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暁の彼方〜第三章 波乱〜




 テラが旅芸人の一座に帰りついた頃には、既に黄昏はその色を失い、夜の帳が降り始めようとしていた。
 天幕の側から、何かを煮炊きする匂いがする。テラの気配に気づいたのだろう、焚き木の脇で鍋をかき回していた少女が、顔を上げて微笑んだ。
「――テラ、遅かったのね。お帰りなさい」
 一座の最年少、リディスはまだ15歳の踊り子である。6年前、先の王が倒れた時の争いで双親をなくし、その後、旅芸人の一座に拾われた。一体どういう基準があるかは知らないが、座長の芸を見極める目は正確だ。どちらかといえばあどけない風貌に似合わず、いったん舞台に立つと、テラが息を呑むほどの舞を見せる。
「なかなか頼まれたものが見つからなくて……他の人たちは?」
「オウカはこの近くに友達がいるんですって。座長とダワは、領主様のお館に、興業の許可をもらいに行っているわ」
 ――領主。
 その言葉に、1人の男の面影を思い浮かべる。彼は優秀な領主であるという。地の端々まで目を光らせ、通商を手厚く保護して街を富ませた。確かに、それほど規模が大きいわけでも、地の利に恵まれているわけでもないにも係らず、彼が治める街は、テラがこれまでに目にした、他のどんな街よりも活気があった。
 テラは帰り道、それとなく街の人々に彼らの主の評判を聞いて回ったが、誰一人としてルーカスを悪く言うものはいなかった。王妃との密通疑惑について話を向けられた酒屋の店主は、「そんなもの、ただのデマにすぎねぇ」と笑い飛ばしてみせた。
 一座が天幕を張った樹の下で、2頭の馬がゆるりと草を食(は)んでいる。その口元に置かれた甕(かめ)に水を注ぎながら、リディスはテラを見た。
「あら、その布どうしたの?綺麗ね。ちょっと見せて――」
「え、あっ!」
 髪を覆っていた布を奪われそうになり、テラは無意識のうちに手を伸ばして、布地を引き止めていた。間を置かず、何本かの糸が同時に切れたような音がする。まずい、と思ったのは恐らくテラもリディスも同時、しかしその時にはすでに遅く、布地が半ば近くで縦に裂けた。
 ほんの一瞬の出来事。夕闇と同じ色をした薄い布地は、端切れとなって空を舞う。
 風を受け、深紅の髪が翻る。戒めるものを失い、宙をさまよう髪を撫で付けることもできず、テラはしばし呆然とする。もともとが、市場の物売りが売っていた程度の飾り物だ。織目も粗く、縫製も拙い。しかしあまりにもあっけなく破れた布の存在が、あの男と自分の間に横たわる、縁(えにし)の脆さを象徴しているかのように思えた。
「ご、ごめんね!そんなに大切なものだなんて知らなくて。あ、もしかして良い人にもらったもの?」
「そ、そんなんじゃ――」
「大丈夫よ。上手く繕えば、なんとかなるわ!」
 今にも走り出そうとする少女を、首を振って引き止める。破れた布を握り締めながら、これでいいのだ、という気がしていた。
 ルーカスはテラを捕らえなかった。彼女の身を案じて、この布を与えてくれた。
 例え戦闘者のギルドから離れても、今なお、黒宰相はテラの敵だ。母とその仲間を利用して、だまし討ちにした、殺しても飽き足らないほどに憎い……憎いはずの、仇。
 そんな男の気まぐれに惑わされて、心を乱してどうする。こんな布の1枚や2枚で、殺された母の恨みは晴れやしない。
 こんなことで心をかき乱されるようだから、討てる仇も討てやしないのだ。
 ――こんなことで。こんなことが。
 握り締めた掌に、爪が食い込む。
 何故、これほど胸に痛い。



「――ルーカス、どこにいるの?」
 降り注ぐ日射しの強烈な照り返しが、本来なら白いはずの石屋根の表面を暖かな真珠色に彩っている。生い茂る草木の緑に向け、吹き上げる噴水の水飛沫から伸びた虹の色は、赤青黄色の見事な三色模様だ。
 女は芝生を踏みしめて、両腕を目一杯に伸ばして声を張り上げる。
「どこに隠れたの?わたしの可愛い坊や」
 さくり、と草を踏み分けた褐色の足に、一筋朱色の筋が走る。あらぬ方向へ差し出された彼女の細い指の先では、黄金色の花弁が無数に輝いていた。
 太陽の花。またの名を向日葵(ひまわり)。その昔グリジアとの戦いに破れ、征服された国の国花であったという、祝福の花。
 ――母が壊れ始めたのは、一体いつからだっただろう。
 植え込みの影から女の姿を見つめながら、若者は漆黒の瞳に過去を巡らせる。
 黒宰相ルーカス・グリジアの母は、かつてグリジアに滅ぼされた西方の小国の出身である。奴隷として宮廷に仕えるうち、その美貌がシリウス2世の目にとまり、15の歳にルーカスを生んだ。奴隷であれ亡国の女であれ、王子を産めばそれなりの権を得ることはできる。そんなことにも考えのまわらぬ、愚かで善良なだけが取り柄の娘であったらしい。
 その14年後、ルーカスは皇太孫シリウスに見いだされて王宮に迎えられた。同じ時、彼女もまた、シリウス2世の最下位の侍妾として王宮に召し出された。
 あの頃、皇太孫シリウスやその周囲の若者達、そしてギルドの人間達と国のありようについて憤り、語り合い、そして夢を見ていたルーカスは、ろくに教育も受けぬまま子を産み、そのまま現実から深く隔絶した森奥で生活していた母が王宮で感じたであろう孤独を、苦悩を、気づいてやることができなかった。彼女がもうどうしようもないくらいに壊れ、ようやく異常に気づいた息子が母親を王宮から引き離し、王家の森の近くの屋敷に移した時には、すべてが手遅れだったのだった。
「――ルーカス様」
 不意に、背後から名を呼ばれ、ルーカスはゆっくりと振り返る。両手一杯に太陽の花を抱え、穏やかそうな笑みを浮かべた老女が、どこか気遣わしげな瞳で彼を見ていた。
「……珍しい。いらしていたのですね」
 名をエリザという。ルーカスの母の、身の回りの世話をしている老女であった。皺だらけの顔に下がった目尻。見事にまん丸な顔の輪郭に、ふっくらとした唇の線が温かい。
 ふと、彼女が同じ顔、同じ声で自身の孫をあやしている光景を思い浮かべた。その想像が唐突に、泣き出したいくらいの郷愁をもたらして、ルーカスは思わず口の端を持ち上げる。
「母が花を?」
「ええ、ルーカス様にお見せするのですって。お生まれになった国のお花ですものね」
 ルーカスも母も、その国の景色さえ知らないのであるが。
「そうですか」
「ルーカス様?」
「もしも、あの女(ひと)が……」
「え?」
 老女の言葉に、若者は苦い笑いを浮かべて左右に首を振った。
「いえ、何でもありません。……俺は、宮城に戻ります」
「お会いになって行かれないのですか?」
 今度こそ、ルーカスは本当に失笑する。
「――会っても、あの人には、俺が誰だかもわからないですから」



 ――まさかあなたの口から、そんな言葉を聞くことになるとは思わなかったわね。
 あの時、羨ましい、と正直な想いを口にしたならば、彼女はどんな反応を返してくれたのだろう。
 あの街で自分が殺した女の娘と出会ってからというもの、ルーカスは考えていた。相変わらず政務に忙殺される日常を送りながらも、いつも頭のどこかでは、そのことばかり考えていたといってもいい。
 どこにもいないわが子を探しながら、目の前にいる息子を見ない母。愚王として逝った「父」。そして、その他大勢の兄弟姉妹と、親族と。
 誰もが尊(たっと)ぶ血の繋がり。家族の絆。
 彼にとってそれは、呪縛であって愛ではない。ただの一度たりとも、それが彼に暖かかったことはなかった。
 だからなのだろう。純然たる憎しみを瞳にたぎらせて、自分に向かってくる彼女に対し、どこか、羨望にもにた感情を抱いてしまうのは。
 考え出すと、気の滅入ることばかりだ。一瞬、自分の過去が取り返しのつかない失敗の連続であったような気がして、ルーカスは目を閉じた。そして再び瞼を上げた時には、「宰相」の顔になって目を見開いていた。
 王家の森を見下ろす丘の上、金色の花で彩られた一本道に、見慣れた――だが、この場にはあるはずのない人間の顔を見つけたからだった。
 額に大汗をかき、土埃を上げながらこちらに向かって走ってくる。腰にぶら下げた長剣が、彼が地面を蹴りあげるごとに、大きく上下に揺れて音を立てる。
 ――近衛騎士隊長グレイ・クレスタの顔だった。



「……なんだって?」
 その声があまりに怪訝そうで、信じられない、という響きを帯びていたので、グレイはようやくほっとして息を吐いた。ここまで駆けてくる間、自分がほとんど息をしていなかったことに気がついた。
「グレイ、ふざけるなよ。王妃の診断結果なら、今日中に俺のところに回ってくることになってるんだ」
 王妃レノラが医師の診察を受けることを承諾したのは、昨日の午前中のことだった。王宮内は、昨日からその準備で大わらわだ。そのおかげで、ルーカスは誰にも気づかれずに宮殿を抜け出して、母親の住まう館に向かうことができたのであるが。
「だから、王妃が告白したっていうんだよ」
 若き近衛隊長は、「親友」の顔になって髪をかきむしる。目を見開いている友人の素朴な驚き顔に、これ以上言葉を続けることが辛かった。
「王妃は確かに懐妊している。だがここまで隠してきたのは、故なきことじゃない。懐妊がわかる前、王妃はある男に辱めを受けた。腹の子の父親が夫であるかその男であるかわからなかったからだと言うんだ」
「……」
「王妃に対し、無礼を働いた男というのが……」
 ――黒宰相ルーカス・グリジアであると、彼女は告げたのだった。






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