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暁の彼方〜第十一章 国境の街〜




 ――お母さん、泣かないで。
 幼い頃、夜更けに目を覚ますと決まって、母はたった一人、居間の片隅で身をもむようにして泣いていたものだった。
 その足許に駆け寄って、お母さん泣かないで、と。お母さんをいじめる悪い人は、テラが倒してあげるから、と。そう言って涙をぬぐってやりたかったのに、声も出さずに泣き続ける母の姿があまりに悲しくて、いつもいつも、寝室の暗がりから、黙って見ていることしかできなかった。
 それでも夜が明ける前にはテラの隣にもぐりこんできていたし、朝にはいつもの快活なカウラに戻っていたから、きっと彼女は、誰にも知られていないと思っていたことだったろう。だけど娘は――彼女のたった一人血を分けた娘だけは、<戦乙女>が流す涙の色を知っていた。
 ――今になって、思う。
 あの頃、彼女が本当に涙をふいて欲しかった人間は誰だったのだろう。手を差し伸べて欲しかった人間も、駆け寄って抱き締めて欲しかった人間も、きっと、血を分けた娘ではなかったはずだ。
 美貌とあらゆる賛辞をいっぺんに手に入れた女が、本当に欲しかったものは、永遠に彼女のものにはならなかった。そこにどんな思いがあったのか、問いただしてみることはできなかったし、これから問うてみることもできはしない。――そのことだけが、今も悔やまれてならなかった。



 砦の地下を張り巡らされた地下道は、地上よりもさらに、冷え込んでいた。
 山岳地帯であるグリジア王国東部は、他の地方よりも冬の訪れがやや早い。側溝を走る水の流れも、石壁から染み出し床に滴る澱(よど)んだ雫も、半ば近くが凍てついている。
 この地下道を抜けると、衛兵のいる城門を突破せずに砦の外へ抜けられるという。灯火のない暗い曲がり角を折れた瞬間、頭の上から声がした。
「計画通り、馬は外につけてある。――そっちの首尾は?」
「上流の地形図は手に入れた。合流点はわかっているな。街道は封鎖されていないが、人の目にはつくな」
 垣根に取り囲まれた古井戸から頭だけ抜け出し、戦闘者のギルドの若頭目が応(いら)える。落ち合う場所はあらかじめ決めてあった。城砦に程近い場所にあった、大商人の別荘である。その昔、かなりの額の手付けを払ってギルドに依頼し、手強い商売を闇に葬ったが、後に報酬を払うことを拒んで戦闘者のギルドを敵に回し、館は瓦礫と蔓草に覆われた廃墟となった。
「……どうして」
 去って行く背中にむかい、テラは問う。胸の内での問いかけのはずが、気づけば声になっていた。既に城砦内の敷地を抜け、篝火(かかりび)の赤が、古びた城壁を浮かび上がらせている光景が見て取れる。先を行きかけていた男が振り返り、距離を詰めてきた。
「……俺が<戦乙女>を恨むのが、それほど意外か?」
 寒々しい冬囲いの枝の下、剥き出しの腕を左右に組み、真っ直ぐに見据えてくる。父親に良く似た双眸(そうぼう)に、憎悪とも嘲笑ともつかぬ、ひどく生々しい色合いの感情が浮く。
 かつり、と頭の上で音がして、ぱらぱらと何かが振ってきた。見上げた視線の先に、テラが懐に潜ませている短刀に刻まれたものと、同じ形をした龍の文様がある。
 同じ色の龍。同じ形の文様。銀龍の紋は戦闘者のギルドに特有のものだが、その形にはそれぞれ微妙な違いがあった。特に頭領家に代々伝わる紋は、頭領家の直系、もしくはその家に嫁入った女しか手にすることができない独特の紋章である。
「俺は昔から、お前のことも大嫌いだったよ。テラ」
「……知っていたわ」
 情人の娘が、頭領の嫡子に好かれるわけもない。頭領の妻もその子供達も、取り分けテラを虐げたりはしなかったけれど、優しい家族代わりには程遠かった。――無理もない。一体どこの誰が、自分の夫の情人の娘を好んで育てたいなどと思う。テラ自身、その女性を母と呼ぶ気も、彼らを兄弟だと思うつもりもなかったから、冷たくされても文句を言う気にはなれなかった。
 だが、戦闘者のギルドを動かそうと決めた時にはじめて、テラはこれまで切ったことのなかった切り札を使った。
 ――頭領家の紋を刻んだ、銀の龍の短刀。
 そもそも求婚の約定とされる短刀を、未婚の<戦乙女>が持っていたこと自体がおかしい。彼女が未婚であったからこそ、戦闘者のギルドの人間の誰もが、彼らの女戦士が産み落とした娘が誰の胤(たね)であるかわからなかった。
 では求婚の証の短刀が、<戦乙女>の手にあったと知れたなら?
 真偽の程などどうでもいい。先の頭領と戦乙女の娘。その言葉を無視し切れるほど、現在の戦闘者のギルドは統制が取れてはいない。
「――だけど、母さんだって、苦しんでいなかったわけじゃない」
 嫌われても冷たくあしらわれても、仕方がないとは思う。だけど母の孤独と苦悩を、憎しみの一言だけで切って欲しくはない。
 そんなテラの思いを、頭領の息子は一笑に付して見せた。
「苦しんでいれば、それで許されるのか?お前の母親にはそれでも選択肢があった。だが俺の母親にはそれさえもなかったんだぜ」
「……」
「お前の母親は死んだ後にまで、親父に取り付き続けた。ようやく<戦乙女>の亡霊から解放されたと思えば次はお前だ。お前たち母娘は一体どれだけ、他人の人生を滅茶苦茶にすれば気が済むんだ」
 ――お母さん、泣かないで。
 考えたことがなかったわけではない。テラの母・カウラが夜更けに泣いていたように、声を殺して泣いていた人が、もう1人、いるはずだった。婚姻の証の短刀を貰い受けることもなく、常に夫につき従う<戦乙女>という名の情人と、彼女に与えられる賛辞を見続けなければならなかった人が。
 冷たくされても、憎まれていても仕方がない。しかしそうとわかっていても今、向けられる悪意の刃を前に身が竦む。
 人は弱い生き物だ。向けられた悪意の刃には、憤怒(ふんぬ)の盾で対抗したくなる。お前が悪いと攻められれば、そんなことはないと叫びたくなるのが人情だ。
 ――あの人は言わなかった。謝罪の言葉も悔恨も、許しを請う言葉でさえ、ただの一度も口にはしなかった。
 ……強いな。自分が同じ立場に立たされてみて、改めて、心の底からそう思う。あたしにはできない。真似できない。憎悪の剣(つるぎ)を突きつけられて、あれほど優しく微笑むことも。自分にむけられる憎しみのすべてを、黙って受け入れ続けることも。
「あなたがあたし達を恨んでいても構わない。ただ、今のギルドを救う為、ここでサイファ公国軍を足止めして。そうしてすべてが終わったらなら……」
「終わったなら?」
「――あたしは、これを捨てるわ」
 懐から短刀を引き抜き、目の前にかざしてみる。たった一つの母の形見。母が死んだ5年前から、それがテラの生きる道標だった。一度はこの手を離れ、そして再び、テラの手の中へ舞い戻った。その形見を、今度は自らの意思で捨てる。
「……いいだろう。それで今後、ギルドは王国とは一切の係わりを捨てる。戦闘者のギルドの頭領として、俺は組織が二度と王宮と係わることも、黒宰相と係わることも許さない。――テラ、それについてはお前も同じだ」
「わかっているわよ。そんなことは」
 知らず、呼吸を止めていたらしい。ほうっと息を吐いた時、目の前にひらりと一片、白いものが降ってきた。指を伸ばして触れてみても、冷たさを感じない。薄藍色の雲の狭間から地上を見下ろしている、今宵の月の欠片なのかもしれなかった。



 さらさらさら。目に染みる程青い空の彼方から、粉雪が音をたてて降ってきた。雪と呼ぶにはあまりに儚い、硝子(がらす)の欠片のような硬質の雪。だが今年最初に見る、雪の花であることには違いない。
 シルーズの街並みには、国内から訪れたものでさえ、一度は息を呑むのが常だった。全体に山がちの地形で、わずかな平野を奪い合うように点在している他の街とは異なり、この街の街道は広い。街道の両端には商用と住まい用の2層に分かれた建物が延々と立ち並んでいて、また多くの建物に使用されている赤茶けた煉瓦色の建材も、グリジア王国内の他の街ではあまりお目にかかれないものだ。
「――さあ、皆さん寄ってきな。うちの踊り子はただの踊り子じゃあない。王宮舞踏祭で見出され、王宮舞姫に召しだされた本場ものの舞姫だよ」
 本物の王宮舞姫が冬の初めの街中で、舞っているはずもない。それでも人々はそれぞれ足を止め、通りの中央には、人だかりができていた。
 沸き立つ喧騒と熱気。しかしその空気は、これまでのこの街とはやや色を違(たが)えていた。
 現在、街の西を流れる国境・ニジェール河を挟んで東方にグリジア軍、西方にはサイファ公国軍が陣を組み、目に見えぬ牽制を繰り広げている。いったん戦端が開かれれば、この土地が無傷で済むことはありえない。――先の見えない不安に人々は浮き足立ち、同時に享楽的となる。
「聞いたか?ついにサイファ公国軍の後発部隊が、本国を出発したらしいぞ」
「だけどまだ、黒宰相はサイファ兵がグリジアを通過することを認めてないんだろう?」
「だからだよ。こっちにはこれだけの兵がいるんだって、見せ付けて、言うことを聞かせようという魂胆なのさ。グリジアは月英との関係上、西の国境から兵を動かせない。まともに攻められちゃあ、一たまりもないだろうなあ」
 ――いっそのこと、と誰かが言う。
「サイファの目的は月英なんだろう。さっさと無傷で兵を通して、戦をさせてしまえばいい」
 ――それはできないと、誰かが言う。
「月英がこれまでグリジアに攻めてこなかったのは、黒宰相がどっちにも肩入れしてこなかったからだろう。それがサイファに味方したとなっちゃあ、月英最強の騎馬隊ってやつが、槍を持ってせめて来るぞ」
「つまりはどちらにしよ、戦がはじまるってことだ。先の王が死んで6年もたって、ようやくまともな商売ができはじめたって矢先に」
 ――いずれにせよ。と再び誰かが口を開く。
「兵を通すか。戦をするか。いずれにせよ、あと数日で結果が出る。しかし、黒宰相は一体、何を考えているんだろうなあ」
 ――あと数日。
 だがその数日の時間は、残されてはいなかった。
 
 



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