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暁の彼方〜第四章 光と影〜




 旅芸人の一座が王都に到着したのは、正午よりもまだ少し早い時刻、高く晴れ渡った空にたなびく雲は薄く長く、一足早い秋の訪れを告げていた。
 西から東へと吹き抜ける風は生ぬるい。もう少したてば風向きも変わり、北東から秋の季節風が、冬の寒気を運んでくるのだろう。
 王都に向かう。一座の次の目的地を聞いたとき、テラはそれを、拒むことをしなかった。
今の彼女が王都に向かうことの危険性が、わからないわけはない。ルーカスが案じていたように、兵士や人の目が格段と多くなる王都では、誰かが「お尋ねもの」の彼女の存在に気がつく可能性も高い。
 しかしそれを補ってあまりあるものが、王都には存在するはずだった。他でもない、黒宰相ルーカス・グリジアその人が。
 3年前の冬。そしてこの間の出来事と。
 ――あたしはまだ、あの人に一言もお礼を言ってない。
 長い間、テラは育ての親であるギルドの頭領から、グリジア王家の人間の非道さ――特にシリウス3世と宰相ルーカスの非情さを聞かされ続けていた。そんな日々の中で、テラが漠然と想像で作りあげてきた<黒宰相>像と、現実に彼女が目にしたルーカスの姿はあまりにも違う。
 会ってみたい。そして、できることなら聞いたみたい。この目で見て、確かめてみたい。
 ――私の目に映る貴方の優しさと、かつて仲間であったはずの母を裏切り殺した貴方。
 どちらの貴方が本当の貴方なの、と。



 夕刻間近に居所を構えた一団は、王都の人々から、思いも寄らぬ歓迎を受けることとなった。彼らの訪れを首を長くして待っていたという観客達に、新たな一座の仲間として紹介され、テラは当初、かなり戸惑ったり驚いたりした。
 こんな時、戦闘者のギルドというごく限られた場所で、復讐と憎しみだけを植え付けられて育った自分が、どれほど世間知らずであるかを思い知らされる。
 他人の目を欺く以外の芸の価値など、テラは誰にも教えられてはこなかった。
「……座長」
 着替えを終え、化粧も落としたテラがその天幕を訪れた時、老いた女は葉巻煙草を煙らせながら、まっすぐに前を見ていた。まるで、テラが来ることを見越してでもいたようだ。ごく薄い靄のような月光の下で、薄紫の煙が筋になって漂っている。
「今晩、出掛けてきたいのですが」
 この一座に拾われて以来、彼女と相対したのは数える程度の数でしかない。だが踊り子や芸妓の夜は基本的に、彼らが所属する一座の長のものだ。場合によっては客の寝所に侍ることもある立場であり、またそうして「所属」することで、我が身1つで世を渡る女達は「安心」を買う。まったくの1人きりで生きていける程、この世は甘くはないのだから。
 テラの言葉に女は静かに頷いた。動きに合わせて、豊かな灰白色の髪が揺れる。顔立ちは端正で、体つきも牝鹿のようにしなやかだが、目の脇や口の横に幾筋もの皺が、彼女が過ごしてきた歳月の軌跡を、残酷なまでに浮かび上がらせている。
「気をつけてお行き。――あんたに女神イージスの加護があることを」
 空に向かい薄紫の煙を吐き出しながら、祈りの言葉を紡ぐ。
 月と夜の女神イージスは、グリジア王国に古くから伝わる、音楽と舞踏の神の名だった。



 王家の森の上空に、どこか刃物にも似た薄い月が浮く。
 生い茂る木々の葉はほのかに色づき、その合間をぬって降り注ぐ月の光は、人の足下を照らすにはあまりにもささやかで頼りない。
 月明かりの他に光源のない森の中を、灯火も持たずに歩き続けた人影が1つの小屋の前で歩みを止めた。ひっそりとたたずむ森小屋の内側に揺れる火影を見つけ、怪訝な顔で戸を引き開ける。
「――どうして、お前がここにいるんだ」
「ここにくれば、会えるかと思って」
 テラの言葉に、ルーカスは眉間に皺を寄せることで返答した。小屋の中で膝を抱えたテラは、返す言葉の見つからないルーカスを真っ直ぐに見つめ上げる。
「会いたかったから来たの。それでは駄目?」
「いや、何も駄目だというわけではないが……」
 この場所にとっての闖入者(ちんにゅうしゃ)はテラの方であるはずなのに、ルーカスの方がしどろもどろしているところが、何だかやけにおかしい。
 こうして見ると彼もただの若者に過ぎず、巷(ちまた)で噂される冷酷な宰相像も、テラが聞かされ続けてきた「黒宰相」像も遠くへ消えて行くのを感じた。
 恐らく、母と共に幼少期を過ごしたというこの小屋は、彼にとって唯一の風穴なのだろう。ここに来れば、息を吐くことも心を休めることもできる。
 しばらく困ったような顔でテラを見た後、ルーカスは壁に背を持たれてずるずると座り込んだ。
 決して広くはない小屋の対角線上に、2人で黙って座り込む。壁の隙間を通り抜ける冷えた夜風が、心地よい。
 ふと、その中に異質な匂いをかぎ取った。
「お酒……呑んでるの?」
「1つ、いいことを教えてやろうか。これは、王宮内でもごく一部の人間しか知らない、極秘事項だぞ」
 おどけたように言って、ルーカスは笑った。
「この国の宰相殿は、酒に弱い。飲むとすぐに眠くなる体質から他国の賓客を招いた宴でも酒は一滴だって口にしないそうだ。しかもそうして寝てしまうと、ちょっとやそっとじゃ目が覚めない。だから――」
 そういえば初めて会った時もそうだった、とテラは思った。ルーカスはまた、いつかのように暗い泉の底を思わせる黒光りする目で、まっすぐにテラを見る。
「寝首をかくなら、その時がねらい目だ」
 言っていることの重大さに反して、口調はあくまでも飄々と軽かった。取ってつけたような快活さがかえって不自然に感じられ、テラは眉をひそめて彼を見た。
「……何か、あった?」
 その言葉は、テラが意識した以上の効果をもたらした。ルーカスは口をつぐんで、視線を逸らした。虚空を見て、唇を噛みしめる表情が痛々しい。
「何も。……どうしてだ?」
「だって――」
 確かに笑っているはずなのに、一瞬、どうしてか彼が泣いているように見えた。
「一度は、止めたんだ」
「え?」
「……ギルドの連中は誇り高い。何者にも屈せぬかわりに義理も忘れない。あえて王宮に取り込まなくとも、こちらを裏切ることなどないと、シリウスにそう言った」
 5年前、シリウス3世を国主として仰ぐ条件に、王宮の人間はギルドを完全に傘下におさめることを要求した。戦と暗殺を生業とする集団をこのまま野に放ってくことは、虎に羽をつけて野に放つことと同じである、と。
「そんな、どうして――」
「万が一ギルドが王宮と敵対すれば、それは国の壊滅を意味する。ギルドが王宮に入ることを拒んだあの段階で……排除する必要があった。だから、命じた。<戦乙女>だけは、決して生かして王宮から出すなと」
「そんな……」
 いずれは誰かに殺されることくらい、母も覚悟をしていただろう。戦闘者のギルドに生まれるということはそういうことだと、遠まわしに教えられたこともある。
 しかし、そんな覚悟はしていなかったはずだ。国の未来を信じ、力を貸し与えた仲間に裏切られ、だまされて命を奪われるなどということは。
 音が鳴るほど、強く奥歯をかみ締めた。テラの懐から引き抜かれた短刀の切っ先が、ゆっくりとルーカスを捕える。柄に龍を刻んだ、戦闘者のギルドの短刀ではない。今宵王都で、テラが自身の意思で買い求めてきたものだった。
「母さんを殺したことを……、悔いてはないというのね」
 ――どちらの貴方が、本当の貴方なの?
「お前の言った通りだよ」
「え?」
「俺が殺した人間は、お前の母親だけじゃない。数なんか覚えちゃいないし、中には顔さえ知らなかった奴もいる。それを殺してきたんだ。この手で。何人も、何人も」
 そう言って、ルーカスは掌を目の前にかざして見せた。
 以前、彼はその口で、国とは化け物の一種であると言い切った。ならばその化け物を操るこの男は何者だ。化け物をさらに上回る、化け物使いの親玉か。
 テラが近づいても、ルーカスは逃げようとはしなかった。軽く腕を開き、2人の距離が縮まるや否や、まるで待ち望んだものを手に入れたとでもいうかのように、強く腕を掴んで引き寄せる。
ほんの一瞬の空白。吐息が混ざるほど近くで目を見交わす男女の姿は、どこか、恋人同士の抱擁にも似ていた。
「お前……」
 がつり、と鈍い音がして、小屋全体が軋んだように揺れた。ルーカスの顔の間近、ちょうど耳の位置の壁に、刃は深々と突き刺さる。息を切らし、非常に近い位置から自分を見下ろす娘の翠の目を、ルーカスは呆然と見つめ上げた。
「どうして――」
「……あたしは、あなたを許さない」
 どれほど無念だったことだろう。母にはまだ、遣り残したことも伝え残したこともあったはず。何よりも、一番重要なことをテラはまだカウラから聞いていなかった。
 なのに――母を殺したその男を目の前にして、どうしてこうも心が揺らぐ。
「だけど、あなたには……借りがあるから」
 そうだったな、と男はつぶやき、唐突に目の前の背に、力強く腕を回した。小さく悲鳴をあげ、引き離そうともがく体を腕づくで床にねじ伏せ、その耳元に熱を落とす。
「……ならば今、あの時の借りは返してもらうか」
「――えっ?」
 振り上げた両手を捕らえられ、頭の上で掴まれる。近づいてきた唇を避けようと顔を背けると、顎を掴まれ、強引に引き寄せられた。合わせられた唇が離れるたび、透明な筋が糸を引いて流れ落ちる。
 背中のほうで、布の裂ける音がした。無理な体勢に耐えかねて、糸の何本かが切れたのかもしれない。
「離して!何を考えて――」
「……最初に言い出したのは、お前だ」
 元結の紐を解かれ、深紅の髪が宙に舞う。引き裂かんばかりに胸元を広げられ、露になった肌に触れる夜気の冷たさに、彼が望むものを明確に知る。
「い、嫌っ!」
「借りを返しさえすれば、お前は躊躇いなく俺を殺せるのだろう」
 ――違う。
 必死で伸ばした指先が、酷く冷たいものに触れた。釘――いや、正確にいうならば何かの留め具の一種だろう。わずかに触れたその先端が鋭く尖っているのがわかる。
 もみ合えば力で男に負けても、テラはただの娘ではない。
 人の体には、いくつかの急所がある。最たるものが首の後ろにあるいわゆる<ぼんのくぼ>だ。細い針の一本でもあれば、子供でも、大の大人を倒すことができる。
 何度目かの口付けの後、体を離し、真上からテラを見下ろすルーカスの目。狂おしいまでに燃える瞳に引き込まれそうになりながら、テラは手の中の金属を握り締める。
 抵抗をやめたテラを無言で眺めた後、ルーカスは彼女の首筋に顔を埋めた。体にかかる重みと、肌にかかる息。荒々しく体を這い回る掌の感覚に飲まれそうにながら、テラは自分を組み敷く男の首筋にゆっくりと腕をまわす。
 迷う必要などない。この一突きで、すべてが終わる。帰らぬ母を待ちながら、黒宰相を憎み続けた日々。恨みも憎しみも、悲しみも……この胸の痛みも。
 これで、終わりになる。
 ――そのはずだ。





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