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暁の彼方〜第十四章 暁に散った夢〜




 細い針を突き刺すような風が吹く。風に舞い上げられた雪が微細な氷の破片となって、テラの頬や額をなぶって行く。
 冬の空は他の季節と比べ、同じ青でも色みが違う。今、頭上にある青は、淡い色の光を帯びていた。その中に描かれた薄い雲の塊は、先刻からまるで位置を変えていない。あまりの寒さに、雲の根までもが凍り付いているらしい。こんな雲を凍雲(いてぐも)と呼ぶと、昔、何かの本で読んだ。
 王宮の西側へ抜けるためには本来、敷地内で一番広い中庭を迂回しなければならない。しかしテラは、あえてその中央を横切る道を選んだ。遮るもの1つない吹きさらしの屋外、誰かに見つけられる可能性は格段に増す。しかし今は少しでも、無駄な時間を節約する方法を選びたい。
 宮殿の庭に本来あってしかるべき人の姿はなく――建物全体が、唐突に襲い掛かった変事の行く末を、息をひそめて見守っているかのようだ。テラを追いかけてくる人影も、待ち受ける兵士の姿もない。
 ――約束したろう。俺はこれをあっさり手放せるほど、自虐的でも禁欲的でもないからな。
 ――もう一人にしないで。ずっと一緒にいて。
 自分でも、身勝手な願いだと思った。けれどどうしても、確かなものが欲しかった。形あるもので、彼を縛り付けてしまいたかった。ルーカスはグレイを止める気でいる。例え、どんな手段を用いてでも。そしていよいよ手段が尽きた時には、その手で親友を斬って捨て、返す刀で、自分の胸を切り裂く。――打ち消しても打ち消しても、そんな不安が胸に巣食って、消えてくれないのだ。
「……そんなこと、させない」
 きつく掌を握り締める。<黒宰相>と戦闘者のギルドが結びつくことが、それほど怖いのなら、結び付けて見せる。一刻も早く、戦闘者のギルドを拘束から解放し、拝み倒してでもひれ伏してでも彼らを連れて駆け戻る。もうこれ以上――彼の手を、大切な誰かの血で汚させたくない。
 頬といわず首といわず、空気に触れるすべての部分が痛い。ずっと駆け続けて来た所為で、さすがに息もあがってきた。膝に手を当て、呼吸を整えようとした時、すべての水を抜き落とされ、冬仕度を終えた石造りの噴水と行き当たった。うっすらと雪で覆われている。今からおおよそ半年近く前――地を這う熱気に人々が涼を求めていた夏の夜に、ちょうど今と同じこの場所で、ひとりの男と出会った。
 あれから随分な月日が流れたように思えるが、実際にはほんの数ヶ月しか経っていないことに気がつく。
 ――そこで何をやってるの?
 ――それは、こっちの台詞だ、と何度言ったらわかる。
 あの時、ほんの少し腕を伸ばしさえすれば、復讐を果たすことは容易(たやす)かった。彼が少しでも警戒する素振りや抗(あらが)いを見せたなら、躊躇うことなく刃を突き立てただろう。皮肉なことだ。罰を望んだルーカスの願望が、結果的には、本人の命を救ったことになる。
 春の気配はまだ遠く、青々と生い茂っていた枝木に緑はない。それでもかすかに若芽にも似た匂いを感じるのは、誰も知らないうちに、冬が密かに折り返し地点を過ぎていた所為なのだろうか。
「……?」
 不意にテラの身体に近いところで、枯れ枝の茂みが揺れた。ぴん、と張り詰めた冬の空気に、ざわめきが走る。思わず武器を掴む手に力をこめたテラは、そこに、あるはずのない人間の姿を見つけて、瞳を見開いた。
「どうして……」
 ――どうして、あなたがここにいるの……?



「何が欲しくて、何を求めて、俺を裏切った。――グレイ」
 無事でいてくれ、いてくれるはずだ。願うことしかできないのは実に情けないが、頭の片隅で、半ば祈るようにしてそう希っていた。<黒宰相>と戦闘者のギルドの結びつきを恐れてギルドを捕らえたのであれば、ルーカスさえ手の内に入れば、ギルドを捕らえ続ける目的は霧散する。今頃には仲間達と再会して――、どこかへ逃げ出す算段でもしていてくれるといいのだが。
 実のところ、テラの手を放した段階で、ルーカスはそれが永久(とわ)の別れとなり得ることを覚悟していた。そしてそれを是認することが、彼女に対する裏切りに等しい行為であることも。
 我ながら、随分と酷い男だと思う。案外、宰相より詐欺師にでも向いているのかもしれない。だが結局、ルーカスはテラが生きて幸せであってくれるのであれば、それが自分の隣であってもなくとも、どちらでも構いはしないのだ。
「もう一度聞く。お前は、何が欲しいんだ、グレイ」
「……レノラ」
 あまりに呆気ない口調の為か、それとも頭が別なことに捕らわれている所為か、言われた意味がすぐにはわからなかった。それは誰の名だ、などと、呆けたことを考えて、やがて顔から血の気が引いたのが自分でもわかった。恐らく、顔面が蒼白になったに違いない。向かい合ったグレイの顔に、苦笑が浮く。
「……は、グレイ、お前、何を言って」
 今から六年程前、皇太孫付侍女であったレノラは皇太孫シリウスの想い人であり、だが――これは強いて考えないようにしてきたのだが――当時から、彼女の想う相手はルーカスであったらしい。そんなことなどまるで知りもしなかったルーカスは彼女が王のものになれるよう奔走し、レノラは目出度く王の正妃となった。
「知らなかっただろ。誰にも言ったことがなかったからな」
 ――お前はもうレノラに係わるな。これ以上係わる気なら、本気を出して係わってやれ。
 ――レノラのお前に対する妙な思い込みを払拭するのに一番いい方法は、お前に本気の女ができることだ。
 自分の気持ちを認められると、他人の心に思いを馳せることができるようにもなる。ルーカスとグレイ、シリウス3世と王妃レノラの付き合いは長い。シリウス3世が政務を拒んだ後にもルーカス、グレイ、レノラの三人はたびたび顔を合わせていたし、レノラとルーカスの間に妙な噂がたってからは、レノラとの交渉役にグレイを選んでいたくらいだった。
 何か言おうと口を開きかけ、言うべき言葉が見つからずに口を閉ざす。意味もない動作を繰り返し結局、問うことができたのは、ごくありきたりな言葉でしかなかった。
「どうして……何も言ってくれなかった」
「言っていたら、どうにかなったのか?」
「……」
「永遠に、秘めておくつもりだった。俺は俺なりに、お前やシリウスと作る国に賭けていたからな。けれどシリウスがあんなことになって……あの日、お前にあの男の生存を知らされて、もしかしたら、手に入るかもしれないと思った。
 もういいだろうが、ルーカス。俺たちが必死になって守ってきたものは、所詮、砂上の楼閣(ろうかく)だったってわけだ。俺はずっと欲しかったものを手に入れ――、お前ももう自由になれ」
 シリウス2世を立て、シリウス3世を廃して王位に復位させる。廃立された妃ならば、臣下に下げ渡された前例もなくはないと――考えてしまった。
「……そんなことを、お前は」
 知らず、呻くような声が喉から漏れる。
 大切なものを守ろうとして守りきれずに、結局は損なうことばかりしてきた。それは守りたかったそのもの自体が、実は形ない蜃気楼に過ぎなかったからだというのか。
 けれどそれでも、失くしてはならないものがあるはずだ。それを捨てては生きて行かれない、――そんな何かが。
 <黒宰相>が本当にこの身に取り付いた魔物なら、飼いならすことがきっとできる。取り付かれた魔物に心を喰らわれることなく、それを利用して、今度こそ大切な者達を守ってみせる。
「……あの男はシリウスとは違う。到底、お前の手には負えない。親父は今、どこにいる。今ならまだ間に合う。グレイ、すべて俺に預けろ。謀反も変事も、何もかもなかったことに、今ならまだできる」
「――遅せえよ」
「グレイ!」
「もう、何もかも、遅い」
 どこか憑かれたような顔で、友は笑む。その手には、近衛騎士が拝命する、柄(つか)に王家の紋を刻んだ剣があった。
「お前は昔っから危なっかしい奴だったし……俺も寂しかったからな」
 共に書物を開いて、剣の腕を競い合って。背中を合わせて戦った。そうして過ごした時間は、思い起こせば今なお、甘く、懐かしい。
「できるなら、お前を斬りたくはなかった。けれどもう――遅い」



 国王夫妻の居住部である正寝は、余人の立ち入りが許されていない。特に数日前から王城内は異様な静けさに満ちており、警護の兵の顔ぶれ人員も大きく変わったから、なおさらのこと。国王と王妃に認められた人間の中でもごく少数の侍女と小姓だけが、近衛兵の検問を受けて、朝夕の二回、建物の内とその外とを出入りしている。
 洗顔用の水差しを持って、しん、と静まりかえった廊下を歩いていた古参の侍女は、その奥に、火がついたように泣き叫ぶ赤子の声を聞きつけ首を傾げた。王子王女は乳母が養育し、母である王妃が手をかけて世話を焼くことはあまりない。それでも通常は、母親らしい情愛を見せて居室に招いて、たまには乳を含ませたり、夜を共に明かしたりもするのだが――当代の王妃であるレノラ・グリジアは出産後に心身を病み、わが子を気にかける、ということがまるでなかった。
「な、何をなさっているのですか?!」
 赤子の泣き声がいっそう甲高いものに変わる。王妃の居室に、許しもなく飛び込む、という無礼を働いた侍女は、そこに信じられない光景を見つけて言葉を失った。天蓋つきの広い寝台の上で泣き叫ぶ嬰児と、その母である女。女の手には暖炉で使われるはずの火掻き棒が握られている。
「王妃様、何をなさって……さあ、王女様をこちらへお渡し下さい」
「……生まれなければ、よかったのよ。こんなこども」
 唄うような声の背後にじりり、と肉が焼ける音がする。レノラが火掻き棒を赤子の額に押し当てた音だった。
「――お止めください!!」
 母親と赤子の間に、体当たりで飛び込んでいった侍女の太った身体と、王妃レノラの細い身体が床の上で縺れ合った。衝撃で傍らの机の脚が折れ、その上にあったものが床の上に転がり落ちる。強い芳香のある香油の瓶が割れ、毛足の長い絨毯に染み入って行く。
 火掻き棒の先端は、かなりの熱を帯びていた。王妃の手を離れたその熱が、油をしみこませた絨毯の中へと吸い込まれて行く。そしてやがてその場所から、赤々と炎が、舞い上がった。





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