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暁の彼方〜第四章 光と影〜




 朝風は秋の訪れを告げ、上空で渦を描いて舞う。地下を流れる水脈は大地の熱を奪い、温もりが去った土の上に、色づきはじめた木々の葉がうっすらと積もる。
 夏から秋へと向かうこの季節、王宮の地下にある石牢は、まるで一足先に冬が訪れたかと思うほどに冷える。いっそ真冬になってしまえば、寒さ厳しいグリジアのこと、罪人たちにも僅かばかりの炎が与えられ、それで暖を取ることもできたりするのだが。
 靴の踵を鳴らしながら、兵士たちは地下へ続く石階段を下りる。こすり合わせた掌に吹きかけられる吐息の色は、雪ように真っ白だった。
「しかし、宰相閣下と王妃様の噂ってのは、本当なのかね」
「お前そんなこと……、誰かに聞かれるぞ」
「しかし閣下は王妃様との仲を重臣方に叱責され、官邸に篭られているという話じゃないか。もしも辞任、なんてことになれば、俺たちゃ一生、このまま牢屋の番人だぜ。……ようやく年明けには昇進試験受けて、田舎から母ちゃん呼べると思ってたのになぁ」
 1人が深々と溜息を吐くと、「俺のところは、もうすぐ3人目が生まれるんだ」と呟く声がした。その向こうではまた別の同輩が「俺なんか、ここの給料で女房子供と、じいさんばあさんまで養ってるんだぞ」と愚痴る声もする。
 王宮を守る衛兵の中でも最下層に位置する彼らのような兵士に、宰相ルーカスは人気が高い。彼が家柄による身分制を撤廃し、身分なく年齢の若い者や異国出身者にも広く王宮の門戸を開放しためだ。
 家柄よりも身分よりも、本人の質素と能力を評価する。実はその傾向は、西の振興国家月英に特に顕著だ。
 もともと、西方は荒地とオアシスが続く大平原であり、いくつもの小民族が部落別に家畜を飼いならし、独自の移動生活を行う遊牧地帯であった。
 月英王朝の王族も、もとをただせば一辺境部族に過ぎない。彼らは騎兵を組み、周辺部族を統一するにあたり、他では見られない政策を行った。征服した部落、部族の言語・宗教を奪わず、一定の税を支払うことを見返りに、被征服部族の長たちに彼らの民を治めることを認めたのだ。
 官吏や軍への登用は部族の隔てなく行われ、特に軍事面においては、被征服部族の隊長に、月英族の兵士という形も珍しくはない。
 言語も宗教も異なる他民族国家を、短期間でまとめあげるためには、力よりも統治が優先する。グリジア王国宰相ルーカスの外務方針は徹底した日和見主義――サイファにも月英にも組みせず中立を守る――であるが、彼が行う政策自体は、むしろ月英のそれを参考にした部分が多い。
 革靴の踵を鳴らしながら、兵士は自身の持ち場に到着する。現在、牢の中に罪人はない。おざなりな見回りを終え、所定の位置に立った若い兵の1人が、不自然に光る石床の煌きに気づいて、歩みを止めた。
「おい、最近、誰か掃除なんか……、するはずないよな」
 地下牢の最奥、一際広いその独房から染み出す液体を、指で掬って確かめる。ひんやりと冷たい。錆びた格子の前に立ち、薄暗い房の中を覗き込む。場違いに明るい色彩を感じ、兵士は瞬いた。
「何だ、これ?」
 錆びた格子の中で、何かに手向けられるかのように束ねられた黄金色の花。
 ――人はそれを、太陽の花と呼ぶ。



 ようやくテラが小屋を後にしたのは、すでに明け方近く――空には暁の太陽が金色に輝き、朝靄を通じてあふれ出す木漏れ日が、地面に淡い影を作り始めた頃だった。
 身体中が痛い。床に押し付けられた時に擦り剥いたのだろう、手の甲にはうっすらと血が滲み、強い力で掴まれた二の腕には、男の指の跡が鮮やかに残っている。背中がずきずきと痛むのは、無理な体勢で引き倒された際の後遺症か。
 下草を掻き分ける足を止め、すっかり汚れてしまった衣服の肩近くに手を這わせてみる。今もまだ、うっすらと濡れているような気がした。
 ――迷う必要などない。この一突きで、すべてが終わる。帰らぬ母を待ちながら、黒宰相を憎み続けた日々。恨みも憎しみも、悲しみも……この胸の痛みも。
 そう思ったのと、床に突き立てられていた2本の腕が、がくり、と折れたのはほとんど同時、凍りついたように身動きのできないテラの肩口に顔を埋め、ルーカスは深い眠りに落ちた――かのように見えた。
 いや、眠ったというより、ほとんど崩れ落ちた、といった方が近い。首筋に感じる密やかな息遣いさえなければ、彼の命が未だ現世にあることさえ疑ったかもしれない。
 ――そういえば、酒に弱くて呑むとすぐに眠くなる、などと言ってはいなかったか。
 そんなことを思いながら、覆い被さる身体の重みから苦労して身を起こして。肌蹴た襟元をかきつくろいながら下方を見たテラは、瞼を閉じた男の、その双眸(そうぼう)から流れ落ちる透明な液体を見て、愕然とした。
 規則正しく寝息を紡ぐ若者の両の目から、つきることなくあふれ出すもの。
 身体に残された痛みよりも、心に感じる息苦しさよりも、その涙への驚きに打たれてしまい、そのまま動くことが出来ずに――結局、灯火の切れかけた闇の中にルーカスを置き去りにすることが出来ずに、彼の隣で一夜を明かしてしまったのだ。
 ――あの人は、あたしに殺して欲しかったのだろうか。
 黒宰相は冷酷で冷徹、国内外にその名を知られた、切れ者の政治家のはずだ。自身の行く手を阻むものは、誰であれ容赦なく排除する。そこには、例外も悔恨も存在しない。
 しかし、昨夜のルーカスはまるで、闇の中で寄る辺を無くして彷徨う子供のように見えた。テラの手は彼の命を奪うためだけにまわされたはずだったのに、思わずこのまま肩を抱いてやりたいと思ってしまうほど、若者の姿は頼りなく、危うげにさえ見えた。
 もしも彼が意識を失わなければ、<黒宰相>を殺して仇を討つことができたのだろうか。それとも、あのまま<ルーカス>に抱かれていたのだろうか。
 ――あたしはルーカスに死んで欲しいの?それとも生きていて欲しいの?
 正直、テラは今、自分で自分の気持ちがわからない。
 ――憎いのか、憎みたいのか。許せないのか……許したいのか。
 かさこそ、と足元で草が揺れる。暖かそうな麦わら色の毛皮が、草の合間を駆けて行く。倒木の上で振り返ってテラを見た。冬支度中の森のリスだ。頬袋いっぱいに木の実を加えた姿が愛らしい。
 ふっと、笑みが浮かぶ。微笑んでその方角を見つめ――間近の樹木に突き刺さったままの影を見つけ、凍りついた。
「これは……」
 柄の部分に龍の文様が刻まれた、一振りの短刀。
 それは、テラが一度は手放したはずの、ギルドの戦士の証だった。



 闇に浮かんだ篝火(かがりび)に、舞台という名の異世界が浮く。
 煌々と浮かぶ焔に切り取られた世界が繰り広げるのは、人間に恋し、水の泡となった精霊の物語。グリジアでは誰もが知っているこの御伽噺は、これまでにも多くの踊り子や舞妓によって、美しい歌舞に作り変えられてきた。
 人間の男を愛した水の精は、美しい声と引き換えにして、女神から人としての生命を授かる。しかし男への愛の証に得た命は、同時、愛が失われば消えて行く儚いものでしかなかった。
 男の裏切りに悩み苦しむ女に、女神は言う。この刀で男の命を奪うなら、お前をもとの姿に戻してやりましょう。さあ、お前を裏切った男の枕辺に立ち、その胸に刃を振り下ろすのです。
 水の精は刃を受け取った。しかし、振り下ろされた刃は男の体をかすめることなく、彼女の胸を切り裂いた。
 かつて、精霊であった女は笑う。悲しいまでに嫣然とした笑みで。
 ――わたしが、この人を愛した。この人が私を愛するかは、問題ではないのです。
 水面に身を投げた彼女の体は白い飛沫となり、やがて水に溶けて消えたという。



 幕が降りると同時に、歓声が沸き起こった。割れんばかりの拍手が鳴り響き、人々が口々に今日の舞台を褒め称える。何人かの子供たちが、幕が降りた舞台へ駆け寄った。何度か拳で土台を叩いて、反応がないことにじれたように声を上げる。
 まるでその声が聞こえたかのように、舞台を仕切っていた白布が揺れた。まるで坊やたち、夢の時間はもう終わりだよ、早く家に帰りなさいと言わんばかりに。
 子供たちは家路を辿る。先を行く、父母友のあとを追い。そうして静寂が落ちる。見る者のない舞台のそこここで。夢の残滓が消えて行く。
 そして再び、幕が開く。
 夜は徐々にその密度を増し、藍色というよりは墨色に近かった。虚空の彼方にぽっかりと浮いた藍。深い森の向こうにそびえたつ石造りの宮殿は、遠目にもその威容が明らかだ。
 その向こうに、彼(か)の男がいる。
 薄墨の雲が宮殿の空を流れる。濃い藍色の森に覆われた王宮のありようは、まるで巨大な檻に捕らわれた、黒く大きな魔物の姿のように見えた。
 闇夜に浮かぶ、現実と虚構。夢と幻。
 あの魔物を操る傀儡(くぐつ)師こそ、彼の男の本性なのか。いや、彼もまた、姿の見えない操り手に糸引かれる、傀儡のひとつに過ぎないのではないのか。
 ――ならば、糸引くその手は、誰がものか。
 そしてその誰かこそが、宰相ルーカスをして、自分を殺しにきた女に縋りつかねばいられないところにまで追い詰めたのだとしたら、テラは殺された母を哀れに思うのと同様に、ルーカスのこともまた、哀れと思ってしまうのだった。
「――テラ、ご苦労さま。座長が今日はこれでお開きにしましょうって。あっちに、お酒も用意してあるから、いただきましょう」
 オウカの言葉に現実に引き戻され、テラは頷いた。
 一座の芸人達が、次々と舞台から降りて行く。――と、不意に、闇に灯された篝火が揺れた。夜と静寂の向こうから、何人かの男が現れる。1人は一般人より、明らかに裾の長い上着に身を包み、他の何人かは帯刀していた。王都で帯刀しているのは許可を受けた兵士か役人の護衛だけ、恐らく後者の方であろう。
「近頃、王都を騒がせている旅芸人の一座というのは、お前たちか」
「騒がせているかは知りませんがね。最近来たのは本当ですよ。しかし、お役人様が俺たちに何の御用です?」
 唯一の男性である蛇使いのダワが声を上げる。
「王宮でご不幸があった。慣例に従い、明晩より、王都での芸人の興行を禁止する。その旨、しかと心得るように」
「そんな、興行を禁止って……、いつまでですか」
 怯えたように、リディスがダワの袖にしがみついた。舞台を張れなければ、彼らはただの民草と同様だ。いや、ただちに収入の道を断たれる分、ただの民より性質(たち)が悪い。
「ちょうど1月後、陛下のご即位6周年を祝う宴があることはお前らも知っておろう。芸人らの稼ぎ時であるその頃までには興行を再開できるようにとの、宰相閣下からのお達しだ」
「宰相閣下って、だけど黒宰相は謹慎しているって話じゃ……」
 王妃レノラの懐妊にまつわる宰相ルーカスとの艶聞を、知らぬものは王都にいない。無論真偽のほどは定かではないが、王妃と宰相の関係を恐るべき醜聞であると眉を寄せる人間がいる一方、汚れなき純愛であるともてはやす風潮があることも確かだった。
 役人は露骨に眉をしかめた。リディスはますます強くダワにしがみつき、軽技師のオウカが、怯える少女の肩を抱く。
「宰相閣下は、謹慎などしておられん。お身内がお亡くなりになったので、自邸で喪に服しておられるだけだ。馬鹿げた風聞を広めているのなら、お前達には永遠に興行の許可は下りんと思え」
 ――王宮で、不幸があって。
 ――お身内がお亡くなりになって、喪に服している。
 役人の無機質な言の葉が、耳の奥で木霊する。無意識のうちに、テラは走りだしていた。
「あの、お役人様!」
 舞台から衣装のままで駆け下りてきた若い踊り子の姿に、男たちが一斉に振り返った。
「王宮でご不幸とは……、あの、どなたが亡くなったのですか?」
 役人は、胡乱(うろん)な視線を目の前の踊り子に向けた。王都に入ってからというもの、舞台に立つ時は染料を使って、髪を染めていた。しかし王都に人相書きが回っているのなら、それも気休め程度にしかならないだろう。髪はともかく、瞳の色はそう変えられるものではない。
 一瞬、身構えたテラの様子に気づくことはなく、再び男が口を開く。
「なくなられたのは、サラン・ドーレ様というお方だ。先の陛下のご婦人で――宰相閣下の母御にあたる」
「え……、どうして?どうしてお亡くなりに?」
 まだ、それ程の年齢でもあるまい。一度だけ合間見えた限りにおいては、死に至るような病を持っているようには見えなかった。
 どうして。テラの呟きに、役人は一瞬、怯むような仕草を見せた。何かある。――それも、尋常ではないなにか、が。
「どうしてなど、そんなことはお前たちには係りなかろうが。とにかく、明日から興行は禁止する。それだけだ」
 ――数なんか覚えちゃいないし、顔も知らなかったやつもいる。それを殺してきたんだ。何人も。何人も。この手で。
 ――手を汚さずに済むのなら、知らずに済むのなら、それに越したことはないんだ。……できることなら、やめておけ。
 ……まさか。でも。
 不意に脳裏を過ぎった暗い想像を、打ち消しきれない何かがあった。確証はない。だから、それが酷く不遜(ふそん)な想像のような気がして、まさか、の続きが言葉にならない。
 ――糸引くその手は、誰がものか。
「テラ……?」
 役人達が去った後も、その場を動かないテラを訝り、一座の芸人達が駆け寄ってくる。息苦しさを覚え、テラは自身の胸に手を這わせた。ふと、指先が硬いものに触れる。王家の森で見つけた短刀。これだけが母からテラの手へと受け継がれた。――これだけしか、残らなかった。
 その感触にすがりつこうとした瞬間、懐から何かがはらりと、宙に舞った。
 見覚えのある色合いに、リディスが小さく息を呑む。
「テラ、それ――」
「あ……」
 黒宰相と呼ばれる男が憎い。かつて、彼女は母親を失った。テラがテラであるだけで慈しみ、保護を与えてくれた庇護者を永遠に喪失してしまった。怒りと憎しみは胸奥でもつれ合い、容易なことでは解けてくれない。
 これほど、人を憎いと思ったことはなかった。そして同時に、誰かを憎むことがこれほど苦しいと思ったことも。
 ――母さん、ごめん。
 あたしはもうこれ以上、ルーカスを憎めない。





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