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暁の彼方〜第六章 襲撃〜




 ルーカスが目を開けた時、最初に目に入ったのは、書物の山だった。書きかけの書類と、朱肉で汚れた樫の机。見慣れた光景のはずなのに、それがあまりに日常でありすぎて、自分がどこにいるのか、咄嗟に把握ができない。
「正気づいたか?」
 しばらくぼんやりとその光景を見つめ、よく知る灰色の双眸が、真っ直ぐに自分を見下ろしていることに気がついた。のろのろと顔を上げ、ようやくそこが自らの仕事場――宰相の執務室の一角であることに思いいたる。
「グレイ、お前、そこで何やってんだ?」
「開口一番、それはないだろうが。まあ、正気に戻ったんならよかった。もう、自分が何やったかはわかっているだろう。誰にも見られなかったのは、奇跡みたいなもんだ」
 枕元に、普段仮眠に使う毛布の束が見えた。腕の力で身体を持ち上げ、骨を貫く痛みに、思わず顔を歪める。ぐらりと視界が揺らいだのは、斬られた時に血を失った所為か。
「あの娘は……テラは、どうした?」
 ルーカスの問いには応えず、グレイは口にくわえた葉巻煙草に火をつける。ちなみに紙類の多い執務室での喫煙は火災の原因にもなりやすいのだが、それを口にする前に、グレイが深々と紫煙を吐き出した。
「ひとつ、率直なところが聞きたい」
「何だ?」
「まさか本気であの女に惚れた、とか、言わないよな?」
「――まさか」
 血の気を失った唇に苦笑が浮く。
「俺は、ただ」
 そこまで言いかけ言葉を失い、長椅子に横たわったまま、ルーカスは額に手を這わせた。自分は一体何を言いたいのか。何を望んだのか。あまりにも長い間それを殺し続けてきた所為で、いざ言葉にしようとしても、上手い台詞が見つからない。
「……ただ?何なんだよ」
「ただ、それがあの娘の願いなら、かなえてやりたいと思っただけだ」
 聞きようによっては、恋情の告白とも受け取られる台詞に、グレイは瞬く。母親を殺された娘の望みがたった一つでしかありえない以上、承知で手を貸すということは、ルーカスにとって、消極的な自殺行為に他ならない。
 ――ルーカスお前、今、自分が口走った言葉の意味をわかっているのか?
 他人の心は察しすぎるほどに察するのに、自分の気持ちにはたいそう疎い。いや、疎いというよりも、いつも限界のさらにその上まで押さえつけるので、周囲が――いや、もしかしたら当のルーカス本人でさえも、自分自身の感情がどこにあるのか、わかってはいないのではないだろうか。
 ……もっとも昔から、こと色恋沙汰に関してだけは、他人の心情に対しても鈍かったが。
「あの女は、俺の異母姉の館にいる。生きてはいる……今のところは。だけどな。言っとくけど、人に見られないようにお前と女をあの場から回収して、傷の手当てまでして、すっごく、大変だったんだからな」
 言われて初めて気がついた、というようにルーカスは自身の身体を検分した。やがて大仰に眉を下げ、ぽんと両手を打つ。
「そういや、怪我したんだったっけな。忘れてたよ」
 そんなことはあるはずもないのに、ことさらにおどけた仕草に、グレイは深く嘆息する。先ほどグレイにむき出しの感情を見せたことさえ、恐らく一生の不覚とでも思っているのだろう。
「……この借りは、どうやって返してくれる?」
 諦めと溜息を含んだグレイの台詞に、ルーカスは眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
「今も城内は大混乱の真っ只中だ。警備も警邏もあったもんじゃない。まずは宮殿内の兵の配置の見直しだな。それに侵入者の身元特定と捕縛、後は――」
「……なあ、グレイ。お前さ」
「ん?」
「いつか、俺が親父と同じように狂ったらって、考えたことあったか?」
 問いかけの意味を掴み損ねて、グレイはぱちぱちと目をしばたたかせた。そんなことを考えたことは、これまで一度もなかったからだ。
 ルーカス・グリジアはシリウス2世の末子であり、血縁だけを問うなら、彼はあの狂王の息子にあたる。とはいえ、血縁であるというだけで、彼もまた父親と同じ過ちに踏み込むなどと誰に言える。そんなものは、突き詰めれば本人の為人(ひととなり)――人間性の問題でしかない。
 友人の戸惑い顔を前に、若者は薄く笑う。
「――肩を貸してくれ」
「あ?」
「借りは返すよ。あの連中のことだ、どうせ今も責任の擦り付け合いの最中なんだろう。――責任を持って、この事態の収拾はしてやる」
 グレイがそろそろと見やった先。そこには久方ぶりに見る<黒宰相>の顔があった。

 

 何度も何度も、繰り返し押し寄せてくる波にもまれながら、ずっと何かを探していた。
 声を張り上げても、手を伸ばしても、決してテラのものにはならない何か。今にも指先が触れ、そのぬくもりも感じられそうなのに、その次の瞬間、幻はひらりと姿を変え、軌跡も残さず消えてしまうのだ。
 ――待って。
 声にならない声が、尾を引く。待って、お願い待って。わたしも一緒に連れて行って――



「――良かった。気がつかれましたか」
 聞き覚えのない声に迎え入れられ、テラの意識は完全に覚醒した。
「あたし……」
 ――生きて……いるのか。
 身を起こそうとしても、何か強い力で押し付けられているかのようで動けなかった。実際に体の上にあるのは毛織の毛布一枚なのに、巌(いわお)のように、重い。
「まだ動いてはだめよ。傷は急所をそれていたけど、随分血を失ったから、しばらくは安静にしていないと駄目だと、お医者様が……」
 ――急所をそれた。
 男の渾身の力で振り下ろされた剣を体に受けたのだ。自らの身体に飲み込まれて行く刃の感触を感じた瞬間、これは致命傷だな、などと他人事のように思ったものだったが。
 そろそろと指先でたぐってみると、肩からわき腹にかけて、傷口を手当てされているのがわかった。敵の女に情けをかけ、医者にまで見せたのだとしたら、王宮の人間とは、なんと懐が深いことか。
 自然、苦い笑いが口もとに浮く。目の前の女が、腰を折ってテラを見た。
「わたしはエリザと申します。あなたのお世話をするように、申し使わされました」
 色の抜けた灰色の髪と、穏やかそうな薄茶色の瞳を持った、老齢の女だった。見事にまん丸な顔の輪郭に、ふっくらとした唇の線が温かい
 しわだらけの乾いた手が、テラの背を支える。折り曲げた枕に身をゆだねると、ようやく、ここが飾り気も火の気もない、どこかの館の一室であることに気がついた。
 たった一つの窓の彼方、月の姿は見えないのに、ただ梢を照らす青白い光だけが見える。
「あたしは、どれだけ……いえ、ルーカ……」
 声が喉に張り付き、上手く声になってくれない。口の中かがからからに乾いていて、唾を飲み込むと血の味がした。差し出された湯冷ましを口に含んで、ようやく言葉が口を吐いて出る。
「ルーカスは、……宰相閣下は、ご無事ですか?」
「ルーカス様はご無事です。お怪我はありますが、お命に別状はないそうですよ」
「そう……ですか」
 思わず、安堵の息が零れた。
 王宮舞姫として宮殿内に滞在し、テラは自分が見聞きした範囲内で、王宮の見取り図を作成していた。兵の配置、進入する際の最も安全な経路も想定済みだ。その見取り図は大鷲の翼に乗って戦闘者のギルドに運ばれ――そしてそれと同じものが、今もなお、彼女の頭の中に保管されている。
 だから、騒動が起こったと知って誰よりも早く、王宮の最奥まで入り込むことができた。もっとも、いつか復讐に役立てようと王宮内を探っていたあの頃は、まさかそれがこんな形で役立つことになろうとは、思ってもみなかったのだが。
「あの……ここは?」
「近衛隊長様の姉君にあたる方のお邸です。貴女がここにいることは誰も知らないから心配しなくても大丈夫よ。それに、貴女をこんな目にあわせた人はもういないから……」
 最後まで言の葉を紡ぐことが出来ずに、エリザは言葉を詰まらせた。ぱたり、と透明な雫が一滴、テラの目から柔らかい毛織の毛布の上に滴り落ちたからだ。
 もう……いない?
 あの男が死んだのか?最後までテラをカウラの身代わりとしか見なかった、あの男が?
 戦闘者のギルドの人間にとって、戦闘中の死は悲劇ではない。それは彼らの生き様であり、日常であり、誇りだ。第一、テラに彼の死を悲しむ権利はないだろう。黒宰相を――ルーカスを死なせたくないと思った瞬間に、テラはクラネットの死を悼む権利を失ってしまった。
「……かわいそうに」
「え?」
「女の子がこんなに傷だらけになってねぇ。かわいそうに」
 いたわるように、包み込むように、肩に回された腕。血液を失い、体温を奪われた身体に、人肌の温もりが心地よい。
「貴女が無事でよかった。……よかったのよ」
 再び発せられた言葉を聞いた途端、テラの中で、張り詰めていた何かが切れた。気がついた時には、目の前の老女の腕にすがりつき、堰が切れたように泣き出していた。
 母が死んだのは5年と少し前、それからのテラはずっとひとりぼっちで生きてきた。引き取られたギルドの頭領の妻は、情人の娘であるテラに冷たかったから、本当に、誰も自分を必要としない、守ってくれるものもいない他人ばかりの場所で。
 誰かを殺したいほど憎んでいられる間は、まだそれでもよかったのだ。だけど憎むことを辛いと思った瞬間に、気づかされてしまった。自分のこれまでが、いかに孤独だったかということを。本当は、とても寂しかったのだということを。
「もう、大丈夫よ。もう大丈夫。何の心配もないの」
 今、テラの髪を撫でる掌は母ではない、他人のもの。だがそれでいて、テラの記憶の中にある、他のどんな手よりも、暖かかい。
 この夜初めてであった、他人の腕の中で。残されていたわずかな体力を使い果たして眠りにつくまで声を上げて泣きながら、テラは確かに過去に失った何かが、自分の中に取り戻されて行くのを感じていた。






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