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暁の彼方〜第十三章 裏切るもの、裏切らぬもの〜




 不意に窓の外で、赤子の泣く声がした。それに混ざって、微かに子守唄のような歌声が聞こえてくる。夜更けに泣き出した乳飲み子を、母親が抱いて歩いてでもいるのだろうか。耳を澄ませばこの館の内からも、使用人らしき人間のかすかな寝息や歯軋りの音、時折寝返りを打っているらしい、衣擦れの音などが聞こえてくる。どんな空間であれ、人がそこで生活している限り、静寂などというものは存在しないのかもしれない。
 目を逸らしたのは、テラの方が先だった。同時、刃先がかすかに動き、ほんの二筋程、薄く切られた切り筋から、ささやかに赤いものが滲み出す。が、それ以外に傷はない。彼がどう思ったか知れないが、返答を聞く前に危害を加える気は、はじめからなかった。
 口許を緩めていた男の眼差しが険しくなる。一瞬、その瞳に浮かんで消えた、期待はずれ、という名の色合いに、テラは彼が何を望んでいたのかを悟って、ぞっとした。
 この人は本当に……、あたしに斬られて死ぬつもりだったのか。
 ――あなたは、あたし達を裏切った。
 否定して欲しくて、投げかけた言葉だった。真っ直ぐにテラを見て、ただ一言その声で、違うと言って欲しかった。
 近衛兵は国王直属の親衛軍、ましてや、戦闘者のギルドの隠れ家の位置を知っている人間の数は極めて少ない。<黒宰相>が裏切った。誰もがそう思ったし、そう思われるだけの下地はある。
 だけど、それでも。彼が否定してくれたなら、信じることができる。他の誰が信じなくともいい。テラだけは、ルーカスを信じぬくことができる。
「……何が、あったの」
 しかし実際に本人と相対して、その口から否定ではなく肯定の言葉を聞いた今、テラの胸を焼く確信は、これまでとは種類の違うものだった。
 ――違う。
 他人を騙して利用する人間は、利用して使い捨てた人間を前にしてこんな顔はしない。裏切りを糾弾され、詭弁で応じたり、むきになって反論したりはするかもしれない。でも絶対にこんな風に――望みがかなったと言わんばかりの微笑はみせないはずだ。
「お願い答えて。――何が、あったの」
 テラに危害を加える意図がないことを悟ったのだろう。身体の左半分を折り曲げるようにして、ルーカスは深く息を吐き出した。不可抗力であったとはいえ、まともに入った一撃がこちらの予想以上に効いているのかもしれない。そのままぐったりとした仕草で、寝台の上に座り込む。
「同じことを聞きたい」
「え?」
「何があった?俺が裏切ったと言ったな?今、王都で何が起こっている?」
「……何を言って――」
 不意に先刻、館の周囲を取り囲んでいた兵士の姿を思い出した。護衛も連れずに街中をうろついていたこの男の方が異常なのであって、宰相の領地に護衛の近衛がいること自体は、別に不思議でもなんでもない。だが今にして思うなら、ただの護衛しては数が随分と多すぎた。しかもすべての兵が帯剣し、夜更けにも係わらず館の周囲を隙もなく見回っていたのである。
 ――まさか。
「――勘は悪くないようだな」
「だ、だって、今の近衛騎士隊長は……」
「<黒宰相>って奴は、随分人望がない奴らしい。10年近くも付き合ってきた友人に、あっさり掌を返され裏切られたらしいぞ」
 突然、口調が若者らしいくだけたものへと変わり、ルーカスはくつくつと笑いながら背中を寝台に預けた。その表情は穏やかで、笑顔には屈託がなく、だが言葉にはひとかけらの温もりもない。
「……どうして」
「地位、金、欲、嫉妬に羨望……何に動かされるかは、人によってそれぞれだ。俺にあいつが嫉妬するほどのものがあったとも思えんが」
「ちがっ、そうじゃなくて――」
 テラとて、裏切りの理由を問うことが彼に対して、いかに酷いことか知っている。問いかけたかったのは、まったく別の事柄だった。
 ――どうして、そんな顔をしているの。
 テラはルーカスとグレイの繋がりについて深くは知らない。それどころか、2人が一緒にいるところでさえ、この目で見たことはないのが実情だ。
 ――だけど、友達だって言っていた。
 ルーカスを助けてくれてありがとう。見ず知らずの女にそう言って頭を下げたとき、彼は確かにルーカスの友人だった。<黒宰相>が王家の森で消息を絶った時、王宮の中でグレイだけは本当に、心の底からルーカスの身を案じていた。
 あれだけの思いが、一方通行でなんかあるわけがない。グレイがルーカスを友だと言っていたように、ルーカスもまた、グレイを友人だと信じていたはずだ。
 裏切られたとあっさり認められるような、裏切られてどこも痛まずにいられるような、そんな間柄ではなかったはずだ。
「……お前が何も知らない、ということは、今ならまだ、かろうじて間に合うわけか」
 やがてぽつりと呟かれた言葉に、テラはようやく現実に引き戻された。呆けている場合ではない。戦闘者のギルドが拘束されたことを彼に伝えなければならない。そして……いや、今なんと言った?
「ルーカス?」
 いつしかくつくつと笑い続けていた声が止んでいた。起き上がったルーカスの双眸に、先ほどまでの笑いの残滓は微塵ものこされていない。
「何をする……つもりなの」
「王都へ向かう」
 決意の固さを示すかのように、若者は拳はきつく握り締められている。
「今ならまだ、止められる。俺は今のうちにどうしてもあいつと……グレイと会わなければならないんだ」



 王都までの道のりは馬を呼ばして半日程。その道筋を彼はわずか二刻程で駆け抜けた。
 途中、馬に水を含ませる為に何度か止まってくれなければテラにはとても、追いかけることができなかっただろう。山間生まれの娘の常として、テラにもある程度乗馬のたしなみがあり、戦場を馬で駆け抜けたこともある。しかしだからこそ、その技量には純粋に目を見張ることができた。
 ――すごい。
 テラはかつて、彼が剣を振るう姿を目にしたことがある。確かに使い手、とまでは言えないが、それなりに使える剣筋だった。それに加えてこれだけの馬を操る技量があるのならば、恐らく武官としても大成したことだろう。無論、文官としての才は既に衆目が認めるところだ。それでいて、生き方だけがあまりにも――拙(つたな)い。
 テラが後を追ってきていることに、気づいていないわけもない。それを承知でなお、後ろを振り返ろうともしない。この男の有り様(よう)は、周囲の人間に対し、いつも悲しくなるくらいに残酷だ。――向けられる思いに、気づこうともしない。
 灰白色の雲が割れ、その彼方に、刃のよりなお鋭い、冬の月が顔を見せる。星々を従えながら泰然と輝き、それでいて、どこか孤独で。意味もなくその場所へ向かい、わめきちらしてみたくなる。
 既に目的の地は目と鼻の先にまで近づいている。とはいえ、王城を取り囲む外壁は高くて強固であり、その門が今のルーカスに向かって開かれることは決してない。一体この先をどうするつもりかと問いかけようとした、その時のことだった。
「――捕らえろ、侵入者だ!」
「テラ、伏せろ!」
 2つの声が響くと同時、右手の方角からに灯りが灯った。途端、無数の矢が頭上に降ってくる。思わず手綱を放してしまったテラの身体は、既に地上にあった男の腕に抱きとめられていた。
「こっちだ、来い!」
 腕を引かれた先に、冬枯れてなお、鬱蒼と茂る森がある。
 黒々とした枝は葉を落とし――中には綿のような雪を、防寒着のごとく着込んでいるものもあったが――大抵は痛々しい素肌を剥き出しにしている。緑を失い、夏よりも一回り小さくなった森はそれでもなお、足を踏み入れたものを圧倒する、強烈なまでの存在感があった。
 ――4年前、テラがはじめてルーカスとであった王家の森。再びその中へ足を踏み入れた時、彼らは共に追われる者の立場にあった。





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