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暁の彼方〜第十五章 春の終わりに〜




「――許してなんかない、でもあたしはあの人が好きなの!!」
 火の粉が辺りを押し包むのと、刃が目の前をかすめるのとは、ほとんど同時の出来事だった。目の前に赤いものが散る。それが、首の後ろで結わえられていた自分の髪が散った感触だと気づくよりなお早く、全身が雪の上に叩きつけられていた。
 口の中に鉄の味が広がる。身体のどこかに浅からぬ傷を負っているはずなのだが、それがどこかさえわからない。頬に触れる雪の冷たさすら感じなかった。視界はすっかり白濁し、手にしていた得物の存在すら消えてしまっている。次に訪れる攻撃はかわせない。あたしは約束を守れなかった。押し寄せる暗い認識の渦に、思考が揺らぐ。
 さくり、と二つの脚が雪をかく。それでもせめてもの抵抗にと、かろうじて動く指先で雪を掴んで投げつけようとしたテラの頭上で、それは起こった。
「な……」
 刃を手に、テラに近づいていた男が、ゆっくりと振り返る。その視線の先に現れた人物にカイザックだけでなく、テラの瞳も見開かれる。
「――オウカ……さん」
「お前、まだあの男の命令を――」
 かつてテラを救った――そしてルーカスを救ってくれた、旅芸人の一座の女。オウカはかつて、戦闘者のギルドとして、先の頭領であるクラネットに、テラを守るようにと命を受けていた。クラネットのテラへの――いや、<戦乙女>への執着故のことだ。
 とはいえ、そのクラネットは既になく、戦闘者のギルドの指導者もその性質さえも変わってしまった。彼女が今なお、テラを守り通さなければならない理由はない。――そのはずなのに。
 かみ締めた男の口の端から、一筋、赤いものが糸を引く。彼にとっても意外な出来事ではあったのだろう。戦闘者のギルドの長ともあろう者が、背後の気配にまるで気づかなかった。
「……今の頭領は俺だ。あんな男の命令に、いつまで従う――」
「違うわ」
 ふ、と赤い唇が笑みを刷く。
「何……?」
「わたしはクラネットの命令を守ったわけじゃない。わたし自身の意志で、わたし自身の幸せために動いている、それだけのことよ」
 それはかつて、テラの母が娘に望んでくれていた願いだった。自分の意思で、自分の幸せを掴み取ることのできる人間になって欲しい。
 幸せになりたくて、幸せになって欲しくて、誰も皆、願うことはただそれだけのはずなのに、どうしてこれほどまでに実現することは難しいのだろう。
 引き抜かれた銀の龍の刃から、血が滴る。ほとんど噴出さんばかりの勢いで雪原を染めて行く真紅に身を委ねながら、テラは意識を失っていた。



「――お初にお目にかかります。宰相閣下」
 あの日、王宮の中心部へと向かう回廊で別れて以来、五ヶ月ぶりに向かいあったルーカス・グリジアの漆黒の瞳は、はじめて出会った時と変わらず、固く張り詰めて見えた。
 冷たく凍りついた夜の水面。
 どんな風にも揺れなければ、何を投げ込んでも、小波(さざなみ)一つたてはしない。
 けれどその湖面の奥底を覗き込んでみたならば、そこには痛みが、祈りが、悲しみが怒りが激情が――人としての感情のすべてが確かに息づいているのだと、テラは既に知ってしまった。
 市の統制が変わった。これまで通れなかった谷に橋がかかった。紆余曲折はあったが来春には、王家の血を引く息女がシリウス3世の養女となって、西の月英に降嫁する。
 旅芸人の一座に伴われて王都を離れ、負った傷を癒すかたわら、彼が<黒宰相>として、精力的に活動していると知った時には嬉しかった。あれほどその存在を憎んでいたはずなのに、そんな形でその男と繋がっていられることが嬉しくてならず、同時に辛くてたまらなかった。この期に及んでもなお、テラにはまだ、<黒宰相>として生きる選択をした男を許せる自信がなかったし、そしてそんな彼自身をルーカスもまた、許してはいないだろうという気がしたからだ。
 ――この世の誰より憎んできた人と、この世の誰より救いたい人が同じ人だった時、人は一体どうすればいいのだろう?
 しかし今、憎み続けた――想い続けた男と合間見えて、テラの胸に浮かぶ感情は、危惧(きぐ)し続けてきたものとは、まるで別のものだった。
 少し痩せて、顎から首にかけての線が鋭角になった。きっとこの五ヶ月の間に散髪したのだろう、別れた時には瞼にかかりそうだった前髪が短くなった。けれど鋭く寄せられた眉も、その間に寄せられた深い皺も、見方によっては、ほとんど怒っているようにさえ見える眼差しも、彼女がよく見知ったものだ。
 いつかの夜もそうだった。骨が鳴る程押さえられた手首の痛みが悲しくて、わたしは逃げないと示したくて伸ばした腕を逆に取られて、今度は全身が砕け散るかと思うほどきつく抱き締められた夜の苦しさや切なさやを、昨日のことのように思い出す。
 この人は、逃げなかった。テラには想像がつかないほど多くのものを背負いこみ、その圧迫感に、重責に、時に逃げ出したいほどの息苦しさを感じていたのは事実だろう。けれどルーカスは逃げなかった。逃げ出さずに立ち向かう道を選んだ。
 ならばテラ一人が、逃げ続けているわけには行かないだろう。だって、と優しい気持ちで、目の前の男を見る。この人は、土砂降りの雨の中、濡れるからと他人に傘を差しかけて、自分はずぶ濡れになって歩いていってしまう、そんな人だから。
 だからきっと、追いかけていって傘を差し出す人間が必要なのだ。必死に両腕を広げて、自分以外のすべてを守ろうとしているこの若者が、一時、濡れた身体を休めることのできる存在に、テラはなりたかった。
「……お噂は、かねがねうかがっておりました。お近づきになれて、嬉しゅうございます」
 鼓動は高鳴り、どんなに気持ちを落ち着かそうとしても、握り締めた拳が震えてしまう。けれど彼女の気持ちは、あやまたず伝わった。伝わったということがテラにもわかった。その瞬間、ルーカスの目の淵が緩んだのだ。それは多分、怒った顔も悲しい顔も、腹を抱えて笑った顔も見せてきた若者の、テラがはじめて見る<喜>の部分の表情だった。
「見事な舞だった。俺も近づきになれて嬉しく思う。どうか、名を教えてはくれないか」
 <戦乙女>の娘である限り、テラは一生、<黒宰相>を許せない。ならばもう一度。今度は、ただの一人の踊り子として。
「――テラ、と申します」
 この春の終わりに、わたし達は、もう一度ここからはじめられるはずだ。





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