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暁の彼方〜第三章 波乱〜




「――兄ちゃん、安くしとくから1つどうだい」
 威勢のよいかけ声と同時に、若者の懐にむけ、黄金色の果実が投げつけられた。難なく片手でそれを受け止めた青年は、苦笑いと共に小銭を取り出す。
 おやずるい、こっちの方が甘いのに、と。果物屋の隣で、中年の女が声を張り上げた。今度来た時はそっちのを貰うよ、と声をかけ、ルーカスはのんびりとした足取りで露店の軒先を巡り歩いた。
 宰相ルーカス・グリジアは、先の国王シリウス2世の末子だ。14の年に皇太孫シリウスの手によって王族の末席に加えられ、北部と王都との州境に自身の所領を賜った。実際にはほとんど暮らしたことのない「領地」だが、それでもこの土地の統治は、完全にルーカスの手に委ねられている。
 だから6年前の革命の後、これはと目をつけた人材を、彼は盛んに自身の所領に召し上げてきた。
 いずれは国を支えるべき人材育成への布石。しかしそれからたった数年、官の整理を終えることもなく、シリウス3世があんなことになってしまい、結局、彼の計画は青写真のままで終わってしまった。
 遠くの山間から覗く黄昏色の太陽が、空を薄紅色に、露店の剥き出しの石床を暖かな蜜柑色に照らし出している。夕刻まではまだ間があるこの時間、市場を訪れる人々の影はまだ短く、その上を歩き回る鶏の鳴き声と、飾り物をうり歩く子供達の歓声が鮮やかに響く。
 王都からこの土地は、ルーカスのような若者ならば、馬を飛ばせば半日でつく程度の距離でしかない。しかし政務に忙殺され、自身の領地にさえ足を伸ばすことが出来ない領主の顔を知るものは、極めて少ない。
 ――誰も自分を知らない。その事実が、今のルーカスにはこの上なくありがたい。
「しかし、王妃様がご懐妊ってのは、本当なのかね」
「本当にご懐妊なら、目出度いことなんだがなぁ。未だに発表がないってのは、どういうことなんだい」
 ……こんな田舎にまで、その噂か。
 不意に耳に飛びこんできた町の噂話に、眉を寄せて歩みを止める。立ち止まった若者をちらと見据えはしたものの、路地で煙管をくわえた男たちの話題は、すぐに今年の麦のできや、羊肉の相場を語るものへと変わっていった。
「――兄さん、どうだい、いい色だろう?家で待ってる嫁さんに、土産に一枚、買っていかないかい?」
「悪いな、俺はまだ独身なんだ」
 色とりどりの布の入った籠を頭上に、少年は声を張り上げて市場を歩く。ルーカスは我に返ってかぶりを振った。
 近衛隊長グレイを通して、今日一日は、所領の屋敷に滞在すると伝えてあった。今晩一晩だけは、王宮に戻らなくとも、誰に咎められることはない。
 ルーカスが我知らず、解放された面もちで通りを見渡した瞬間――
 目の前で、鮮やかな朱色の髪が揺れた。
 その映像があまりに鮮烈だったので、彼は一瞬、幻を見たのかと思った。5年前、彼らが殺した女。3年前に彼が助けた女。現れては消えて行く、夢と幻の残像。
 その相手は、彼の視線に気づくや否や、踵を返して石畳の上を駆け出し始めた。一瞬、茫然(ぼうぜん)としてそれを見送ったルーカスはすぐに我に返り、彼女の後を追いかける。ルーカスとて決して足の遅い方ではないはずなのに、なかなか2人の距離は縮まらない。
 ようやくルーカスが彼女に追いつき、細い二の腕を掴み取って、家と家の隙間に引きずり込んだ頃には、2人とも完全に息が上がっていた。
「……おい!」
「……」
「こんなところで何をやっているんだ。お前はお尋ね者なんだぞ?!わかっているのか?!」
 壁とルーカスの間の狭い空間に挟まれて、テラはまともに怯えたような目をして彼を見た。その時になってルーカスははじめて、自分がとても細くて壊れやすいものに対し、ひどい乱暴を働いていることに気がつき、手を離した。
「……悪い」
 対するテラの方も、まさかこんな場所で、彼に出会うことになろうとは思っていなかった。
 旅芸人達の滞在している村から、物品の買い出しに近くの市場へ出た。市場を回る衛士や街を守る兵士の目が気になりはしたものの、むしろ今は、かりそめの仲間の疑いを招くことの方が、恐ろしくて。
 それに衛士の1人や2人なら、騒ぎを起こさずに振り切る自信もある。
 だけどまさか王都以外の、州都ですらない、こんな小さな街の片隅で、よりにもよって<黒宰相>と出会うことになるなんて。
「街に出るなら、せめてその目立つ頭を何とかしろ。衛士には手配書が回ってるんだぞ」
 その言葉に、違和感を覚えて若者を見上げる。ルーカスの口調には、テラに対する敵意も、捕らえようとする意思も感じられない。いや、これではむしろ――
 ……心配してくれている?
「……あたしは、殺してないわ」
「ああ、知ってるよ」
 極めて狭い空間に、様々な意味を持った沈黙が落ちた。その沈黙があまりに重くて、ルーカス1人ではとても支えきれないように見えて、何故だかテラは切なくなった。
 しばらく押し黙った後、ようやく気がついた、という風にルーカスは視線を下げた。未だ息の整わないテラとは異なり、彼の声はもう、平静と変わらない。
「手を汚さずに済むのなら、知らずに済むのなら、それに越したことはないんだ。……できることなら、やめておけ」
「何の話をして――」
「お前、まだ人を殺したことがないのだろう?」
「なっ……」
 断言され、テラは瞬く。そんなことを、誰かに言われたのは、はじめてだった。
 確かにテラはまだ、直接人の体に刃を突き立てたことはない。常に彼女の側にいた男が、それを許さなかった為だ。
 しかし、戦闘者のギルドに生を受けるということは、すなわち、人を殺(あや)めるということだった。例えじかに手を汚すことがなくとも、里の者が人を殺したその報酬で、日々の糧を得てきたのだから。
「……まさかあなたの口から、そんな言葉を聞くことになるとは思わなかったわね」
 母を殺した、この男の口から。
 テラの母だけではない。それ以外にも一体どれだけの人間を、この男はその手で殺してきたのだ?
 皮肉を交えたテラの言葉に、ルーカスは黙って眉を上げることで返答した。やがてまじまじと目の前の髪に目を向けて、深い溜息を落とす。
「……少し待っていろ」
 言うが早いが、テラの身体を押しのけるようにして狭い隙間を後にする。男の腕から解放されたテラは、壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
 鼓動が早い。片手でそろそろと触れてみると、頬が火照っているのがわかる。まだ息が荒いのは、久しぶりに思い切り街中を駆け抜けた所為だろう。
 言葉通り、ほんの数分で、ルーカスはその場所に戻ってきた。手に布の束のようなものを抱えている。近づいてくると、それは女が髪を隠すときに使う、スカーフの一種だと気がついた。
「……ルーカス?」
「被ってろ」
 ごく薄い、蒼とも緑ともつかぬ微妙な光沢を持った衣。わずかな動きに合わせてさらさらと流れ、布地を翳して目にした自分の髪は、確かに鮮度が抑えられ、目立つほどの赤でなくなっていた。
「帰るところはあるのか?」
 あまりに驚いたので、ただ黙って頷くことしかできなかった。
「できるなら馬車ででも送ってやりたいが、生憎、持ち合わせがないんだ。だけどそんなものでも、何もないよりはましだろう。安全なところに帰り着くまで、絶対にはずすなよ」
 それだけを言い残して、テラをその場に残したまま、石畳の続く彼方へ消えて行く。彼が立ち去った後の空間には、蜜色の黄昏と、先刻よりずっと濃くなった家々の影と、動くことの出来ないテラだけが残された。
 ――わざわざ、買ってきたの?……あたしの為に?
「変な人……」
 どう考えても、おかしい。訳がわからない。自分を殺したいほど憎んでいると知っている女を、こんな風に助けるなんて。
 ――何を考えているのだ、あの男は。
 だけどもっとおかしいのは、こんな風に呆けたように座り込んだまま動けない自分自身なのかもしれない。
 段々と小さくなって行くルーカスの背中を見つめながら、テラは無意識のうちに、布の端をきつく握りしめていた。
 赤々と燃えながら消えて行く太陽の下。最後の砦を死守する敗戦の将のように。
 ――強く、強く。





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