されたんですって。オウカは――」
「……」
「戦でなくなった人を探しに……どうしても遺体を見つけて葬りたい人がいて、故郷を出てきたんだって言ってた。あとはもうちょっと前まで、他にも踊り子の娘がいたんだけど、その娘もあなたと同じように、行き倒れてたところを座長に拾われたのよ」
 瞼の裏で炎が踊る。久方振りに見るその色彩は鮮やかに赤く、そして胸苦しいくらい、切ない色合いをしていた。
 ぐるり、と周囲を見渡しても、そこは人の気配がない。座長の女はともかくも、後の2人はどこにいったのだろう。眉を寄せたルーカスの耳元に顔を近づけ、少女が意味ありげに微笑んだ。
「……オウカとダワってね。恋仲なの」
「は?」
「最初はね、ダワが1人でお熱だったの。だけどだんだんオウカもその気になってきて――最近、夜になると2人でいなくなるのよ」
 そんなわけがあるか。あの女は許婚(いいなずけ)を俺に殺されて、と言いかけて、その一件からすでに5年以上の月日が流れていることに思い至る。5年という年月は、恋人を失った女がまた新たな縁を見つけるには、充分すぎる月日なのかもしれない。
 不意に夢の中で見た、若い男女の姿を思い出した。
 笑い合い、親しみ合い、どうみても恋仲にしか見えなかった2人の男女。あの時はただの幻だとしか思えなかったが、今にして思えば――
 ――あれは……現実か?
 黒い髪と瞳は西の民の証。かつて黒宰相に許婚を殺された女が新たに得た恋人が、皮肉にも、仇と同じ色の髪と瞳を持っていたのだとしたら。
 ――人はね。きっと憎み続けることにも飽きる生き物なのよ。
 恨んでいないわけではない。許しているわけでもない。だけど今はもう、是が非でも殺してやりたいほどには憎くない。
 季節が移ろい、あれほど生い茂った木々の茂みに、今は一枚の木の葉も見つからないように。冬になればすべてが凍てつくグリジアの水の流れが、薄氷(うすらい)の下、それでも途絶えることなく続いて行くように。
 ――人の心も同じように、変わってゆくものなのか。
 今はもう、痛まないはずの左の頬に疼きが走った。あの時は、あの娘がどうして激怒しているのかがわからなかった。けれども、彼女もそうだったのだろうか。黒宰相を憎んで、恨んで、憎み続けることにさえ飽いたのか。ところが当の相手がそれをまったく理解していないものだから、あれほどまでに腹を立てていたのか。
 切実に問いかけてみたかった。彼女の顔を見て、彼女の声で聞かせて欲しい。その怒りを、憎しみを。他の誰でもない、彼女自身の言葉でぶつけてくれたなら。
 そして、何よりも――
 ――テラ、お前は俺が、生きたい、と願うことを許してくれるだろうか。
 声にならない問いかけに、無論、応(いら)えはない。ただ深々(しんしん)と夜は更ける。



 襲撃があったのは、月の翳(かげ)った、深夜と呼べる頃合のことだった。
 天幕の褥で休んでいたルーカスはあるかなきか、ごくささやかな物音を感じて目を開いた。傷の痛みや発熱は多少和らいでいるものの――いや、だからこそ、慣れぬ場所での眠りは浅い。――それが、幸いした。
 ルーカスが身を起こすと同時に、狂ったように馬が嘶いた。わずかばかりの衣擦れの音を残して、入り口に付近に垂れかけてあった布が斜めに引き裂かれる。鋭い刃の切っ先が、あるかなきかの光源に弾かれ、きらりと光る。
 一筋の月の明かりにも似た白光と、黒い影。既に寝台を出ていたルーカスは影にむかい、体ごとぶつかるようにして倒れこんだ。
 まさか自分が襲い掛かるべき当の相手から、こんな形の接近を受けることになるとは思わなかったのだろう。仰向けになって倒れこんだ襲撃者よりも、意識してそう振舞った若者の方が、わずかに立ち上がりが早かった。破れ下がった布をむしりとり、外の世界へ転がり出る。耐えることなく燃やされ続ける篝火(かがりび)の赤が目に痛いほどだった。
「え、何?何があったの――」
 騒ぎを聞きつけた一座の芸人達が、各々の天幕から姿を現す。そのうちの1人、リディスと名乗った少女の背後に、物言わぬ影が忍び寄って行くのを見て、ルーカスは声を張り上げた。
「伏せろ!」
 銀の龍が夜を駆けた。首筋を短刀に射抜かれ、大地に倒れ付した男の手には刃が握られていた。
 ――何故、こんな。
 瞼の裏が赤い色で染まる。どうして何の変哲もない小さな旅芸人の一座が、こんな形で襲撃を受けねばらない。
 ざわり、と背後で枝が鳴く。一座の野営地は王家の森にほど近く、篝火(かかりび)を焚いても周囲には闇が残る。1人や2人という人数ではなかった。篝火の外側に陣取る敵の気配は、隙間なく周囲を取り囲み、しかも徐々にその距離が縮まって行く。
「……剣はあるのか」
 抑えた呟きに、蛇使いの男が道具箱の中から、一振りの剣を差し出した。舞台で使う剣舞用の飾り物だろう。はなはだしく実戦向きではないが、それでも剣には違いない。
 じり、と焼け付くようにわき腹が痛む。今のこの状態でどれほど剣を震えるかはわからないが――
 なるべく包囲が緩い場所を狙って大地を蹴る。人に宿命(さだめ)と呼ぶべきものがあるのだとしたら、彼のそれは、死と殺戮の色だ。皇太孫の近臣からはじまり、国王の側近中の側近、宰相にまで上り詰めたルーカスではあるが、真に生きるべき場所は恐らく、戦場にこそあったのであろう。――これほど、周囲に死を撒き散らすのであれば。
 散開(さんかい)していた襲撃者が、一手に集ってくる。打ち合いはしかし、長くは続かなかった。
 やはり、本調子にはほど遠いのだろう。かみ締めようとも歯の根がかみ合わず、呆気なく平衡を崩して背後の天幕の柱を突き倒した。ごう、と砂煙が舞い上がり、生成り色の布地が天へ舞い上がる。貴婦人の裾のごとく広がる布地の中に頭から突っ込み、もがきながら顔を上げたところで、鼻先に銀の刃を見る。
「――!」
 がつりと鈍い音がして、目の前の刃がなぎ倒された。逆手に構えられた短刀が、深々と敵を切りさく。一見、たおやかな女の姿をしていても、内実は戦闘者のギルドの戦士だ。吹き上げる血しぶきにも眉1つ寄せず、女が声を張り上げた。
「ひっこんでなさい!こいつらの狙いはあなたなのよ、そんなこともわからないの?!――黒宰相!」
 ……わかっていた。胸のうちで呟き、ほんの一瞬、瞑目する。それは明らかに彼の過ちだった。迂闊に報せなど渡すべきではなかった。地位に権力、そしてそれに付随する――付随するとされる、さまざまなもの。<黒宰相>と呼ばれる男が、単身傷を負ってこの一座の中に匿われていることが知れたなら、こうなるであろうことくらい想像してしかるべきだったのだ。
 帰る場所などはじめから存在しない。ただひとつ、あの鬱蒼と生い茂る深い森の中を除いては。
 ――この連中を、巻き込むわけには行かない。
 背後に広がるは禁忌の森。しかしこの森はただ1人の男にとってのみ、禁忌ではない。
「……これまでのこと、恩に着る!」
 束の間の安息に別れを告げ。ルーカスは再び、王家の森へと足を踏み入れた。





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