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暁の彼方〜第十五章 春の終わりに〜




「――お前達、どうしてここに……」
 王家の森で傷を負った若者を、損得なく匿ってくれた、優しい人達。直接会って礼を言いたい思いはやまやまであったし、恩義も十分に感じている。宰相としての権を使えば探すことは不可能でもなかったが、今の自分が声をかければ、<黒宰相>の言葉になるのが嫌だった。彼らはルーカスがこの国の宰相だから、王の代わりを努めている人間だから、素性を明かすことのできない男を助けてくれたわけではない。
「――だから言ったでしょう。今日は必ず来てくださいって」
 気づけば館の女主人が満面の笑みで、横に立っていた。彼の素朴な驚きが、彼女にとっては実に満足な結果だったらしい。常よりも機嫌がいい。
「まったく驚いたわよ。あなたがあの行方不明の間、この人達と一緒にいたなんて、人間ってどこで繋がっているかわからないものね」
「どうして、貴女がそれを。いや、それよりも、何でこの人達が王宮の中に入れるんですか」
 通常、王宮の敷地に出入りするには特別の通交証がいる。それこそ、王家の森を抜けてでもこない限り、一般の――旅芸人一座などが出入りできる場所ではない。
「あら、ルーカス、知らなかったの?こちらのお方はね」
 若者の素朴な疑問に、王家分家の女主人は、掌を上向きにして一人の老女を示してみせた。
「先々王の御世の頃、王宮舞姫として王宮に仕えていらしたのよ」
 ――王宮舞姫。
 その言葉に、忘れたくとも忘れられない光景が脳裏に浮かび、ルーカスは咄嗟、頭を振って、その光景を追い払った。
「ねえねえ、、宰相閣下と知り合いだったって、もしかしなくとも、すっごいことよね!」
「リディス。王宮舞姫を目指すんだったら、自分の力で掴みなさいな。……誰か、みたいにね」
 少女を制した軽業使いの――否、戦闘者のギルドの女の眼差しに、意味深げな色が混じる。どくり、と全身の血液が脈打つのが、自分でもわかった。
 ――知っているのか、お前は、あの娘の居所を。
「でも、折角だもの。お近づきのしるしに……宰相閣下、この子の舞、見ていただけませんか?」
 何とも知れない鳥が数羽、頭上を歌いながら通り過ぎる。晩春の心地良い陽射しの下、昼日中の宴が、はじまろうとしていた。



 蛇使いの男の腕の中から、奇妙に郷愁を誘う調が、響いていた。西方の血を引くとは言っても、この国生まれのこの国育ち、ルーカスは母の故郷である西の大地を知らない。それでも同じ血を持つ男が奏でる演奏に、妙に郷愁をかきたてられるのは、血肉に刻まれた記憶、とでも呼ぶべきものなのだろうか。
 ふわふわと揺れる丈の長い布が地面に擦れる瞬間で、はらりと翻って天を駆ける。テラの舞を優美と呼ぶのなら、この少女の舞は可憐と呼ぶのにふさわしい。周囲の緑や花の色のあいまって、それは人の姿というよりは、純白の蝶が飛来する姿に見えた。
 そんなものを見るともなく眺めながら、視線は自然、脇へと逸れていく。……正直に言って、見たくなかった。今はまだ、踊り子も舞姫も、ルーカスにとっては痛すぎる。
「……そなたが、サランの子か」
 いつの間にか、傍らに寄ってきていた老女の言葉に、もともと良好とは言いがたかった機嫌の目盛りが、さらに悪い方へと増幅した。八つ当たりに等しいことは承知の上で、思い切り、眉間に皺が寄る。
 感情を殺すことには慣れていた。ともすれば噴出しそうになる激情も、常に胸底でわだかまって消えない悔恨も、凍えた微笑の下に覆い隠して生きてきた。なのに最近、自分でもそれが随分と難しくなったと感じる。
 悪い兆候、とばかりは言えないだろう。ならばそれが良い傾向なのかと問われれば、当の本人だって返答に困るのだけれど。
「――母を、ご存知か」
「二十年、いや、もう二十一年前になるか。一度、預かってくれないかと陛下に頼まれたことがある。……まあ、当の本人に断られはしたが」
「……あの人が?」
 ルーカスの記憶にある母は、自らの不幸を嘆くことしかできない、無力で無知で、そしてどうしようもなく、愚かな女だった。愛するよりも哀れむよりも、そんな、自分にもっとも近しい人間の姿を、見ていることが辛くてたまらなかった。自分自身の中にも同じ種類の弱さがあるのだと、否応なく、突きつけられているような気がしたから。
 しかしどうしてこうも親という存在は、子の人生につきまとって離れてくれないのか。王の子に生まれたことも、女奴隷を母に持ったことも、当の本人が望んだわけではないというのに、延々とまとわりついて離れてくれない。
「産後の身体で、生まれた赤子と引き離されたくないと、泣いて懇願するものでな。陛下もお聞き入れ下さって、結局は、子供と共に王家の森に……」
「――やめてくれ!」
 耳を塞ぐよりなお先に、がたん、とテーブルが鳴った。
 あの女(ひと)にも守りたいものがあった――。
 そんなことを今更聞いて何になる。俺は貴女を守りたかったけれど、貴女の守りたかったものの中に<俺>は含まれていましたかと、尋ねることすらできやしないのに。
 無意識に拳を握り締めた瞬間、目の前でひらひら舞い続けていた一羽の蝶が、唐突に二つに割れた。



 一羽の蝶が半ばで分かれ、二羽の蝶となって羽ばたきだす。それが、白い衣装を身に纏った踊り子の数が二人に増えた――そこにどんな仕掛けがあったのかは知れないが――のだと気がつくには、しばしの間が必要だった。
 身体の曲線が透けて見えそうなほど白い薄衣は、真昼の空の下では、淫靡(いんび)というより神聖に見える。そうまるで――、婚礼の儀式で、花嫁が身につける純白の衣装のように。
 身体の長さの倍はあるような、極端に長い袖が、若葉をかすめて空へ翻る。何度目かの動きの後、視界に飛び込んできた深い碧に、ルーカスの拳は行き場を失い宙に浮いた。
 はじめてであったのは、雪嵐に揺れる王家の森の中だった。
 二度目にであったのは、灯火が揺れる王宮の広間でのこと。
 その娘に出会うのは、荒れた空や薄暗い室内でのことが多かった。実際には、澄み渡った空の下で出会ったことがないわけではないのに、ほとんどその時の光景を思い出せないほどに。
 しゃらり、と踊り子の手で鈴が鳴る。いつしか視界からもう一人の踊り手――リディスの姿が消え、たった一つの存在以外、何も目に入らなくなっていた。あの時もそうだった。王宮の広間で、舞っている彼女を最初に見つけた時。<戦乙女>の娘だから、王宮に入れたわけではない。ただ、強烈に惹きつけられたのだ。彼女の立場も目的も何もかも、すべて凌駕するほどに。
「どうして、お前……」
 立ち竦んだ男に魅惑的な流し目をくれ、踊り子は柔らかく微笑した。その鮮やかな碧の瞳に認識の色が走る。ルーカスが何か言葉を紡ごうとした瞬間、旋律が鳴り止み、辺りを静寂が押し包んだ。肩の辺りで短く切りそろえられた深紅の髪を揺らしながら、踊り子は観客達の目前に跪く。
 うっすら、桜色に色づいた唇が開かれる。今ではすっかり耳に馴染んだ、けれどこの五ヶ月間、彼が焦がれ続けたその声音で。
「……お初にお目にかかります。――宰相閣下」





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