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暁の彼方〜第十二章 二つの決別〜




 雪が降っていた。
 見上げた空は白一色、見渡す大地もまた白い。低い位置を連なる屋根の上に。冬囲いを終えた庭木の枝に。手をかざせば触れることのできる大粒の雪片が、重なるように降りしきる。
 息吹はおろか、風音さえも聞こえない。白一色に塗り替えられた世界にあって、軒を連ねた家々は、束の間の眠りを貪る。だがただほんの一区画、わずかばかり開けた丘の上にある館の周囲だけが、幾人もの兵士によって囲まれていた。
「おい、今、物音が……」
 館の前庭を見回っていた兵の一人が、異質な物音に気づいて歩みを止める。雪の降る音さえ聞こえてきそうな夜の片隅に、自分達のものとは違う、あらたな息遣いが加わった、と思ったのは一瞬だった。
 背後の植え込みから、唐突に銀の刃が突き出した。剣を抜く間もない。首筋を刺し貫かれて絶命した仲間の姿に目を見開いた兵士の腹部に、血で濡れた刃が突き刺さる。
 惨劇は、音もなく静かに始まり、そして終わった。館の門柱に手をかけた人影が、ひらりと宙を舞って、敷地の内側に着地する。どこかでうおおおん、と犬が遠吠えたが、侵入者の気配を感じたわけではあるまい。――距離があり過ぎる。
 血に濡れた銀の刃が、わずかばかりの月光を浴びて白々(しらじら)と煌く。静まり返った館の扉が、きい、と鳴く。
 ――その時を、待っていた。


 
 グリジア王国宰相ルーカス・グリジアの領地は、王都から馬で半日ほど行った、とある小さな街にある。
 とはいえ、国務に忙しい宰相という職業柄、領地の館に滞在したのは数えるほどのことでしかない。彼にとってこの領主館の一室は、王宮以上に他人の家である。
 王宮内の自邸で拘束されてからのここ数日間を、ルーカスは監視の兵つきで、この館の内側だけで過ごしていた。客人と呼べる者の訪れもなく、世の中の流れとも隔絶された生活が彼の人生から遠ざかって久しい。一種異様な穏やかさの中にあって、だがしかし、若者はすべてを諦めていたわけではなかった。
 処分が決まるまで御身に手は出さない、と騎士隊長の副官は言った。もっとも、それを鵜呑みにするわけには行くまい。公(おおやけ)にしかねる罪人の処遇に、ルーカス自身が何度か使った手だ。拘束中、いかなる形でか命奪われであろうことは、予測がついていた。
 だからこの数日、日が暮れる前から灯火を消し、目を闇に慣らすことに専念していた。この日初めて、かすかな物音と同時に侵入者の気配を察知し、ルーカスはひそかにほくそ笑む。
 さすがに近衛軍直轄の兵士達は精鋭揃いで、抜け出そうにも隙などありはしなかった。機会があるならただ一度、刺客が送り込まれてくるであろう、その時だけだと狙っていた。
 整えられた寝台とわずかな家具しかない一室に、息を殺した人間の気配が重なり合う。ほんのわずかな衣擦れの音さえ、瀑布のごとく聞こえるのは、互いに息をつめ、相手の出方を窺っている所為だろう。
 ――この時を、待っていた。
 ルーカスが飛び出していった瞬間、刺客の身体が勢いよく跳ねあがった。恐らく、向かいかかってくると思ったのだろう。身構えた読みはしかし、少し外れた。躍り出た若者はその斜め背後に回りこみ――窓辺に垂れ下がっていた布を勢いよく取り払ったのだ。


 
 今宵の空は明るく、外界よりも室内の方が数倍、光源に乏しい。予期せぬ光の一撃に、敵は目元を抑えて後ずさった。恐らく、これでほとんど視界は封じたはずだ。だが間を置かずルーカスが振り下ろした燭台は、身をよじるようにして避け切った。がつりと鈍い音がして、その先端が壁に突き刺さる。
 拘束を受けた段階で、剣や短刀など、武器となり得る、あらゆる種類のものを取り上げられていた。こんな時、得物ではない物体は不便きわまりない。抜け切らない燭台を諦めて身を屈めた瞬間、頭上に銀の刃が振って来る。
 もともと、間合いを長くとらなければならない刀や長剣は、室内での接近戦には向いていない。剣術と同時に多少、体術の心得があったことが幸いした。もっとも、何とかかいくぐることには成功したが、最初の一撃をかわされてしまえば、丸腰のこちらに勝機は薄い。
 ――だが、ここで殺されてやるわけにはいかない。
 身体を屈めて床を転がり、先ほど剥ぎ取った布を天井にめがけて投げつける。腕を突き出してそれを振り払おうとした相手の懐ががら空きに開く。その箇所をめがけて拳を――正確には、食事時にかすめておいた食器の破片だ――突き出した瞬間、意図とは反対に、背中をしたたかに壁に叩きつけられていた。
「くっ」
 傷を負ってまもない左脇腹に膝頭を打ち込まれ、知らず、呻きが漏れる。それでも脇腹を抱えて横向きに飛びずさることができたのは、生存本能のなせるわざ、としか言いようがない。
 何とか相手の間合いを離れたところに着地することはできたものの、目の前にちらちらと白いものが散り、ぐらりと視界が斜めに傾ぐ。もしかすると今の一撃で、一度は塞がった傷が再び開かれたかもしれない。せめて何か。何か身を守る為の武器があったなら。身をよじって腕を伸ばし、壁に突き刺さったままの燭台の柄(え)の部分を掴み取った瞬間に。
 ――え……?
 逆光を浴び、これまでしかとは見ることのできなかった侵入者の全貌が、驚くほど鮮やかに視界の中へ浮かび上がった。
「……どうして」
 ――どうして、お前がここにいる。
 鮮やかな深紅の髪を布地で覆い、隠すことなどできない碧の瞳を鋭くゆがめ。娘が刃を振り上げる。今宵の空気そのままの冷たく張り詰めた切っ先が、正確にルーカスの首筋に向けて構えられる。
「……テラ」
 刃先を喉下に突きつけられた瞬間、ぞくりと背筋が慄(おのの)いた。恐怖でも、怯懦(きょうだ)でもない。それらよりもっと鋭く――それでいて、甘やかなもの。
 意地でも、死んでやるつもりはなかった。刺客を返り討って武器を奪って、監視の手を振り切ってでもこの場所を抜け出して、あの男に会わなければ、死んだところで死に切れない。一発この手でぶん殴って、言ってやらねば、どうしたって気が済まない。
 一体いつから叛意(はんい)など抱いていた。どうして自分の足で向かって来なかった。部下になど命じず、お前がお前の口で、俺が邪魔だと告げてくれたなら。俺が持っていてお前が持っていない、そんな何かがあるというのなら、全部耳をそろえて、くれてやったってよかったのに。
 しかし今、そんな諸々(もろもろ)の思いのすべてが、一人の娘を前に急速に色褪(あ)せて行く。疑問が、焦りが、怒りが、形を変え、色を無くし、まるではじめからそこになかったかのように、収斂(しゅうれん)して消え去って行く。
 ――ああ、そうか。お前が来たか。お前が……俺を殺しに来たか。
「――あなたは、あたしたちを裏切った」
 微かな刺激と共に胸元に、暖かなものが滴り落ちた。傷そのものは皮一枚切られただけの、ほんの些細なものでしかない。張り裂けるような痛みはもっと別な箇所――胸の奥底からやってくる。
  ――もう2度と、会うことはないと思っていた。
 目を逸らすことはできなかった。軽んじてはならないものを軽んじ、切り捨ててはならないものを切り捨てた。人の思いを土足で踏みにじり、交わした誓いを違えて、一時期、自分の心さえも失った。
 ならばせめて最後くらい、自分の心の誓いにくらいは誠実でありたい。この娘に命奪われるなら悔いはないと、それだけは真実、彼の心の奥底から出た願いであったから。
「……ああ、そうかもしれんな」
 わずかに見開かれた碧の瞳から一筋、透明なものが滴り落ちる。その涙の行く末を見つめながら、ルーカスはうっすらと――微笑(わら)った。




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