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暁の彼方〜第四章 光と影〜




 薄い絹のカーテンを通して、舞い上がる水の飛沫が見える。窓を吹き抜ける風の息吹は、季節の変遷を伝える秋の風だ。
 安楽椅子を揺らしながら、女は柔らかな手つきで、自身の腹部を撫でる。通常よりやや膨らみかけたその箇所は、確かに、新たな命の芽生えを感じさせた。
「腹の子が、夫の子かそうでないかわからないなんて……どうしてそんな中途半端なことを言ったんです」
 女の傍らに立ち、窓から外を見ていた男が振り返って彼女を見る。
 本来、王の正妃の地位は、自国の貴族か他国の王族の為にあり、レノラは王妃にふさわしい身分とはいえない。しかし武力で国を制圧したシリウス3世に、娘を差し出す重臣がいないと見るや、宰相ルーカスはレノラと新国王の婚儀を強行した。
 この婚礼に、国の民は歓喜する。新王は身分や地位にはこだわらない。本人に質素ありと判断すれば、妃とて血筋にかかわらずに選ぶのだ、と。
 頼るべき縁者のいない下級貴族の娘から、一国の王妃にまで上り詰めた女。王妃レノラは、自身の下腹部から視線を逸らさずに呟く。
「だって、夫の子ではない、などと言ったなら、この子は処分されてしまうでしょう」
「だが、あなたの相手はルーカスではない」
 断言するグレイの口調に、レノラは初めて顔を上げて彼を見た。その迷い子のような瞳に、グレイは一瞬、戸惑いを感じて後ずさりする。王妃レノラの淡い水色の瞳には、男の庇護を求めずには生きられないような――おおよそ世の男という性ものすべてが持つ<征服>の欲をそそるような、儚げな魅力がある。かつて希望と自信に満ちあふれ、この世界に自分にできぬことなどないと信じていた皇太孫シリウスが惹かれたのも、彼女の持つ、この頼りなく儚げな雰囲気だったのではないか。
 しかしこの儚く頼りない妻は、夫を現世につなぎ止める錨(いかり)にはなりえなかった。彼女だけでない。グレイもルーカスも――シリウス3世に夢を託し、彼を支えることに人生を賭けた者たちも、彼を引き留めることはできなかった。
「……そんなことをしても、あいつは、貴女の気持ちには気づきませんよ」
 シリウス3世に嫁ぐ以前、当時19歳のレノラはわずか15歳のルーカスに一途に思いを寄せ、そしてルーカスはその気持ちに、まったく気づいてはいなかった。知っていて知らぬ振りをしているのではない。本当に想像さえしていなかったのだ。
 そういうことにかけては、ひたすら鈍い奴だ。政治に関しては人並み外れて鋭い男だが、こと色恋沙汰に関してはてんで鈍い。これまで、彼に気がある貴族の娘達が行動をしかけてきたことはあったが、まったく微塵も気づきもせずにやり過ごしてきた。
「そうでしょうね……」
 女は微笑む。記憶にある5年前の彼女より、すこし痩せた頬に、ふくらみかけた腹部を見つめる微笑が優しい。
「お願いだから1人にしないでってわたくしが何度引き留めても、その間ずっとあの人の話ばっかりなんですもの」
「……」
 彼女のいう<あの人>が誰を指すのか、すぐにわかった。王妃の間から扉一枚隔てた向こう側には、彼女の夫でありこの国の王でもある1人の男が、かれこれ4年近く、季節の移ろいから遮断された時間を生きている。
 王妃の間からその部屋へ向かうには、扉一枚開ければ良い。したがって王妃が国王と寝所を共にする時には、他の妻を召す時のように、先触れも口上も必要ない。
 シリウス3世は、この4年間彼女と床を共にしたことがあったのだろうか。
 ふと、友の為に弁明をしてやりたくなり、だが言葉が見つからずに、口を閉じる。レノラは、グレイを見てはいなかった。
「黒宰相は……ルーカスは」
 女は窓の外を見る。淡い青色の双眸は、そこで飛び交う水の飛沫も見てはいない。
「4つも年上の<甥>の妻が、自分にずっと思いを寄せているなど、想像もできない。そういう人ですものね」



 黒宰相ルーカス・グリジアは、その日、払暁(ふつぎょう)と同時に目を覚ました。グリジア王国王宮内にある、宰相官邸の自室でのことである。
 官邸とはいっても、住人はルーカス一人、使われている部屋はごく一部に過ぎない。客室の多くや厨房は閉鎖中だ。ちなみに政務におわれて自邸へ帰ることができず、表玄関が蜘蛛の巣まみれになっていたという噂話は、真実である。
 王妃レノラによる「告発」から5日あまり、ルーカスはこの自邸で謹慎という形で過ごしていた。夜になると政務の判断を仰ぐ役人や官吏が訪れたり、グレイがやってきてひとしきりしゃべり散らして帰っていったりしたのだが、大方はいたって退屈な毎日だった。最初の2日で日ごろの睡眠不足を補った後は、毎朝、夜明けと同時に目が覚める。
「……本当は、こんなのどかに過ごしている場合じゃないんだろうけどな」
 起き上がったばかりの寝台に、再び横たわり、両手を頭の下に組んで天井を見上げる。
 よりにもよって、王妃との密通を疑われたのだ。下手をすれば処刑……そうでなくとも、何らかの処分は免れまい。グレイや王妃付きの女官長が、妊娠の為に精神を乱したが故の妄言だとして、何とかとりなそうとしてくれているのは知っていたが、ルーカス自身には弁明の機会さえ与えられなかった。
 なのに今、何もかも、どうでもいいように感じるのは何故なのだろう。
 望まずに、半ば押し付けられるようにして手にした権力の地位ではあったが、彼なりに、最善を尽くしてきたと言い切る程度の自負はある。よってルーカスの歩んできた道の傍らには、屍の山が築かれたが、それもすべて負って行く覚悟はできていた。しかし。
 すべて崩れる。壊される。それも、こんな根も葉もない醜聞で。
 ――大体、女なんて、もうどれだけ抱いていないものだか。
 最後にグレイに連れられて娼館に行ったのは、一体どれくらい前のことだったか。5ヶ月や6ヶ月ではきかなかったように思う。もっともその時だって、泊まったのはグレイ一人、ルーカスはさっさと帰城して、机に向かって書類を片付けていたのだが。
 勿論、彼とて男である以上、健全な欲求がないわけではないのだが、一時の快楽(けらく)に酔って溺れてしまうには、ルーカスの抱えるものはあまりに大きすぎるのだ。
 ――女なんて……か。
 再びそう思った瞬間、一瞬、ひどく赤いものが目の前を通り過ぎたような気がした。頭を振って追い払おうとしても、残像は残る。だからルーカスは目を閉じて、その赤が溢れるままに任せていた。
 その時、不意に窓の外が騒がしくなり、自堕落に朝寝を決め込んでいた若者の部屋の戸を打った。のろのろと身体を持ち上げ、ルーカスは自室の入り口を開く。
 ――処分が決まったか、あるいは。
 いずれにせよ、行き着く先の選択肢が増えるわけでもない。しかし、そこに現れた老女の顔を見て、ルーカスは言葉を失った。
「エリザ?どうして、貴女が……」
「ルーカス様!大変です。サランさまが!……突然、お屋敷に兵がやってきて、サランさまを連れて行って!お願いです、どうか止めてください!」
 



 冷たい石の床には苔が生し、長い月日を経て削れたその隙間からは、水が滴り落ちている。さび色に光る、鉄の格子。幾年にもわたり、王宮の罪人を捕らえ続けたその場所に塗りこめられた怨嗟の色は、身震いするほどに、どす黒い色をしている。
「母上」
 格子で遮断された房の内側で、女が、のろのろと頭を持ち上げた。
「誰?」
「……あなたの、息子です」
「嘘よ。わたくしの子はまだ小さいもの。あなたみたいな大人じゃない。あなたなんか知らない。……ねえ、ルーカスは?わたくしの可愛い子は、どこ?」
「……」
 母が子供を愛せなかったこと。それ自体は無理も無いことだと、ルーカスは思う。
 生まれた国を滅ぼされ、身一つで他国の王宮に連れられ。国王の慰みものとされて息子を生んだ時、彼女はまだ、15でしかなかった。今のルーカスよりもまだ若い。
 彼女自身が、まだ子供のようなものだ。王家の森に押し込められ、王宮の男たちの囲われものとして過ごす日々の中で、原因となった子供を憎んだとしても、誰が彼女を責められようか。正直、あれほど疎みながらよく殺さずに生かして……育てたものだと、我が事ながら感心しないでもない。
 だから、やりきれないのは、むしろ今だ。
 彼女の中で、どういう誤変換があったか知らないが、愛するわが子と2人で王家の森で暮らしている幻影に浸り、どれほどわが子を愛しているかを声高に叫ぶ母親を見なければならない、今だ。
「……一体、何があったのですか」
「――おや、このような場所に、宰相閣下がどのような御用ですか?」
 牢の壁に反響し、高い声が耳を打つ。ぎょっとして振り返ると、裾の長い法服に身を包んだ一人の男が、わざとらしく目を見開き、ルーカスを見ていた。
 男の背後に幾人か、剣を帯びた人間達の姿が見える。宮殿の兵ではない。恐らく、この男が金で雇っている護衛だろう。
「このような罪人に近づけば、御身が穢れますぞ。何しろあなたは、我々諸官の筆頭であらせられる」
「……法務庁の長官が、牢獄に用があるとも思えんがな。答えろ。この女が、何をしたというんだ?」
「この者は、月英の間諜(かんちょう)です」
「何だと?」
 西の新興国家、月英。もとは遊牧を生業とした民族の一部族が、強力な騎兵部隊となって周辺部族を統一したことから始まる。グリジアや隣国のサイファとは言語体系が異なり、民族的にも血統的にも相容れない。
「今朝、王都で月英の息を受けた商人が囚われました。その者が吐いたのです。こっそり我が国の宮殿に出入りして、異国の花を持ち込むことを隠れ蓑に、情報を流していた、と」
 ――太陽の花、だ。
「恐れ多くも先の陛下の閨に侍ることを許された身でありながら、異国と通じ、この国の内情を敵に知らしめるとは、何たる罪でしょうな」
「……」
「現王陛下は即位のみぎり、後宮の整理をなされています。王宮内に残されたのはこの女1人。陛下の温情に仇なす行為には、命をもって償うしかありますまい」
 この女にそんな大それた真似ができるか、その言葉をかろうじて飲み込む。男の口の端に何もかも知り尽くしたような――どこか底の知れない表情が浮かぶのを見たからだった。
「この女の後見は、宰相閣下、貴方様でしたな。もしも貴方がその責を負うて地位を退かれるとおっしゃるのであれば……私も力をお貸しできるのですが、ね」
 ただ1人、宰相の罷免を行うことのできる王が動かない以上、ルーカスを国政から追い落とすには、自らの意思で位を捨てさせるしかない。ましてや現在、王妃との密通を疑われて謹慎中のルーカスならば身の証をたてるために、宰相を辞任したとしても不自然ではなかろう。
 一瞬、王妃レノラの青白い頬が脳裏に浮かんで、消えた。まさか、彼女がそこまで考えていたとは思われない。むしろこの機会を好機ととらえた男の作戦勝ちだろう。
「俺が断る、と言ったなら?」
「証拠は、既にあがっているのですよ。次の評議会ででも公表しましょうか」
 例え位を失わなくとも、王妃との密通を疑われ、身内に他国の間諜を持った宰相についてくる人間はいるまい。実質上の失脚だ。
 格子の向こう、漆黒の瞳を明後日の方角にむけ、目の前の胡乱な現実ではなく、そこにいるはずのない幼子を探す女の姿に目をやりながら、ルーカスは笑い出した。
 ――誰も剣を持たなくてもいい国が欲しいと、彼(か)の人は言った。
 真実、その誓いが果たされると、信じていたわけではない。ただあの頃のルーカスは、その言葉にすがりつかなければやっていけなかったのだ。
 死んでいった者との約定は、もはやそれを取り消すことができないからこそ、人の血肉に絡みつく。
 ――この国はまだ、彼女に約束した姿になっていない。
 唐突に笑いだしたルーカスの表情に押されたかのように、男たちが身じろぎした。ルーカスが手を伸ばしても、さすがに地位を慮ってのことか、立ち向かってはこない。そのうちの一人の腰のものに手をかけて、鞘ごと有無を言わせず、引き抜く。
「何をなさる?!」
「俺が、剣の扱いを知らないとでも思ったか」
 剣の重みは腕になじみ、装飾を施した柄の感触にもいささかの違和感もない。宰相は基本的に、宮殿内で帯刀しない。ごく一部の近臣をのぞけば、彼が剣を扱うことができることを知る者はいなかった。
「――陛下」
 振りあげた剣の先が弧を描く。と、その視線の向きがかわった。彼らの背後に取り残された女の口から零れた言葉の大半は、意味のない台詞の羅列に違いない。その瞬間、ルーカスの顔色が変わったことに、気付いたものはいなかった。
「陛下……、陛下、いつのまにここに?」
 先王シリウス2世の末子にむかい、「陛下」と呼びかけた女から視線を逸らし、<黒宰相>は自らを取り囲んでいる男達に向き直る。
「――それほど、俺が邪魔か?ならば、教えてやろう」
「宰相閣下――」
「本当に邪魔な人間というものは、こうして消すものだ」
 振り向きざまに鞘を抜き去り、ルーカスは剣を振り上げた。






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