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暁の彼方〜第七章 暗転〜





 ――初めは、ただの偶然だった。
 懐妊が確定して以来、彼女は厳重な警備と保護のもとに置かれていた。身の回りの世話をする女官以外は、誰一人として側にやってこない。もともと、政治の場に引きずり出されることも、華やかに着飾って宴に出席することも苦痛でしかなかったから、そのこと自体は喜ばしいことではあったのだけれど、いくら呼んでも部屋を訪れてくれない、公式の席で姿を垣間見ることもできない一人の男にただ思いを馳せる日常は、いつも以上に精神を蝕んだ。
 会いたくて会いたくて出鱈目まで口にしたのに、それでもただ一度たりとも、男は彼女のもとを、訪れてはくれなかったのだ。
 そんな日々の中、代々の王妃があてがわれる一室、通称「王妃の間」を抜け出したのは、ほんの出来心でしかなかった。王妃つきの女官の目を誤魔化し、部屋を抜け出し前庭に出る。既に秋も終わりに近づき、庭の草木も味気ない茶褐色に変わっていたけれど、久方ぶりに嗅いだ外の空気は、レノラの心を慰めた。
 ――そこで目にしたのだった。王家の森へと向かう、彼(か)の人の姿を。



 道なき道とはいえ、先行く人の背を追う行程は、決して難しくはなかった。通常の高貴な婦人ならば、自らの足で森を歩んだりはしない。しかしレノラはもともと下級の貴族の娘であり、父の領地は南部にある森林地帯を含んでいた。娘時代は馬にも乗り、泉で水を汲んだこともある。
 下草や大地を這う木の根に足を取られているうちに、若者との距離は大分開いていたが、しばらく歩むと程なく、朽ち果てかけたあばら屋に行き当たった。地面すれすれに枝を伸ばした、大木に寄りかかるようにして建っている。この場所が彼にとって、どのような意味を持つのかわからないまま、レノラが小屋の周囲をうかがった瞬間――
 場違いな、だけどひどく聞きなれた旋律が、彼女の耳に飛び込んできた。
「子守唄……?」
 それはグリジアの地に古くから伝わる、子守唄だった。歌詞の意味は聞き取れなかったが、恐らく、森に住む精霊を崇拝する内容だろう。歌詞だけ違う同じ歌を昔、赤子の妹を抱きかかえ、歌ってやって寝かしつけたことがある。
 こんなところで、どうしてそんな唄が。恐る恐る小屋の周囲を伺い、ただ1つ、開かれたままの窓に気がつく。そろそろと窓枠を掴んで中の光景を見て、彼女は言葉を失った。
 むき出しの床の上に、1人の娘が座っていた。灯火のない、薄暗い一部屋の小屋の中で、娘の深紅の髪だけが明るい。木板の上にふわりと広がった生成りの衣服との対比が目に鮮やかだ。
 娘の細い指先が、床に投げ出された片方の肩に触れた。歌声が途切れ、その刺激に弾かれたように、若者の身体が寝返りを打つ。それまで娘の方を向いていた顔が反対側に傾き、レノラの瞳の中で像を引き結んだが、彼が誰であるのか悟るまで、しばしらく時間が必要だった。
 ――初めて出会ったのは、王宮に上がって、まだ間もない頃だった。
 父が死に、生まれ育った領地を離れて、王宮に行儀見習いに上がったは良いものの、右も左もわからず。作法がなってない、言葉遣いの悪い田舎者だと侮られていたレノラに、同じく王宮に住み始めたばかりの少年だけが優しかった。先輩の侍女に道を教えて貰えず、歩廊で道に迷って途方にくれているレノラの手を引いて、共に王の居室に向かったことが、一度ならずあったのだ。
 ――あの時の少年が。
 彼女の知らない娘の膝に身を凭れ、眠っていた。
 肩を掴んで揺さぶろうとしていた指が動きを止め、そのまま漆黒の髪を絡めて梳いた。途絶えていた歌声が、再び流れ始め、穏やかな寝息がそこに絡まる。まるで切り取られた、一枚の絵を見ているような気がした。季節の移り変わりも、時間の流れからも切り離された、春の陽だまりの中でもいるような。
 ――どうして。
 声にならない呟きは、無論、小屋の中にいる2人には届かない。自分とは違う、別な世界に存在するかのような若者と娘の姿を見つめながら、レノラはただ1人、窓の枠を握り続けていた。



「どうして、貴女がここに――」
 少女のように儚げな手足に、衣服の上からでもそうとわかる、腹部の膨らみが生々しい。淡い水色の瞳にどこか歪んだ光を浮かべてこちらを見つめる1人の女の姿に、ルーカスは目を見張って動きを止める。
 レノラの掌の中で、血に染まった刃が揺れた。王宮の女達が持つごく小さな短刀――懐刀の一種であろう。
「貴方に言われたから、好きでもない男に嫁ぎました」
「……」
「例え身分は低くとも、王の正妃となれば尊重される。幾人妃を迎えようとも、正妃の地位が入れ替わることはない。この先も王宮にいたければ、王の妃となれと、貴方はわたくしにそう言ったわ」
 違う。声にならない呟きは、風に巻かれて消えて行く。そんなつもりで言ったのではなかった。民に愛され、臣に恋われる王の妻になることは、彼女にとっても喜ばしいことだと思った。そして何よりも、シリウス3世が彼女を望んでいたから、だから、レノラに王妃になって欲しいと請うた。
「……俺は、強要した気は――」
「あの男に抱かれながら、わたくしが何を思っていたか、知っていて?これで、貴方の側にいられる。これで、貴方の役に立てると――」
 自分のものにならなくともよかった。他の誰のものにもならないのであれば、まだ我慢ができたのに。
 言い募る自分よりも小さな身体にこめられた覇気に、ルーカスは後退する。レノラとルーカスの付き合いは長い。まだ彼女がシリウス3世に嫁ぐ以前、王に仕える侍女であった時分から、面識があった。しかし大人しく儚げだとしか思っていなかった1人の女の内側に、これほどの激しさが隠されていることなど、知る由もなかった。
「もう、嫌。こんな子供、生みたくない。もう、生きていたくない。お願い、死んで――」
 後退し続けた背が、木の幹に触れる。再び振り上げられた刃を辛うじて退けたルーカスは、手刀を振り落として、短刀を奪った。小さな悲鳴が上がる。木の幹を踏みつけ、均衡を崩した身体を、かろうじて受け止める。
 あらん限りの力を振り絞って短刀を投げ捨て、細い肩を掴みとる。
「ちゃんと、立て。ここまで来たんだ、帰り道はわかるな?」
「え……」
「絶対に道を逸れるな、後ろを向くな。いいか、お前は今日、王家の森には来ていない。ここで何が起ころうが、何も見ていない。聞いていない。何も知らない、わかったな。そう言うんだぞ」
「い、嫌っ」
「俺に対する恨みつらみは良くわかった。それも自業自得なんだろう。だが――」
 ちらり、と視線を下方に向ける。膨らみも露な下腹部。その中に宿った新たな命。母親に望まれず、ただ1人、森の中を彷徨い続ける子供は、自分ひとりでもう十分だと思う。
「――早く行け!お前は自分の子供を、人殺しの子にするつもりなのか!!」
 あまりに強いその声に押されたように、レノラは足を踏み出した。



 目の前に翳した掌に、べっとりと赤いものがこびり付いていた。身体の芯から凍えるように寒いのに、額から汗が滴る。膝が震え、まともに身体を支えていられない。遠ざかって行く細い背中の行く先が、彼が今来た方角とは反対――あの小屋とは違う方向であることを確認し、ルーカスはようやく、その場に座り込んだ。
 ――あの娘はもう、王家の森を抜けただろうか。
 テラはただ、守られているだけの娘ではない。武器を持たずとも、自分自身も身くらいは、立派に守ることができる。それなのに、いかにも危なげな足取りで歩みはじめたレノラより、テラの身が案じられてならなかった。これ以上自分の所為で彼女の身に、どんな些細な災厄さえも降り掛かって欲しくない。そんなことになったならば、今度こそ本当に、自分で自分を許せなくなりそうな気がする。
「こういう……ことなのか」
 お前はもう、レノラには係わるな。ひどく真剣な顔をしたグレイにそう言われたのは、もう5年以上も昔の話だ。これ以上係わる気なら、本気を出して係わってやれ。言われた言葉の意味がつかめず、きょとんとした顔のルーカスを見て、お前は少し女心を知る必要があると言って、王都の娼館に引きずっていった。気晴らしにはなったが、それでも女心などまったくわからなかった。
 ――わかっていなかったのは、多分、人の心の方だ。
 刺された位置が背中に近かった為、傷の深さを確認することが出来なかった。着ていたものの裾を食いちぎって、応急手当代わりに押さえてみたが、さほど用を成しているとは思えなかった。次第に、腕に力が入らなくなってくる。
「痛い……な」
 誰だって、血を流せば痛いのだ。自分自身の命は惜しいと思う。失われてゆくそのものを、指を伸ばして、引き止めたいと思う。――俺は、そんな簡単なことさえ、わかってはいなかった。
 自分の痛みに気づかない人間に、他人の痛みを思いやれるわけがない。自分自身を守ることのできない人間に、誰かを守ることができるはずもない。
 生きたいと、心の底から思うことの出来ない人間が、誰かを死なせたくないと願ったところで、そんなもの、絵空事に過ぎなかったのだ。
 王家の森は、禁忌の森だ。通常ならば、誰一人として足を踏み入れない。死にたくなければ、己の足で立ち上がるしかない。己の足で立ち上がり、救済を仰ぐ声を上げるしかない。
 これだけ時間を置けば、この状態のルーカスと王妃との係りに勘づくものもないだろう。そう判断して、決死の覚悟で立ち上がる。気が遠くなる程の時間を費やして、一歩目を踏み出した。大丈夫だ。立つことも歩くことも出来る。――少なくとも、今はまだ。
 本当の恐慌(きょうこう)が襲って来たのは、その後だった。
 ――方角がわからない。
 彼を守り、育み続けた王家の森の木々の葉が、そよぐ梢が、足元の枯れ草が、一様に若者をあざ笑う。私達は禁忌の森。ここに足踏み入れたものを、無事に人の世界に帰しはしない――
 ――嫌だ。
 無意識に伸ばした指先で、空を掻く。嫌だ。まだ終わりたくない。ここからならば生き直せる。これまで、自らの愚かさの所為で、随分と多くのものを失った。取り返しのつかないことが、確かにある。だけどまだ、失われていないものもあるはずだ。失いたくないと、願ってみたっていいはずだ。
 ――俺はまだ、死にたくない。
 通常の状態のルーカスならば、そこに何があるのかを知っていた。王家の森で、道を逸れることの危険性。逸れた道の先に続く険しい崖。ちょうど以前、1人の娘が彼の前から姿を消した場所にも近い。
 踏み出した足が宙を踏む。あがく指先を鉤の形に曲げたまま、宰相ルーカスは王家の森から姿を消した。



 並々と水を湛えた甕(かめ)の重さに、少女は閉口する。グリジア王国は水源が豊富で、王都の中であっても、泉や井戸には事欠かない。それでも特にこの場所――王家の森に程近い泉から湧き出す泉の水は格別で、あえて遠出をして泉の水を汲みに来る民も多い。
「あ……れ」
 道の左手に続く斜面の途中にはためくものを見つけ、少女は歩みを止めた。
 それは、布の切れ端だった。所々、赤黒いもので汚れている。よく見れば地面の上まで転々と、赤いもので染まっていた。驚いてその跡を辿り、斜め下へ向かって斜面を滑り降りる。低く生い茂った潅木の茂みの中から、何かを掴むようして飛び出していた人間の手を踏みつけそうになり、手にしていた甕を取り落とす。
「え、えっ、ちょ、ちょっと大丈夫?!ここから落ちたの?ねえ、生きてる?!」
「う……」
 思わず手を触れた背中が、ぐっしょりと赤いもので染まっていた。それでも確かに反応がある。ごくささやか、耳を澄まさなければ聞こえないほどに、小さなものではあったが。
「待ってて!すぐに、助けを呼んでくるから!」
 走り出した少女の声に、返答はない。ただ、蹴り倒された甕から溢れた水だけが、男の漆黒の髪の中へ吸い込まれていった。






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