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暁の彼方〜第十三章 裏切るもの、裏切らぬもの〜




 ぱたり、と岩肌で雫がはねた。雪は未だ降り止まず、鈍(にび)色の世界は夜明けを忘れてしまったかのようだ。風の鳴く空。降りしきる雪。時折、雪の重みに負けた枯れ枝がきしんで声をあげ、一際大きな吹き溜まりを作る以外、変化らしい変化もない。
 ――夢を見ていた、のだろうか。
 消えてしまったはずの炎は赤々と燃え盛っているし、きっちりと衣服を着込んで横になっている。そして何よりも、夢の中では隣にいたはずの人がいない。
「……ルーカス?」
 ごつごつとした寝心地の悪い場所で横たわっていたからだけとは思えない理由で、身体のあちこちが痛い。身を起こした途端、下肢に走った疼痛にテラが顔をゆがめていると、洞窟の入り口付近で声がした。
「ああ、目が覚めたか」
 かさりと枯れ枝を踏みしめて、ルーカスはテラの隣に腰を下ろした。この近くに、冬でも凍らない泉があるという。水袋を2つ、腕にぶら下げている。
「……大丈夫か?」
 意外そうな顔をしていたのはわかったので、気づかれただろうとは思っていた。だてに戦闘者のギルドに生まれ育ったわけではなく、踊り子を装って各地を廻ってきたわけでもない。男の誘い方や、いざという時の逃げ方、どうにもならなくなった場合の急所の蹴り上げ方は、それなりに身につけていたが――おかげで本来身についているべき、骨抜きにする為の技術とやらが、まるで身についていなかった。
「あ、あの服――」
「……よくわからなかったから、どこか間違っているかもしれない。直したいなら、出ているが」
 ――やっぱり、着せてくれたのか。
 確かにあのままの状態で眠ってしまったりしたら、風邪のひとつでも引き込んだかもしれない。感謝するべきなのだろうが、やはりこれはかなり恥ずかしい……と顔を逸らしかけ、向き合っているはずの相手もまた、気まずそうに視線を逸らしていることに気がつく。
「テラ」
「……はい」
「本音を言うなら……、このままお前を攫(さら)ってどこか遠くにでも行きたい」
 思わず見上げた瞳からは昨夜までの、張り詰めた静寂は消えていた。あるがままの感情があるがままに、描かれている。揺らぎ、慄き、まるでテラからの言葉を聴くことを恐れてでもいるかのように。
「もっともここで逃げれば、この先どうなっても、俺はまともには生きてはいかれないだろうけどな」
 <黒宰相>が領地を抜け出たことは、恐らく既に王城にまで届いていることだろう。このまま逃げ出せば宰相ルーカスは戦闘者のギルド同様、グリジア国内をお尋ねものとして逃げ隠れしなければならなくなる。
「それともうひとつ。今でも俺は、あいつが俺に本気で危害を加えようとしていたとは思えないんだ」
 兵を差し向けたといっても傷一つつけたわけではなく、それもわざわざ厳重に護送して、領地の館にまで送り届けた。まるでこれから起こるであろう出来事から、幼馴染を遠ざけた――考えようによっては、そう考えることだって、できる。
「まあ、これは俺の願望に過ぎんが」
 微かな、苦笑。
 信じたいと願うものを、信じることは、難しい。思いがあり、願いがあり、迷いがあって、恐れがある。
 ――本当に、あなたを信じていいのだろうか。わたしはあなたを信じたいと思うのだけれど、その思いは、わたしの一人よがりに過ぎないのではないのか。
 思いはねじれ、複雑によじれて心にきつく絡みつく。あまりの痛みに、息ができないほどだ。
 その痛みや苦しさなら、我がことのように認識できる。
「正直、どんな結末になるか、俺にも想像がつかない。俺もあいつもこの国も――、この先どうなるのか、わからない」
 そこまで一気に言って、ふと、言いよどむ。
「だからテラ、もしも、すべてが終わって、それでも俺の命がまだ残っていた時には」
 ――その時には。
「――俺と一緒に行かないか」
 あまりに真っ直ぐな言葉を、受け止め損ねて戸惑う。何か聞き違えたかと目を見開いた娘の耳元で、苦渋に満ちた懇願は繰り返された。
「頼む。俺と一緒に来てくれ。俺と生きて欲しい」
 出し抜けに目の前が歪んで、暖かなものが頬を伝って滴り落ちた。喉の奥から、こらえようともこらえきれない嗚咽が音となってこぼれ出して来る。
「お前、どうし――」
 向かい合った相手に唐突に泣き出され、若者は心底驚き――そして困惑したようだった。向きをかえて抱き寄せようとして戸惑い、雫が伝う頬に触れようとして、途方にくれたように天を仰ぐ。やがて魂まで吐き出そうと言わんばかりの深い吐息と同時に吐き出された、彼らしいといえば非常に彼らしい一言に、テラは思わず、泣きながら笑い出しそうになった
「お前、そんなに……嫌だったのか」
 とことんまで、愚かな男だ。決して頭の巡りは悪くないはずなのに――、根本的な部分で何かがすっぽり抜け落ちている。その欠落を称して、かつて、一人の青年は彼を危なっかしいと表現したし、テラもまた、時折、この人はどうしてこうなのかと、薄ら寒い思いを抱いたりもした。
 だけど、これからは。欠けたところがあるなら、埋めて行けばいい。あたしはこの男に教えてやらねばならない。誰かにかけがえないと思われることの重みと――素晴らしさを。
「あなたが母さんを殺して、あたしを一人にしたのよ」
「……ああ、そうだな」
「なのに、あなたはあたしを王宮に入れて……、庇(かば)って、優しくして、あたしに殺されようとした。それってとても酷いことだわ。わかってる?」
 音だけ聞けば恨み言に等しい言葉。だがテラは自分の唇がほころんで行くのを感じていた。ルーカスにもそれがわかったのだろう。漆黒の瞳に純粋な戸惑いが駆け巡る。
「だから、……だから、だからね」
 言い訳など、死んでもしない男だ。口先だけの謝罪など、ひっくり返ったところでしやしまい。――だから、これはきっと、テラの完全なる我がままだ。
「だから……」
 微笑んだままでいようと思ったのに、続く言葉はあまりに切実で、声が掠れてしまうことを止められなかった。
「だから、もう一人にしないで……、ずっと一緒にいて」
 胸元にやわらかく額を押し当てると、戸惑いながらも力強い抱擁が返された。テラの髪に顔を埋め、ほっとしたように息を吐き出している。
「わかった。約束する」
 ――信じたいものを、信じることは難しい。だけどこうして触れ合っていられる間は、今ここにある温もりや歓びが夢でも幻でもないと、信じられた。



 敬礼を残して去っていった若い部下は、苦いものを噛み潰したような顔をしていた。それは恐らく、グレイが苦いものを噛み潰したような気がしているからだった。向かい合った相手の顔に、自分の表情が鏡のように映ってしまったのだ。
 宰相ルーカス・グリジアが、密かに領地を抜け出したという報告は、昨夜のうちに届けられていた。
 街道は封鎖してあるし、王都の周辺は近衛軍によって厳重に警備されている。宰相であったとはいえ、ルーカスの日常は、王宮と王家の森、王都を中心としたごく一部に限定されている。領地を抜け出したところで、ルーカスのみの力では、衛兵に見つからず王都に入り込むのは難しかったであろう。
「連れがいた、か」
 宰相の領地にいた兵達からが、ルーカスが領地を抜け出す直前、館を訪ねてきた人間があったことを告げていた。捕縛された宰相を気にかけ、危険を顧みず脱走の手引きをするであろう人間など、ごくごく少数しか存在しない。
「あの娘……」
 ルーカスが守ろうとしていた、そしてルーカスを守ろうとしていた娘。
 一見、たおやかな娘の姿をしていても、テラは戦闘者のギルドの戦士だ。並みの兵士10人前の働きはしてくれるだろう。
「あの馬鹿、まったく」
 折角、護送の兵までつけて領地に帰してやったのだ。そのままそこで大人しくしていれば、これ以上傷つくことも苦しむこともなかったろうに。
 あの若者はいつだったそうなのだ。目の前に2つの道が分かれていると必ず、自分自身が深く傷つく道を選び取ってしまう。本人も気を使われている自覚はあったのだろう。しかしいつも大丈夫と言って笑うその顔が、ちっとも大丈夫には見えていなかったことを、当の本人はどこまで気がついていたのか。
 ――だけどもう、本当に大丈夫みたいだな。
 危なっかしくて庇護をかけずにいられなかった少年はグレイの手を離れ、一人前の男として、自分の足で歩みだそうとしている。どうやら伴侶も見つかったらしいし……との呟きは、王家の森に消えてから半日以上が過ぎているのに姿を見せない幼馴染への皮肉をこめた祝福だ。ルーカスのみなら、夜のうちにでも王宮までたどり着く。――この一晩、どこで何をしていたか、後でじっくり聞きだしてやろうか。
 ――もっとも、そんな牧歌的(ぼっかてき)な再会ができるなどという甘い望みなど、はじめから抱いていないが。
「ったく、俺も存外人の良い」
 呟かれた言葉は重荷を下ろしたかのごとく清々しく、――だがどこか哀切な響きを帯びていた。





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