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暁の彼方〜第七章 暗転〜




 一歩足を踏み入れると、ものすごいまでの轟音が頭上を襲った。木立が、音を上げて左右に割れて行く。その向こうに浮かんだ太陽の姿は、流れる灰色の雲の影に隠れ、随分といびつに歪んだ形をしている。
 真昼だというのに、何か、忌まわしいことでもおこりそうな空の色。王家の森全体が、異物を排除する為に、生き物のごとく、ぜん動しているかのように見える。
 ――この空の感じだと、初雪まで、それほど間はないかもしれないな。
 王都の人間が恐れ、忌み、決して足を踏み入れないこの森も、彼にとっては、恐ろしい場所ではない。森もまた、彼を異物として排除しない。子供の頃から、何度となく、この森の中で夜を明かし、食べ物の手に入れ方も、夜露を凌ぐ場所も、十分に知り尽くしているのだから。
 手を伸ばして小屋の戸を押し開けると、澱んだ空気が彼を出迎えた。もう随分と長い間、この場所にやってきていない。長期間閉め切られていた建物独特の、埃や黴(かび)の匂いが鼻をつく。
「まさか、ここにいるわけは……ないか」
 苦笑と同時に、あばら屋の壁に背を押し当て、ルーカスは床の上に膝を伸ばした。
 ――伸ばしに伸ばして続けてきた、サイファ公国に回答を示す期限が近づいていた。
 ここへ来て西よりの方針に転換しつつあるとはいえ、ルーカスはこれまで、基本的に東西どちらの陣営にも与しない方針を貫いてきた。そもそも、グリジア王国は東と西の交通の要衝として栄えた都市国家であり、通商レベルではサイファ同様、月英との誼(よしみ)が深い。
 今、出来ることはただ1つ、時間を稼ぐことだけだった。サイファから国境を越えて本格的にグリジア領内に侵入するには、山脈を1つ、越えてこなくてはならない。冬が来ればまず間違いなく、進軍は持ち越される。もっともそれも、来春になればまた同じ問題が再燃するという、ただひたすらにその場しのぎの方策でしかなかったが。
 いつからだ、と自分自身に問いかけてみる。それで国を守れるのなら、うそでもはったりでも、いくらでもかましてやる。それが<黒宰相>という男ではなかったか。一体いつから、そうして嘘偽りを積み上げることに、虚しさなんかを感じるようになった。以前のお前ならば、あんな風に思ったことをそのまま口にして、誰かを激怒させることなど絶対にしなっただろうに。
 いつから――
 ――いつから、俺はこんなに弱くなった?
「……駄目だな、相当疲れているらしいや」
 きわめて休息の足りていない頭で物事を考えても、考えなどまとまるはずもない。のろのろと額に掌を這わせ、若者は自ら、視界を閉ざす。
 彼が王宮で暮らすようになった後もこの小屋に足を向けるのは、この場所でならば、わずかなりとも眠れるからだった。眠りは浅く、見る夢は悪夢には違いなかったが、少なくともこの場所ならば夢魔に追い回され、悲鳴をあげて飛び起きるというような醜態(しゅうたい)を、誰かに見られる心配をしなくてもいい。
 後頭部を壁に預け、浅い呼吸を繰り返していたルーカスが、何度目かに訪れた眠りの波を捕まえかけた瞬間――
 かたり、と戸板が鳴った。



「テラお前……、出て行ったんじゃなかったのか」
 どこか茫洋(ぼうよう)とした、眠たげな口調。霞がかった漆黒の瞳。妙に子供っぽい仕草で見上げられ、息が詰まる。
 ――そんな顔、しないでよ。
 身体の奥で、傷が疼く。疼いているのは、傷だけのはずなのに、何故だか胸の辺りまでもが痛い。
 そんなこんなをしているうちに、ようやく目が覚めてきたらしい。ルーカスの目の焦点が、しっかりとテラを捕らえた。それでもしばらくは瞬きを繰り返した後、ようやく気づいた、という風に口を開く。
「どうした?何の用だ?忘れ物か?――それとも、また俺に会いたくなったとでも言う気か?」
「王家の森にも、兵を配置した方がよくないの?侵入しようと思えば、入り込むのなんて簡単よ」
「好きこのんで、この森に足を踏み入れる奴なんか、いるものか」
「――いるじゃないの、ここに」
 くくっ、と喉奥が鳴る。
「そりゃそうだな。お前が俺を殺そうと思えば、いくらでも機会はあったんだ」
 すとん、とテラはルーカスの隣に両膝をついた。片腕を伸ばして、長く伸びた黒い前髪を掻き分けると、ルーカスは弾かれたようにして、身を引いた。背中を壁が打つ。もともと壁に背を預けていたのだからさほど隙間はなかったはずなのに、それでも身を引いた、とわかるほど、その動きは激しかった。
「自分が今、どんな顔をしているか、わかってる?酷い顔よ。どれだけ眠ってないの?」
「いいや」
「嘘」
「嘘じゃない。こないだだって、グレイの奴に少しは寝れと、仕事を奪われたんだ。……ただ」
「ただ?」
「俺が目を閉じると、俺に恨みを持つ亡霊どもが寄ってきて、耳元でごちゃごちゃと煩(うるさ)い」
 その亡霊の中にはきっと、テラの母もいるはずだった。酷い話だ。テラの夢の中には一度も出てきてくれなかったのに、母はこの男の夢の中にはやって来ていたのか。不思議なことに、カウラがルーカスを恨んで現れたとは思えなかった。むしろあの蒼穹と同じ色をした瞳に憂いの色を浮かべ、若者の行く末を案じているかのように感じられた。
「本当は、話があって来たの。だけど、ここには寝に来るんでしょう?邪魔はしないから、とにかく、今は少し、眠りなさい」
「眠りなさいって……おい、お前は、俺のお袋か?」
 ふざけた口調でそう言って、しまった、という風に眉をしかめた。一瞬、その瞳の中を過ぎった、苦悩と慙愧(ざんき)と悔恨と。彼自身母親を失っているはずなのに、自分自身の痛みは、微塵も感じさせない。
 ふと、思った。この人は言わなかった。悪かったとも、仕方なかったとも、許してくれ、とも。初めて出会った時から、何も言わずに、ただ黙々と自分に向けられる憎しみを受け入れていた。
 そんな生き方もあるのか。拒むでもなく、抗うでもなく。すべてを黙して受け入れる。その身で負う。国という魔物が、人にそこまでの強靭さを強いるのか。完全に己を律することができる人間でなければ、そこに立つことが許されないのか。
 ――しかし、嘘だろう、そんなものは。
 人は自分勝手な生き物だ。平気で他人を傷つけるくせに、自分自身の痛みにはてんで弱い。容易に折れる。崩れる。涙を見せる。怒りに我を忘れて、誰かを傷つけたりもする。身勝手で愚かで浅ましくて――しかしだからこそ、人間という生物は、他のどんな生き物よりも、しなやかに強く生きられるのかもしれない。
 はじめて、自分のもとを訪れた一人の青年が口にした「危なっかしい」という言葉の意味がわかったような気がした。だけど今のグリジアでこの男を失って、国としての形が保てるのだろうか。いや、それ以前に――
 ――この人、宰相でなくなって、それでもまた生きていけるんだろうか。
「……今、思いついたんだが」
「え?」
「あの3年前の……お前があると言っている<借り>ってやつは、まだ有効なのか?」
「え?ええ、それはもちろん……」
 だったら、と若者は息を吐く。次いで出てきた言の葉は、テラを驚愕させるのに、十分な重みを持っていた。
「膝を、貸せ」



 微かな息遣いを感じる。腿に感じる重みと、下腹部に感じる暖かさ。彼がみじろぐたび、わずかに擦れる髪の感触がくすぐったい。
 弟妹のないテラは、こんな風に誰かに膝を貸したことはない。カウラがまだ生きていた時、戯れに母親の膝に頭を乗せたことはあったけれど、それがこれほど暖かいものだなどということは、誰も教えてはくれなかった。
「そういえば昔一度だけ、こんな風に眠ったことがある」
「へっ?」
「もう10年……いや、15年は前になるか。酷い風邪にかかって、生きるか死ぬかの目にあった。何日も意識が朦朧として、気づいたときには、母が俺の頭を膝に上げていた。……そんなこともあったんだよな、そういえば」
「いいお母さん……だったのね」
 首の後ろで結わえられた深紅の髪が、さらさらと下方へ流れ落ちる。幼子のようにその先端に指を絡めながら、若者はほうっと息を吐く。
「とは、言えないんじゃないか。何度も何度も殴られた。この小屋の隅でこれみよがしに、お前さえいなければと泣かれるのは嫌だった。王宮で暮らせるようになった時は嬉しかったよ。これでもう、あの人と暮らさなくて済む」
「お母さんのことが、好きだった?」
「いいや。正直、ああいう人間は好きにはなれないな。まあ、子供の頃は……それなりに、そうだったことも……あった、かな」
 実際、相当疲弊しているのだろう。ぐったりとした仕草で、ルーカスは自身の掌を持ち上げた。目の上に掲げ、そこに描かれている解答を探そうとするかのように、まじまじと見る。
「馬鹿ね」
「……」
「そんなことさえわからなくなるくらい、疲れてたの?眠って。亡霊と同じようにあなたをずっと恨んできたあたしがいれば、きっと亡霊たちも寄ってはこないから」
 ――今だけ、何も考えずに。ただ、優しい夢の中へ。
 テラの言葉に導かれるように、薄日の下で、ルーカスの瞼が落ちた。それでもしばらくは抗(あらが)っていた息遣いが、やがて、穏やかな寝息へと変わる。
 そんな過程のすべてを、テラは慈しむように、見守った。







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