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暁の彼方〜第十五章 春の終わりに〜




 春が終わろうとしていた。
 長く厳しい冬を終え、山の雪解け水が低地の泉を潤しはじめる晩春の一時期、グリジアに花の季節がやってくる。別の土地なら初春から初夏、あるいは秋の初めにほころぶ草花が、春の終わり一時に、見計らったように一斉に花開くのだ。絢爛(けんらん)、と呼ぶにはあまりにささやかな、しかし見方によっては実に艶やかな自然の彩色が色を薄め、やがて緑の青が色を強め始める頃、王国に夏がやってくる。
「――今日はもうこれくらいでいいぞ。早めに上がってくれ」
 執務室の最奥、この部屋の主(あるじ)である宰相の言葉に、若い官吏は書類をしまって立ち上がった。次々と一礼して出て行く。自らも立ち上がって、その背を見送っていたグリジア王国宰相ルーカス・グリジアは、窓辺に垂れ下がった布を押し上げ、そこから覗く晩春の光景に漆黒の瞳を狭める。
 ――過ぎ行く時と、流れる季節。
 赤髪の踊り子が彼の前から姿を消して、もうすぐ五ヶ月が経とうとしていた。



 火事の後、半ば狂ったようになって捜し求めた負傷者のリスト中に、赤髪の若い娘はいなかった。王城の裏に集められた死者の中にも――それを確かめるには、恐ろしい程の勇気が要ったが――探し人の姿はなく、火事場の騒動に紛れて、王宮を抜け出した複数名の人間がいるという報告を受けた段階で、ルーカスはテラを探すことを止めた。
 王都の中にあるいくつかの隠れ家の場所は知っていたが、一度そこを暴かれている以上、同じ場所に再び舞い戻っているとも思えなかった。そうして思い返してみるならば、彼女の育った里の名も知らず、親しい友人の名前も聞いたことがない。
 それは恐らく、かなうことなら一生を共にしたいと願った少女の、彼女なりの自衛の手段であったのだろう。冷静に考えるなら、ルーカスは、あの娘から母親を奪い、守ってやることすらせず、挙句、交わした約束を木っ端微塵に破り捨ててみせた男だった。もう二度と会いたくないと思われていても――無理はない。
 生きているとも、死んでいるともわからない。探したくとも、手がかりすらない。第一、相手がそれを望んでいてくれるという確証もない。
 彼女が側にいるのなら、人並みの人生がおくれそうな気がした。彼女を守り通すことができれば、これまでの過ちのすべてが許されるような気も。たった一つ、けれど他の何を投げ打ってでも、守りたかったものを失ってしまった。一度掴んだと思った光は、あまりに呆気なく掌の中から零れ落ちてしまい――、この先、どうやって生きていいのかわからない。それでも彼女が生かそうとしてくれた命だと思えば、死ぬことも、狂ってしまうこともできなかった。文字通りの抜け殻になる寸前で、ルーカスは今の自分に取ることのできる、もう一つの道があることに気がついたのだ。
 ――あたしは、もう誰にも死んで欲しくない。誰も剣を取らなくても暮らして行ける、世の中が欲しい。
 ただ一度、だが他でもないテラ自身の口から聞いた望みである――
 誰も剣を取らなくてもよい国。誰かが誰かを守るため、血を流さずともよい国を。
 


 窓辺に映る男の口許に、苦笑としか言いようのない笑みが浮いたのが見えて、ルーカスは身を引いた。近衛騎士隊長であったグレイ・クレスタの辞任――実質的には解任だが――に伴って、現状、軍の指揮権までもが、<黒宰相>の手の中に転がりこんできた状況だった。グレイは領地の館に転封となり、恐らくもう二度と、王宮内で出会うこともないだろう。自業自得といえばそれまでなのかもしれないが、失ったもののあまりの大きさに、それでもまだこうして自分自身が生きていることを、不思議に思うことがたびたび、ある。
「――まあ、やっぱりここにいたのね?!」
 唐突に、前触れなく開いた執務室の扉から、この場に実に似つかわしくない、華やかな声が響き渡った。その声の持ち主に思い当たり、おい、何でこの人を通すんだよ、と警護の兵士達に責任を転嫁したルーカスは咄嗟、剣も国も仕事も――何もかもを忘れた。
「今日のお昼は絶対に館に来てくださいって、何度言ったと思っているの?あれほど言ったのに、やっぱり来てくれなかったから、お迎えにあがりましたのよ」
 グレイの異母姉であり、王家分家の女主人であるテリーゼ・グリジアは、その形良い眉を八の字に歪めると、どこにそんな力があるのか、と言いたくなるほど強い力で、逃げ出そうとする若者の腕をがっしり掴み取って見せた。
「……ちょっと待ってください。俺は一度も、行く、なんて言った覚えはないんですが」
「またそんなことを言って!どうせこんなによいお天気だというのに、朝からずっと部屋の中なのでしょう?」
 幼い頃から友人と共に幾度となく世話になり、最近では、王宮襲撃事件で傷を負ったテラを、何も言わずに預かってくれた相手である。自分より十以上年上の、なかなかに美人で勝気、実を言うと昔から、ルーカスはこの類の女性に弱い。――どうにも、気圧されてしまう。
「何が何でも今日は約束を守っていただきます。ルーカスあなた、今まで散々家を便利につかっておいて、わたくしの願いの一つも聞いてくれないつもり?」
 得体の知れない、というより、明らかに罪人である娘を匿って、医者に見せて養生させてくれたのだから、感謝などいくらしてもしきれない。ついでに言うなら今現在、結果的に義弟を追放しその地位を追った形である若者に対し、仔細を問わず、一言の責めもなく、これまでと何ら変わらぬ親睦を示してくれている、ほとんど唯一の人間でもあった。
「……俺には、まだ仕事があるんですけどね」
「構いません。あ、そこの貴方!宰相閣下をお借りしますので、後はよろしく」
 何事か、と集まってきた下級官吏の群に向かって、テリーゼは優美な微笑を投げかける。呆気に取られた面持ちで、「女性に連行される宰相閣下」の図を見物する人垣の向こうに、法務長官、クラウス・テーゼが好々爺じみた笑みを見せているのを確認し、彼はようやく天を仰いで、抵抗することを止めた。
 ようやく取り戻された、かのごとく見える、平穏。時折、胸の奥に穿たれた空白で、何かが壊れて行く音が聞こえるような気もするのだけれど。
 ――そんな、ある日のことだった。



 外に出てみると言われた通り、実に良い天候だった。つつじに蒲公英、桜に水仙、ありとあらゆる花々が咲き乱れ、陽射しも夏のようにぎらぎらと照り返してはこない。すべての色合いが味気なく色褪せた灰色に見えるのは、見る側の気持ちの問題であって、花の方に罪はない。
 そんなことをつらつら考えながら、庭先で優雅なティーカップの中身を飲み干す。本格的に雪が解ける頃から、グリジアでは活発に荷が動きはじめる。隣国との係わりが密になるのもこの時期だ。はっきりいってこんなことをしている場合ではないのだが、彼をこの館の庭に連れてきた当の人物が、ちょっと待って、と言ったきり戻ってこないのだから仕方がない。自棄気味に手近にあった茶菓子に手を伸ばした、その時のことだった。
「――もしかして……ルーカス?」
 王宮の敷地内において、<黒宰相>である男に、実名で呼びかける人間の数はそう多くない。それも語尾が上がった疑問形で、となれば思い当たる節などまるでない。思わず顔を上げてしまった若者の前方、わずかに小高くなった庭の丘の向こうから、再び名を呼ばれ、ルーカスは訝しげに眉を歪めた。
「あ、やっぱり、そうよ。ルーカスだ」
 聞き覚えのある、高い声。澄んだ夏の水を思い起こさせるような。だがそれをどこで耳にしたのか、記憶の糸を手繰れない。情けないことに、その持ち主に思い当たったのは、彼らが一様に、その姿を現した後のことだった。
「ねえみんな来て、やっぱり、ルーカスよ。――ルーカスって、本当に宰相閣下だったのね!」
「お前達、どうしてここに……」
 ――踊り子の少女と、蛇使いの男。軽業師の女と、座長の老女。
 かつて、王家の森で傷を負い、倒れていたルーカスを助け出してくれた、旅芸人の一座。襲撃を受けて別れた後、一度も出会うことのなかった、一座の団員達の姿が、そこにあった。





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