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暁の彼方〜第十二章 二つの決別〜




 ニジェール河の戦闘から2月近くたった冬の最中(さなか)、王妃レノラは女児を生んだ。流産すれすれの早産で王妃の肥立ちも悪く、果たしてこれで無事に育つかと危ぶまれていたが、生まれた赤子の産声はたくましかった。
 グリジア王国の法制上、皇女にはしかるべき婿を取っての王位継承が認められる。国王シリウス3世と王妃レノラの特異な夫婦生活を考えると、この先、王位継承候補に恵まれる可能性は低い。戦争回避と次代の国王の誕生に、グリジア王国内は一時(ひととき)、喜びに沸いた。



 集めた薪に火をつけると、薄暗い小屋の中にぼうっと赤い炎が灯った。外では冬の鋭い寒風が、夜を切り裂く音がする。硬く結ばれた防寒具の襟元を緩め、ルーカスは小屋の壁に、自らの背中を押し当てた。
 王妃の懐妊に係わる宰相ルーカスへの嫌疑は、動乱の終結と王位継承者の誕生によって、ひとまず棚上げされた形となっていた。生まれた赤子が特徴ある黒髪や黒眼を受け継がず、王妃と似た風貌であったことも、ルーカスに幸いしたといえる。もっともまったく身に覚えのない彼にしてみれば、赤子の風貌うんぬんを取りただされること自体、いい迷惑でしかないのだが。
 うっすらと閉ざした視界の片隅に、幼い頃から見知った小屋の内部が見える。2つの寝台。いくつかの棚。土間で埃を被った竈(かまど)や壷(つぼ)に――
「……まさかここにいるわけはない、か」
 そういえばいつかも同じ台詞を呟いた、そう思って、ルーカスは思わず苦笑する。和議はなったが、この危うい平穏がいつまで続くのか。人々がそう噂していることは無論承知している。――当然だ。それを成し遂げた当の本人が、誰よりもそう思っているのだから。だから今のうち、この平穏が続くうちにどれだけのことが成し遂げられるか、すべてはそこにかかっていると、知っている。
 しかし今、生まれ育った森の腕(かいな)に抱かれて、彼の脳裏に浮かぶのは、まったく別の事柄ばかりだった。
 この場であった。話をした。望むものはないのかと問われ、ほんの一瞬、分不相応にも夢を見た。彼にまだ夢が見られると教えてくれた、炎の気性と水の優しさを併せ持った娘は今ごろ、どこで何をしているのだろう。
 ――逃げてもいい。あなたが本当にそう望んでいるのなら。
「……ったく、まだ忘れてないのかよ、お前」
 まるで生まれたばかりの雛(ひな)だ、と我ながら自嘲してみることがある。あたかも、これまで巣の中しか知らなかった雛が、はじめて自分に翼があると気づいたかのように。いったん飛べるかもしれないと思ってしまった以上、大空への憧れを封じることは、ほとんど苦行にも等しい。
 ――よそう、今、それを考えるのは。
 この場所には、いつも眠るためだけに訪れた。他の何人にも犯されず、ただ心静かに眠るため。――それ以外には、必要ない。
 深く息を吐き出し、首を垂れて瞑目(めいもく)する。
 この季節にあるはずもない、かすかな花の香を嗅いだと思ったのは、眠りに落ちる寸前のことだった。



 誰かに名を呼ばれた気がして振り返った瞬間、先ほどまで膝を抱えて座り込んでいた小屋の壁に、何かの影が揺らいだような気がした。絹の糸よりなお細い、蜘蛛の糸の吹流しのような月光が、風に揺れる王家の森の枝や枯草を、実物よりもっと大きく見せただけだったのかもしれない。しかしそうとわかりながら、思わず立ち止まってしまうほど、揺らぐ影の気配は強烈だった。
 ――まさか、いるわけがないじゃない。
 無意識に踏み出しかけた足を止め、テラは密かに苦笑する。いくらあの男が自分の命に無頓着だとはいっても、つい先頃刺客に襲われたその場所に、おいそれと足を踏み入れるわけもない。第一今の<黒宰相>には恐らく、そんな時間的余裕すらないはずだった。
 ニジェール河の戦いでサイファ公国軍を撤退させた後、戦闘者のギルドの助力は、相応の金と、宰相ルーカス・グリジアの裏書がある旅券によって報いられた。さぞかし諸官の反発は大きかったことだろう。諸侯を束ね切れてはいない黒宰相にとって、それは決して望むべき事項ではなかったはずだ。だが彼は約束を守った。戦闘者のギルドはもうグリジア国内のどの地においても、彼らを追いかける衛兵の姿に怯えなくてもいい。
 ――今後、ギルドは王国とは一切の係わりを捨てる。戦闘者のギルドの頭領として、俺は組織が二度と王宮と係わることも、黒宰相と係わることも許さない。
 先の頭領・クラネットが王都に結集させた人員を集め、新頭領は戦闘者のギルドを、故郷の里へ戻すことを決定した。もう間もなくテラもまた、戦闘者のギルドの一員として、この土地を後にする。そしてその後はもう二度と、ギルドに王都や王宮に足を踏み入れさせはしないし、自身もまた、この土地へ再び訪れるつもりもない。
「……さようなら」
 憎んで憎んで、憎みぬいた相手だった。なのにいつの日か、憎み続けることが苦しくなった。それでも捨て切れなかった憎悪は思慕と一緒に、この森の中に置いて行く。
 閉ざした瞼の裏側に、護衛も持たず、剣すら帯びずに眠りを刻む男の姿が思い浮かんだ。今思うなら、その姿は傷を負った獣がただ蹲って時を過ごす姿によく似ていた。いつの日だったが、借りを返すの返さないのとの話の末、彼女の膝の上で眠っていた時ですら、心の底から安らいだ顔はしていなかった。
 今はまだ、枯葉や枯木を覆う雪はうっすら粉砂糖のよう、だがきっともうまもなく、この森は鍛えたテラでも足を踏み入れられないほどの雪海原となる。時折、凍った小山の向こうから光るものが覗いている気がするのは、森で暮らす獣たちの視線だろうか。兎か狐か――、さほど害のある生き物ではない。
 かなうことならただ、優しい夢を。あの若者がこの先もう2度と、血塗られた夢を見ないように。灯明とするにはあまりにかそけき月の光へ向かい、心の底からそう願う。
 

 ――この先何事も起こらなければテラは戦闘者のギルドの新たな<戦乙女>として、<黒宰相>とは何ら係わりのない人生を送るはずだった。
 
 

 かすかに違和感と共に目を見開いたルーカスは、自分自身が育った小屋の内側に、あるはずのないものを見つけて目を見張った。かつて彼が一人の娘に手渡した、金貨の入った皮袋の中身はほとんど目減りしていない。
 ――6年分の給金だ。必要なかったら、捨ててくれてかまわない。
「まさか、ここに来たのか……?」
 思わず握り締めた皮の袋はほのかに暖かく、かすかに人の温もりを帯びている。つい先ほどまでこの場所に彼以外の誰かがいた証を目の当たりし、ルーカスは思わず、壁に預けていた背中を持ち上げていた。今追いかければ追いつけるかもしれない。もしかしたらまだ間に合うかもしれない――と思って身体を浮かしかけ、しかし次の瞬間、浮かしかけていた身体を再び壁にもたれかける。
 ――追いかけて、どうするんだ。
 戦闘者のギルドが王国やシリウス3世への敵意を捨てるのならばと、彼女に誓わせたのは他ならぬルーカスだった。テラとルーカスは、<戦乙女>という死んだ女を仲立ちに、いわば偶発的に結び付けられていたに過ぎない。テラが戦闘者のギルドとして、王宮との係わりを絶つというのならば、彼の側に引き止める権利などありはしない。
 ――引き止めたかったのか、俺は……?
 巻き込みたくない、傷つけたくない、――遠ざけたい。そう思っていたはずだった。なれば、この寂寞(せきばく)はどうしたことか。
 不意に耳元で、風が喚く音がした。既に季節は冬をむかえ、晴れた日には遠くの山に積もった白銀が、目に痛い程の照り返しを見せる。枯れ枝が打ち合わされ轟音に混じって、こつこつと何かが壁を叩く音がするのは、雪嵐が起こる前触れだろうか。
 いずれにせよ、わずかな風にもひしゃげたように揺れる小屋の中にあって、身を竦めたところで肌を切る風を避け通すことなど不可能に近い。
 握り締めた拳を額に押し当て、強く唇をかみ締めてみる。もう一度、眠ってしまえばいい。そうして目が覚めたなら、きっと忘れてしまう。あれは、いい夢だった。あれほど優しく暖かな時間が手に入るかもしれないなどと、ほんの一瞬、甘く――そして愚かな夢を見た。
 ――忘れてしまえ。
 声にならない声を押し殺し、再び瞼を下ろして瞑目する。
 ――すべてを忘れたところで、胸の奥にぽっかり穿(うが)たれてしまった空間だけは、決して埋まりはしないと、知っていたのだけれど。



 ――2度と、出会うことはない。
 だが決別の誓いは間もなく、最悪の形で破られることとなる。




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